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SHOのブログ一覧

2021年02月27日 イイね!

私とバイクの話 -諦め-

私とバイクの話 -諦め- 17歳=高校2年生の2月に大きな事故に遭って3ヶ月。
季節は冬から春になりました。

5月の半ばから戻りたかった高校へ戻れました。
今考えると退学処分を受けてもおかしくないのですが
学校に行って指導室へ入った記憶すらありません。
席は2年生から3年生に進学してました。
学年末テストを受けてないのにどうしてなんだろうか。。。?

おおらかな時代だったのかもしれないし、
あの頃だったからこそ許されていたのかもしれません。
今の時代だと即退学処分ものと思います。

高校に戻ってからは勉強は周りに置いて行かれないようにしたと思います。
それよりも体力回復に筋力回復に努めました。
体育の授業はみんなとは別メニューで1人グランドの片隅で腕立てや腹筋などの
基礎的な運動ばかりした記憶があります。
とにかく左手の握力と持続力を回復したくて色々と思い付いたことはやりました。
学校が終わって時間のある日は病院に行ってリハビリも続けました。
でも結果は左手の状態は良くなりませんでした。

時は少し経ってその年の冬くらいにどういった経緯かは忘れちゃいましたが
高校の友人からバイクを1日貸してもらえることになりました。
何年式かは憶えてませんがたぶん90モデルのGSX-R 400Rだと思います。
(タイトル写真の車両でスズキカラーでした)

で、半年ぶりくらいに乗ったのですが。。。乗るのは乗れました。

ただ、左手の握力が持続しないためクラッチを握るのが苦痛。。。
シフトチェンジする度にクラッチを握るので少し走っただけで左手が悲鳴を上げます。
普通に走って1時間程度の目的地までの間、何度か停まって握力回復を待ちながら走りました。
ミッション車はクラッチ操作が必須なので左手の握力が無いのは致命的。

分かってはいたもののその現実に向き合った時「やっぱり乗れない」と気が付いたのでありました。

その後、何度か父親のバイクを黙って乗ったり友人のバイクに乗りましたが
やっぱり左手の握力が付いて行けず(持続できない)に諦めたくないけど
諦める選択肢を選ばざるをえませんでした。。。
Posted at 2021/02/27 17:00:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | バイクの話 | 日記
2021年02月25日 イイね!

私とバイクの話 -3ヶ月という時間-

私とバイクの話 -3ヶ月という時間- 集中治療室=ICUで懸命の治療を1週間受けて
命を落とすことなく今日に至っています。
これは主治医のY先生と看病してくれた看護師さんのおかげ。
本当に感謝するばかりです。ありがとうございました。

ICUを出たあとは一般病棟のベッドに移って引き続き入院。

命拾いしても身体は左半分が大きく損傷を受けてる状態でした。
内容は以下の通り

左側の肋骨は何本か忘れましたが折れていた(5本以上)
→治療できないので自然治癒
左側の肺は血が溜まって機能できない状態
→チューブを脇から肺へ2本入れて血を抜いてもらった
→血がなくなったのでチューブを抜いてもらいましたがその1週間後に再出血が確認されたため
 急きょチューブを1本入れ直して再度出た血を抜いてもらう
五臓六腑は大丈夫と判断されたみたいでしたが一般病棟へ移動した後
1週間ぶりに飲み物(オレンジジュース)を飲んだところ
のどの奥、というか身体の奥で痛みがあったので調べると脾臓(ひぞう)の数値が高かった
→入院して約1ヶ月半の間、点滴で栄養を取り絶食する日々
 唯一許されたのは風邪の時になめるトローチ(ドーナツ型)1日6粒程度もらって耐えました
 おもゆ(米粒なし)から始まり七分粥まで段階を踏みましたが退院するまで
 ごく普通のごはんというものは食べれませんでした
左手首は複雑骨折
→命を救うことが優先されたため自然治癒
 これにより握力を半分失うことになりました。またグーパーグーパーの繰り返えす
 持続力がなりました=クラッチ操作が長時間できない理由


入院してる間は母親が毎日のように来てくれて欲しいとお願いしたものは
買ってきてくれたり持ってきてくれました。
食べ物以外の着替えや必要なものを軽い重い関係なく持ってきてくれました。
あの時は当たり前だと思ってましたが考えてみると当たり前じゃないんですよね。
今頃になって母親には申し訳なく思います。

まだ頭が回ってない時に警察官が病院側に許可を取ったかどうか不明ですが
づかづかやって来て私の受け答えもうまく出来ないまま調書を作り上げられました。
今では考えられない話だけどこれは事実。
警察官の憶測の元で事故の調書を作り上げられたのは今考えても腹立たしいし許せない。
今となっては誰にも言えなくなってしまった話だけど悔しい出来事です。



入院してから1ヶ月半が過ぎてようやく脾臓の数値が下がったので
わずかな量ではありましたが食事を出してもらえるようになりました。
栄養を口から摂取できるようになったのでずっと付けていた点滴が取れて
朝晩の点滴(30分程度x2)だけで済むようにもなりました。

普通のごはんではないものの自分の口から栄養を取ると元気が出てきて
体力もないし身体も完全じゃないのに「いつ退院できるのか?」と
毎日誰かに聞いてた記憶を文面化してるうちに思い出しました。

あの頃は、急いでたんです。焦ってたんです。早く戻りたかったんです。
いつもの生活に。いつも行く学校に。そして相棒の元に。。。

でも主治医は許してくれるわけもなく入院生活を過ごすのですが事故から約3ヶ月後の
ゴールデンウイークが明けた頃、なんとか退院の許可をもらって無事に退院することができました。

命を救ってくれた主治医のY先生にたくさんの看護師さんには感謝してます。
24時間体制でずっと見て頂いたからこそ治ったのですから。

私を心配して何度もお見舞いに来てくれた親友に感謝してるし
私の代わりに家の仕事をずっと手伝ってくれていた親友にも感謝してます。

両親には頭が上がりませんでした。
当然ながら「二度とバイクには乗るな」と言われました。
乗れると思ってただけにショックだったのは言うまでもありません。
反論の余地はありませんでした。。。

今の自分は親の立場になってるので同じ立場になってしまった場合は同じことを言うでしょう。

それだけのことに遭ってしまったということです。


3ヶ月という時間は今となっては短い時間ですが当時の私にとっては長い長い時間。
待ち遠しく耐えに耐えた3ヶ月間という時間でした。
Posted at 2021/02/25 15:00:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | バイクの話 | 日記
2021年02月23日 イイね!

私とバイクの話 -人生岐路の日-

私とバイクの話 -人生岐路の日-  今から30年前の1991年2月14日。
この日は平日で学校のある日でした。

朝の陽射しが金色にまぶしい日。
朝食は食パン。
マーガリンぬってグラニュー糖ふりかけて。
食べたあとはいつも通り家を出ました。
ただ、いつもは自転車ですがこの日はバイク。
エンジンをかけず押して少し離れた場所まで移動。
ハーっと息を吐けば白くなる寒さ。
金色にまぶしい陽射しと吐いた息の白かったこと、
チョークを引いて相棒を暖気した記憶は今でもハッキリ憶えてます。


でもこの先が全く憶えてません。記憶が飛んでます。


憶えてるのは動く車の中で「名前言えるかなー?」と聞かれるので
「○○○○」と答えるんだけど
「大きな声で名前言えるかなー?」と。
「だから○○○○って言ってるやろー!!」と大声で言ってるつもりでしたが声が出てなかったのか。
それ以外は「電話番号言えるかなー?」とか「住所言えるかなー?」など。
遠くでピーポーピーポーとサイレンが鳴ってる中、車内の誰かが
「○○(病院名)は受け入れどうですか?」とか言ってたような記憶がうっすら残っています。


そこからまた記憶がなくて次に見た記憶が自分の寝てるベッドの周り3方に
見たことのない機材が山ほど並んでるのと点滴液のパックが何本かの棒に
たくさんぶら下がってる状態。たしか最大で12~3個あったんじゃないでしょうか?
左手首には添え木が包帯で固定されてたと思います。
何時間経った後かは不明ですが父親の顔を見た時になぜか「ごめんな」と言った記憶もあります。



上記の記憶を簡単にまとめると
事故に遭って救急車に乗り病院へ搬送され集中治療室=ICUで懸命の治療を1週間受け
生きるか死ぬかの狭間をさまよった結果、運よく生きる道に導かれたみたいです。

この1週間は錯覚なのか夢なのか、それとも本当のことなのか、
とにかく色々なものを見たと思うのですがどれももう忘れちゃいました。。。


なんでもできる。なんでも自分の思い通りになる。と信じていたわずか17歳の大バカ者。


今の自分から見れば生き急ぎ過ぎた結果だったと思うし何に対しても焦ってたんだと思う。
もっと先に楽しい時間が待ってるから今は我慢とどうして考えられなかったんだろう。
どうして今やるべきことにじっくり腰を据えて向き合えなかったんだろう。

後悔しても後悔しきれない30年前のこの日。初めて大きな岐路に立った日です。
Posted at 2021/02/23 15:00:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | バイクの話 | 日記
2021年02月22日 イイね!

私とバイクの話 -迷走-

私とバイクの話 -迷走- バイク=相棒は私にとって宝物でした。

走行に関しては
バイク仲間とツーリング行ったりくねくね山道を走行したり。
それはそれは知らない世界ばかりで楽しい世界。
動いてない時は
見るだけ満足だったし
相棒にまたいでライディングポジションを確認するだけで満足。
アフターパーツのアレを入れよう。とか
コレを入れたらイイだろうな~なんて妄想ばかり。

乗ってヨシ、見るだけでもヨシのもうそれは夢のような時間でした。


ただ平日は学校が終わると家の仕事の手伝い=バイト。
土曜日は今と違って午前中だけ学校でしたが家に帰るとやっぱり家の仕事の手伝い=バイト。
日曜日は朝から晩までやっぱり家の仕事の手伝い=バイト。
厳しい家でしたので夜の外出は暗黙の禁止。バイクに乗る時間が思うように取れない日々でした。

バブル期真っただ中だったので学校のテスト期間(テスト前)以外は
家の手伝いをしないと仕事が回らない状態でした。
なので作業してる場所から見える相棒を横目に見ながらの毎日。。。

父親と私だけじゃ仕事は回らないので私の友人にも声をかけて手伝ってもらってました。
何人か手伝いに来てもらいましたが最終的に親友の1人がずっと手伝ってくれて
高校卒業までサポートしてくれたと記憶しています。。。
(そこら辺の記憶が曖昧なので今度電話して聞いてみよう)


バイト代でお金は人より多く持ってたはずなのに当時はガソリン代に困るコトが多く
ガソリン満タンじゃなく500円だけ給油とか1000円だけ給油したような記憶あります。
今もそうだけど、なんで財布の中にお金入ってなかったんだろ???(笑


この頃、学校での友人関係がうまく行ってなかったワケじゃないけど
なんだか自分の中でうまく行ってない、できていない、その気持ちを相談できる友人が
いなくて自分自身をどうしていいか分からなくなってました。
勉強の方も前半は右肩上がりでしたが2学期後半から頭打ちで右肩下がりの状態。
授業の内容が難しくなってだんだんと付いて行けなくなってしまって半分投げやり。
彼女が欲しくても性格が性格だから誰も相手にしてくれないし(爆
でも自分では「ヲレ、イケてるし」みたいなw ←鏡を見るたび思ってたw

何もかも自分では頑張ってたつもりだったけど
歯車がかみ合わず空回りばかりしてるのが分かっていたし、
追い求めていた結果に辿り着こうとしていても辿り着けなくて自分自身どうしていいか
分からなくなった時にふと「今の状態ならもう死んでもいいかな?」と思ったことを憶えています。


そんなある日に親友の1人と一緒にバイクに乗って近所へお出かけして写真を撮りました。
親友のバイクは私と同じモデルで同じ色。ゼッケンナンバー24が私で35が親友。

親友のゼッケンナンバーには理由があって今でも憶えてます。本人はどうか不明ですがw
一方の私は特に理由はナシ。
ただホントは自分の誕生日である25にしようと思ってたんですが
カッティングシートでキレイに曲線を切り抜くのはなかなか至難の業なので
2はなんとか作ったものの5は作る気になれず直線定規で作れる4を作っての結果。
コレを相棒に貼り付けたあと父親に「なんで24なんか貼ったんや!」と叱られました。
ハッキリとは憶えてませんが4という数字は「死」につながる的なコトを言われたと思います。



こうやって2台のバイクを見るとお互いステッカーチューンでアピールしまくりですね(笑

違う高校だったしそれぞれバイトの都合で2台一緒に走るコトはあまりなかったと思います。
今考えるともっともっと一緒に走っておくべきだったし、写真も撮っておくべきでした。
デジカメだったらメモリーの容量ある限り撮れますが当時は24枚撮りのフィルム。
現像代やらプリント代やらかかるので1枚撮るのにも慎重だったかもしれません。


こうやって並べて撮れるコトは今振り返るとホント幸せでした。
当時の自分は嬉しかったと思います。いや、間違いなく嬉しかったはず。

コレが当たり前でこの当たり前がずっと続くものだと思っていたし終わらないと思ってました。

アップした写真の日付を見ると撮影日は「’91 2 11」
つまり1991年2月11日。

タイトルの写真は当時の私です。親友に撮ってもらいました。





この日から3日後の2月14日に私は人生を左右する大きな事故に遭いました。。。
Posted at 2021/02/22 18:18:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | バイクの話 | 日記
2021年02月14日 イイね!

30年前の今日

ホントウソみたいな話ですが
30年前の今日、
自分の人生で大きな出来事を起こしました。

あの日の朝に戻れるなら戻りたいし
あの日の自分に言えるなら言ってあげたい。

17歳の自分は何でもできるんだと自信過剰だった
世間知らずバカヤロウに。。。
Posted at 2021/02/14 10:10:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | バイクの話 | 日記

プロフィール

「@おゆじ さん
遅くなって申し訳ありません。
パンケーキまでとは行きませんが軽量で好感持てます。
データ確認しましたが四隅も減光せず流れるコトもないのが、とにかく価格がネックです。。。」
何シテル?   03/18 21:22
初めての車は真っ赤なビート。 ワゴンRを2台乗り継ぎ11キューブキュービックに乗り換え。 この乗り換えを機にみんカラ登録。(2004年の話) 10年後...

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