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Cyber Xのブログ一覧

2012年04月07日 イイね!

東京 桜の名所 <千鳥ヶ淵、靖国神社、目黒川 >

東京 桜の名所 <千鳥ヶ淵、靖国神社、目黒川 >4月になり、東京の桜もようやく見ごろの時期になりました。お天気がよかったので、花見の名所といわれる「千鳥ヶ淵」、「靖国神社」、そして「目黒川」を散策してきました。どのスポットも桜見たさにに、多くのひとたちで賑わっていました。






千鳥ヶ淵
旧江戸城「北の丸公園」の北西、濠の一帯を「千鳥ヶ淵」といいます。上野恩賜公園と人気を二分する都内でも有数の花見のスポットです。昨年に引き続き、今年も真っ先に訪れてみました。


千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵の沿道「千鳥ヶ淵緑道」です。この緑道(りょくどう)沿いを歩いてみました。


靖国神社
千鳥ヶ淵から道路を挟んだ反対側に靖国神社があります。「千代田桜まつり」で、ここも大勢のひとたちが参拝に、花見に来ていました。

「靖国の桜」は、明治新政府の木戸孝允(桂小五郎)によって植樹されたのが始まりでした。「靖国の桜」は東京の桜開花を告げる標本木に指定されています。


大村益次郎
長州藩出身で幕末、高杉晋作らとともに倒幕の先鋒に立ち、上野戦争では彰義隊を鎮圧、日本陸軍の祖といわれた大村益次郎の像です。あの西郷隆盛も一目置くほどの人物でした。上野に向けて建てられているそうです。


目黒川
都内目黒川沿い約3.8kmに約800本のソメイヨシノ、ヤエザクラ、シダレザクラなどが咲く、ここも花見の名所です。狭い宅地の間を流れる目黒川の桜は綺麗のひとことでした。



今日はまだ肌寒さが残る一日でしたが、東京の桜を見れて本当によかったと思っています。「目黒川」は初めて行ったスポットで公園ではなく、川沿いを歩いて見るだけでしたが、ここもひとひとひと噂に違わず、素晴らしいスポットでした。千鳥ヶ淵は外国人観光客も多く、中国系の団体客は大騒ぎをして沿道を歩いていました。この時期、桜を見るにつけ、日本っていいな、日本に生まれてよかったな、と思うのはちょっと大袈裟でしょうか。
Posted at 2012/04/07 20:00:01 | コメント(5) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2012年04月03日 イイね!

独眼竜の名城 <仙台城、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿 >

独眼竜の名城 <仙台城、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿 >戦国武将は数多くいますが、男性のみならず、女性にも人気がある武将といえば伊達政宗があげられると思います。東北の米どころ仙台の礎を築いた伊達政宗が築城した「仙台城」と、政宗・忠宗・綱宗三代が眠る「経ヶ峰歴史公園」をブログにしてみました。




日本100名城「仙台城」
仙台城(青葉城)は慶長6年(1601)、徳川家康の許しを得て、岩出山城を本拠としていた伊達政宗が青葉山に築城を開始した平山城でした。平野は奥州街道が通り、海に面した地形は海陸交通の要衝となることや、広瀬川が堀の役目を果たし天然の要害となることがこの地を選んだ理由でした。「千代」を「仙臺」と改め、人口増が見込まれる城下には成長の早い杉の木を植林し、水田開発にも力を注ぎました。
翌年にはほぼ完成し、本丸には「本丸大広間」、「本丸奥」、「懸造り」、「能舞台」をはじめ、櫓や門がありましたが、天守は建てられませんでした。政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)が、徳川家康の六男・忠輝と婚約していたため、家康の目を憚ったのかもしれません。


大手門跡と隅櫓
江戸時代には仙台藩62万石の政庁となりましたが、二代忠宗の時代に平地に二の丸、三の丸が造営され、以降伊達家当主はこちらで政務を執りました。
明治・大正時代にはほとんどの建物が取り壊され、戦前まで「大手門」、「隅櫓」、「巽櫓」が現存していましたが、昭和20年(1945)の仙台空襲で焼失してしまいました。その後、「隅櫓」が復元されましたが、3.11東日本大震災で被災し、今はまだ復旧工事が完了せず、こんな感じで管理されています。


中門跡の石垣
本丸には大手門から坂道を登っていくコースを通ります。その途中にある中門跡の石垣です。
 

本丸北壁石垣
発掘調査により、この石垣は政宗が築城した時代の石垣を覆うように、四代藩主・綱村の時代に積まれた石垣であることが判明しました。寛文8年(1668)の地震により被災した石垣を修復したものでした。


本丸跡
詰門跡の大鳥居をくぐると、本丸跡です。有名な伊達政宗の騎馬像があります。


伊達政宗
幼名を梵天丸といい、永禄10年(1567)に伊達家16代当主・輝宗と、のちに山形城主となった最上義光の妹・義姫の長男として生まれました。5歳のとき天然痘を患い、右目を失明しました。
天正12年(1584)に17代当主となると、急速に勢力範囲を拡張し、天正17年(1589)には南奥州を制圧しました。
しかし、この領土拡張に待ったをかけたのが、豊臣秀吉でした。秀吉は「惣無事令(大名間の私闘を禁じた法度)」違反を理由に会津領を没収すると、天正19年(1591)には一揆を扇動したことを理由に、米沢城から岩出山城に減封、国替えを命じました。

文禄2年(1593)の文禄の役には秀吉軍に従軍しましたが、従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となりました。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して、「伊達者」と呼ぶようになったといわれています。
政宗自身は鎧や兜を黒で統一し、漆を塗って、より光輝くよう工夫をしました。赤や金の軍装が多くなり始めた時代に、黒光する軍装は対照的によく目立つものでした。

慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、禁止されていた大名間の婚姻を徳川家康との間に結びました。
関ヶ原の戦いが起ると、上杉景勝の重臣・直江兼続と戦い、上杉領を奪い獲りましたが、最終的に秀吉に奪われた旧領は奪回できず、62万石で初代仙台藩主となりました。


宮城県護国神社
仙台城本丸跡に昭和25年(1950)に創建された神社です。国有地払い下げの際、買い取ったものですが、仙台市がこれに反発、一部を買い取りましたが、本丸跡は現在も神社の私有地となっています。
また、二の丸跡は東北大学が、三の丸跡は仙台市博物館が所有し、ボランティア・ガイドさんの話によると、これらの関係が処理されないかぎり、復元建築の可能性は薄いとのことです。


神社の境内には有料駐車場と、青葉城本丸会館があって、テナントに青葉城資料展示館と売店や食堂があります。

この店で昼食をとることにしました。仙台名物「牛タン」です。タレを使用せず、塩をまぶして焼いて食べるというものです。仙台産牛タンは2回目ですが、ここの牛タンは少し厚みがあり、噛み応えがありました。

青葉城展示資料館では、15分間のCG映画を上映しており、政宗築城時代の仙台城をより知ることができました。
伊達政宗騎馬像は名残惜しかったのですが、次の目的地に向かいました。


経ヶ峰歴史公園
仙台城から車で15分くらいの場所、経ヶ峰に伊達家を祀る霊廟があります。伊達政宗は生前、遺骸をここ経ヶ峰に葬ることを遺言に残しました。寛永13年(1636)、江戸へ参勤交代の最中、政宗は江戸仙台藩邸で亡くなりました。その翌年に完成した政宗の霊廟が「瑞鳳殿(ずいほうでん)」でした。 昭和6年(1931)に国宝に指定されましたが、仙台空襲で焼失、昭和54年(1979)に再建されたものです。

瑞鳳殿



感仙殿・善応殿・妙雲界廟
二代忠宗(1599-1658)の霊廟を「感仙殿(かんせんでん)」、三代綱宗(1640-1711)を「善応殿(ぜんのうでん)」といいます。また、感仙殿の隣を「妙雲界廟(みょううんかいびょう)」といい、九代周宗(ちかむね)、十一代斉義(なりよし)とその夫人の墓です。


伊達政宗は、慶長16年(1611)に起った慶長三陸地震津波では、津波で荒れた土地を耕し、水田にすることで石高を増やし、江戸で消費する米の3分の1を仙台産が占めるようになりました。
慶長18年(1613)には、スペインと貿易をするため、江戸で宣教師と交渉し、支倉常長を渡航させました。残念ながら、幕府のキリシタン禁教令により実現しませんでした。
ともすれば武功しか目立たない戦国大名ですが、毎日の料理の献立まで作ったというグルメぶりが伊達家の記録に残っているそうです。
独眼竜政宗の人気は、意外とこんな面にあるのかもしれません。
Posted at 2012/04/03 01:00:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年03月26日 イイね!

水戸 梅の名園  <偕楽園 >

水戸 梅の名園  <偕楽園 >今月末まで水戸偕楽園で催されている「水戸梅まつり」に行ってきました。偕楽園は岡山後楽園、金沢兼六園と並び日本三名園といわれる名園です。今年でちょうど開園から170年を迎えた「偕楽園」をブログにしてみました。







偕楽園
偕楽園は水戸藩9代藩主・徳川斉昭(烈公1800-1860)によって天保13年(1842)に開園されました。入園できる者は当初は武士と限られていましたが、次第に領内の領民にも開放されていきました。「偕楽園」の由来は、「領民と偕(とも)に楽しむ場にしたい」という目的で命名されました。
ちょうど3月の最終日曜日と好天が重なって、駐車場までは1時間待ち、想像した以上のひとが梅まつりを見ようと押し寄せていた“超満員”の偕楽園でした。


表門
 

一の木戸


孟宗竹林


吐玉泉
大理石から、玉のような澄んだ水をたゆまなく吐くので、「吐玉泉(とぎょくせん)」と名付けられました。水が湧き出るのは仕掛けがあって、造園当時から一度も水枯れしたことがないもので、徳川斉昭の考案だそうです。偕楽園の名物のひとつで、多くのひとだかりができていました。


好文亭
偕楽園のランドマークといえる「好文亭」に行ってみることにしました。好文亭は徳川斉昭によって、休憩所として建てられた木造三階建ての建物で、いちばん上の「楽寿楼」からの眺望は人気のスポットで、料金所から長蛇の列でした。好文亭は、昭和20年(1945)の水戸空襲で焼失後、復元されたものです。偕楽園はこの種の庭園としては珍しく入園料はかかりませんが、好文亭は唯一有料となっています(大人190円、小・中学生100円)。
また、好文亭の由来は、梅の異名「好文木」からついたものです。


楽寿楼から見える「千波湖」です。
 

田鶴鳴梅林(たづなきばいりん)です。


13haもある広大な敷地には、約百品種、三千本の梅が植えられています。偕楽園をひととおり歩いた感じでは、ドーム球場が軽く5つくらいは入る、そんなイメージの大きさです。


見晴広場
「水戸の梅まつり」メイン広場です。祭り太鼓の催しです。


左近の桜
「左近の桜」は、徳川斉昭夫人・登美の宮が降嫁の際、仁孝天皇(にんこうてんのう)から下賜されたのが最初で、現在の桜は京都御所紫宸殿から昭和38年(1963)根分けされたものです。桜はまだつぼみでした。


第50代「2012 水戸の梅大使」
毎年、「梅大使」のお嬢さんたちが公募され、水戸の梅まつりに花を添えます。初代「梅娘」から数えて今年は50代目にあたります。


偕楽園は3.11東日本大震災で被災し、昨年の水戸の梅まつりは中止になりました。好文亭は壁が崩れ、園内も大きな損傷を受けましたが、ほぼ1年かけてこの2月に完全復旧し、今回の梅まつりに間に合うことができました。
これだけ規模の大きい公園ですが、好文亭を除く園内は無料で開放しています。岡山後楽園や金沢兼六園は有料ですが、日本3名園といわれる偕楽園が無料開放を続けているのは、170年前開園時の徳川斉昭のコンセプトを現在も引き継いでいるからだそうです。
「皆と偕に楽しむ」、170年たった現在でも、その伝統が脈々と生きているのでした。
Posted at 2012/03/26 23:00:07 | コメント(5) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2012年03月04日 イイね!

武蔵の名城 <江戸城(皇居東御苑、皇居外苑) 、井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)>

武蔵の名城 <江戸城(皇居東御苑、皇居外苑) 、井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)>3月3日ひな祭りの日は、東京近辺は最近になく暖かく陽気もよかったので、皇居を散策してきました。
皇居は徳川幕府の江戸城であった敷地に、明治元年(1868)年10月に皇居となり、翌2年(1869)3月、明治天皇が京都御所より住まいを移し、現在に至っています。皇居の内、「皇居東御苑」と「皇居外苑」は、「江戸城」の櫓や石垣など多くの史跡を見ることができます。また、皇居は「江戸城」として、日本100名城に指定された武蔵国を代表する城郭です。この「江戸城」をブログにしてみました。

皇居東御苑
江戸城の本丸、二の丸、三の丸部分を皇居東御苑といい、国の特別史跡に指定されています。


大手門
江戸城の正面入口にあたる「大手門」です。江戸城の各門の特徴は「枡形門(ますがたもん)」と呼ばれ、外側と内側が二重門になっており、進路は必ず直角にしてありました。外側を「高麗門(こうらいもん)」、内側を「渡櫓門(わたりやぐらもん)」といい、防御のための工夫が施してありました。万一敵に攻められたときに、高麗門を突破されても、渡櫓門で足止めさせ、弓や矢で攻撃できるようにしてありました。


大手三ノ門跡と同心番所
江戸城へ登城するには、「大手門」、「大手三ノ門」、「大手中ノ門」と「中雀門(書院門)」の計4つの門を通らなければなりませんでした。また、各門には「番所」が設置され、この大手三ノ門には「同心番所」が置かれていました。
ここでは与力や同心といった者が警備を行い、ここを馬に乗ったまま通過できるのは、尾張、紀伊、水戸の御三家だけで、他の大名は駕籠や馬から降ろされ、検問を受けました。


百人番所
大手三ノ門跡を通過すると、大手中ノ門跡手前に今度は「百人番所」があります。鉄砲百人組といわれた与力や同心たち100人が配置され、昼夜を問わず警護にあたっていた番所です。昭和30年代に復元された建物だそうです。


大手中ノ門跡と大番所
登城の際、通過する最後の大番所です。他の番所よりも位の高い与力や同心が警護にあたっていました。


中雀門跡
大番所を通過し、本丸入口の「中雀門(書院門)跡」へ向いました。緩やかな坂道です。
「中雀門跡」です。

ようやく本丸です。少し先に「本丸天守台」が見えてきました。



松の大廊下跡
本丸天守台の手前に、元禄年間に赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷事件を起こした「松の大廊下跡」があります。


江戸城本丸天守台
江戸城の天守は3度にわたって修築されました。最初の天守は慶長12年(1607)に完成しました。
2度目は元和8年(1622)に完成し、3度目は寛永15年(1638)に完成しました。いずれの天守も「天下普請」で、将軍が諸大名に命じて造らせたものでした。
ところが、明暦3年(1657)の大火事・明暦の大火により、寛永期の天守は焼失してしまいました。江戸市民10万人もの死傷者を出だしたとも伝えらえる大火事は、濠と石垣で防御した天守も焼けつくしてしまいました。
4度目の天守再建に着手しましたが、三代将軍家光の異母弟で初代会津藩主となった保科正之が、町の復興に全力を注ぐべきとの進言があったため、工事は中断され、その後天守が再建されることはありませんでした。
いままで幾つかの天守台を見てきましたが、これほど綺麗で、またこれほど巨大な天守台は見たことがありません。まさに、天下人徳川将軍家に相応しいお城であったというのがよくわかります。



次は天守台の裏にある「北詰橋門(きたはねばしもん)」と「平川門」に向かいました。


北詰橋門
江戸城天守台に最も近い位置にある「北詰橋門」です。この門は重要地点にあることから、濠を深くし、石垣も他の場所よりもより高く堅固にしてあり、橋を跳ね上げる仕掛けになっていました。
現在の橋(復元)は固定された橋となっています。


平川門
徳川家康が江戸へ入る前、太田道灌(1432-1486)の時代からここに門があって、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあったそうです。
この門は江戸城の艮(うしとら)の方角(東北)、つまり鬼門にあたるため、「不浄門(ふじょうもん)」とも呼ばれ城内の死者や罪人を出す特殊な用途の門でもありました。また、「御局御門(おつぼねごもん)」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されました。
お福(春日局)が門限に遅れて、この門前で一夜を過したという逸話も残っています。


二の丸庭園
「皇居東御苑」から今度は、「皇居外苑」に行ってみることにしました。

皇居外苑
大手門の南側、桔梗濠に面したまずは巽櫓(桜田二重櫓)からです。

巽櫓
櫓とは、倉庫や防衛の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、「伏見櫓」、「富士見櫓」とこの「巽櫓」の3つしか残っていません。うしろに小さく写っているのが「富士見櫓」です。
明暦の大火で焼け落ちた天守の代用として、「富士見櫓」が使われたそうです。いずれも貴重な現存建築です。


桔梗門
 

坂下門と宮内庁



二重橋と伏見櫓


楠正成
南北朝時代に後醍醐天皇が京都に向けて進軍途中に、楠正成が天皇一行を出迎えた時の姿をかたどったものがこの銅像だそうです。
上野恩賜公園の西郷隆盛、靖国神社の大村益次郎とをもって、「東京の三大銅像」というそうです。


桜田門


井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)
桜田門から桜田濠沿いに200~300m半蔵門寄りに歩くと、「国会前」信号機があります。この脇は現在は憲政記念館の所有地ですが、江戸時代初期には肥後熊本初代藩主・加藤清正の江戸屋敷がありました。二代忠広の時、加藤家は改易され、その後は彦根藩江戸屋敷となりました。
有名な幕末に起った大事件、桜田門外の変はこの彦根藩邸から井伊直弼が桜田門外にさしかかった時、水戸浪士らに暗殺された事件でした。

彦根藩邸跡から桜田門方面です。登城途中のこの僅かな距離で井伊直弼は暗殺されました。 徳川幕府滅亡のきっかけともいえる大事件でした。


江戸の名水「櫻の井」
彦根藩邸前には江戸時代、名水井戸といわれた有名な井戸がありました。三本の釣瓶を下ろすと、
一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられたそうです。この井戸跡が、その名水「櫻の井」井戸跡です。加藤清正が掘ったと伝えられています。
歌川広重の浮世絵にも描かれるほど有名な井戸であったそうです。


「櫻の井」の真下を通る首都高です。その先に見えるのは半蔵門になります。東京FMはここからオンエアしています。


日本100名城「江戸城」をブログにしました。現存する濠や石垣、天守台や櫓は、何度見ても素晴らしいし、また、それらの旧跡が周りのビル群と何ら不自然さもなく調和しているのは、日本の首都東京ならではの風景かもしれません。
関東地方の日本100名城は全部見ましたが、関東のお城では江戸城は最も好きなお城です。 昨年、金山城(群馬県)でボランティアの方に関東の100名城でいちばんよかったのはどこでしたか、と聞かれたとき、迷わず「江戸城」と答えたことを覚えています。
今回、皇居東御苑と皇居外苑を見ましたが、しばらくしたら、また行ってもいい、そんな印象の名城でした。
Posted at 2012/03/04 02:00:21 | コメント(6) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年02月25日 イイね!

下総の名城 <佐倉城、本佐倉城跡、千葉城 >

下総の名城 <佐倉城、本佐倉城跡、千葉城 >千葉県北部はかつて、下総(しもうさ)国と呼ばれ、中世まで千葉氏が支配しました。千葉氏支配の本拠となった千葉城、本佐倉城(もとさくらじょう)、そして日本100名城佐倉城をブログにしてみました。





日本100名城「佐倉城」
佐倉城は天文年間(1532-1555)に、本佐倉城主・千葉親胤(ちば ちかたね)が一族の鹿島幹胤(かしま みきたね)に命じて築城を開始しましたが、完成前に親胤は家臣に暗殺され、幹胤も一時期ここに館を構えましたが、死去により工事は中断しました。
天正年間に千葉邦胤(ちば くにたね)が中断された工事を再開し、この地に本城を移そうとしましたが、邦胤は天正13年(1585)に家臣に殺され再び工事が中断、天正18年(1590)の小田原の役後、北条方であった千葉氏は滅亡しました。
慶長15年(1610)に徳川家康の命で土井利勝が小見川領から佐倉領に入封し、未完の鹿島城を整備拡張し、現在の佐倉城が築かれました。
佐倉城からは徳川家康の重臣・土井利勝や幕末の老中・堀田正睦(ほった まさよし)ら幕閣の中心となった人物がでています。

佐倉城大手門跡
佐倉城はこの道を直進します。現在は道の両脇に佐倉中学校と佐倉東高校がありますが、かつてはこの場所に大手門がありました。


大手門跡を直進すると、広い空き地があってそこが駐車場です。


堀田正睦(1810-1864)
下総佐倉藩第5代藩主で、老中首座・堀田正睦は安政5年(1858)米国総領事タウンゼント・ハリスが日米修好通商条約を求めてくると、孝明天皇の勅許を得るため上洛を果たしました。
しかし、孝明天皇が攘夷派であったため、勅許は得られず帰国するはめになりました。
同年、13代徳川家定が倒れると、14代将軍継嗣問題が起き、紀伊徳川慶福を推す南紀派と徳川慶喜を推す一橋派が対立することになりました。
攘夷を唱える慶喜の父・水戸藩の徳川斉昭とは意見が合いませんでしたが、勅許を得るためには朝廷に近かった一橋派に着くことが肝要と考え、一橋派に路線を変えました。
ところが、正睦が上洛中に南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、徳川斉昭と対立した井伊は城内から一橋派を一掃し、正睦は老中職を解任されてしまいました。
佐倉城で蟄居し、元治元年(1864)に死去しました。
地元佐倉では最も有名なお殿様で、息子正倫(まさとも)が居住した「旧堀田邸・さくら庭園」が現存、公開されています。



タウンゼント・ハリス(1804-1878)


佐倉城は桜の名所で至る所に桜の樹が植えてあります。


本丸跡


天守閣跡


夫婦モッコク(佐倉市天然記念物)


土塁


馬出し空濠跡
 



佐倉城の礎石
昭和59年(1984)に国立歴史民族博物館の研究棟を建設するために発掘調査をしていたところ、旧陸軍の兵舎跡から出土した佐倉城時代の礎石です。
この場所に旧陸軍の兵舎を建てる際に、佐倉城の建物を取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したものです。


 

水堀



本佐倉城跡
佐倉城から東へ3kmほどの将門山にあった本佐倉城跡です。慶長15年(1610)に土井利勝が佐倉藩の藩庁を置きましたが、鹿島台に佐倉城が完成すると、一国一城令により廃城となりました。
文明年間(1469-1486)に築城された千葉氏後期の本拠地で、千葉県下の城では唯一、国の史跡に指定されています。


東山馬場
「国史跡 本佐倉城跡」の石碑を進むと、ここ「東山馬場」です。ちょうどこの馬場跡が駐車スペースになっていました。


本佐倉城の縄張り
合計7ヶ所の郭(くるわ)で構成されています。 まず、城山に行ってみることにしました。


城山




奥ノ山



倉跡
現在、発掘調査をまだ行っている最中のようです。伐採した樹木を機械で裁断しています。


東山


ビューポイント
空気が乾燥している日には、正面に筑波山が見えるそうです。また、京成本線の線路が通っています。


本佐倉城は千葉氏宗家が滅びた後に千葉輔胤(ちば すけたね)によって築城されました。輔胤は、享徳3年(1454)に始まる関東の動乱のなかで千葉宗家を継いだ人物で、千葉氏代々の居城であった「千葉城」が戦場になり荒廃したため、「本佐倉城」を築いて新たな千葉氏の居城としました。「本佐倉城」は、以後百有余年にわたる戦国時代を通じて下総の中心となり、千葉家の当主9代が城主として下総を治めていました。
大永年間(1521)頃、最初の城の改修と城下の整備が終わり、城を中心に家臣や商人が集められ、武家屋敷や町屋・市の形成が進みました。


千葉城
学術的には「亥鼻城(いのはなじょう)」というのが正しい呼称かもしれませんが、地元のひとたちは大抵「千葉城」といいます。
千葉常胤(ちば つねたね 1118-1201)がこの亥鼻周辺に館を築きました。鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝に従い、常胤は亥鼻館を本拠に下総国、上総国の支配権を確立したと伝えられています。
享徳4年(1455)に千葉氏宗家を継いだ千葉輔胤が本拠地を本佐倉城に移すまで、千葉氏の本拠は亥鼻館でした。


千葉市立郷土博物館
千葉城は小田原城をモデルとして、昭和42年に建てられた鉄筋コンクリート造り4層5階建ての模擬天守です。現在千葉市立郷土博物館として千葉氏に関する資料の展示や調査研究を行っています。

千葉常胤坐像


この表の像も千葉常胤をモデルにしています。


下総国の拠点、千葉城、本佐倉城、佐倉城と見ましたが、この3つの城はそれぞれ個性が異なるお城でした。
「千葉城」は千葉常胤をはじめとする千葉氏が下総国、上総国を支配した12世紀後半から15世紀半ばまでの館跡にできた鉄筋コンクリート造り4層5階建ての模擬天守で、千葉市の花見のスポットとして人気のある公園兼博物館でした。
「本佐倉城」は、内陸部の丘陵地帯(将門山)に築いた山城で、千葉県下で唯一国の史跡に指定された現在も発掘中の中世的な城跡でした。
「佐倉城」は石垣や天守・櫓などない城跡ですが、日本100名城に登録され、桜や梅、また国立歴史民族博物館が立地する佐倉市民憩いの公園でした。

背景にある歴史を紐解くと、また別の見え方がするものですが、三者三様、今回も楽しいお城見物ができました。

Posted at 2012/02/25 16:00:03 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

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