バイク=相棒は私にとって宝物でした。
走行に関しては
バイク仲間とツーリング行ったりくねくね山道を走行したり。
それはそれは知らない世界ばかりで楽しい世界。
動いてない時は
見るだけ満足だったし
相棒にまたいでライディングポジションを確認するだけで満足。
アフターパーツのアレを入れよう。とか
コレを入れたらイイだろうな~なんて妄想ばかり。
乗ってヨシ、見るだけでもヨシのもうそれは夢のような時間でした。
ただ平日は学校が終わると家の仕事の手伝い=バイト。
土曜日は今と違って午前中だけ学校でしたが家に帰るとやっぱり家の仕事の手伝い=バイト。
日曜日は朝から晩までやっぱり家の仕事の手伝い=バイト。
厳しい家でしたので夜の外出は暗黙の禁止。バイクに乗る時間が思うように取れない日々でした。
バブル期真っただ中だったので学校のテスト期間(テスト前)以外は
家の手伝いをしないと仕事が回らない状態でした。
なので作業してる場所から見える相棒を横目に見ながらの毎日。。。
父親と私だけじゃ仕事は回らないので私の友人にも声をかけて手伝ってもらってました。
何人か手伝いに来てもらいましたが最終的に親友の1人がずっと手伝ってくれて
高校卒業までサポートしてくれたと記憶しています。。。
(そこら辺の記憶が曖昧なので今度電話して聞いてみよう)
バイト代でお金は人より多く持ってたはずなのに当時はガソリン代に困るコトが多く
ガソリン満タンじゃなく500円だけ給油とか1000円だけ給油したような記憶あります。
今もそうだけど、なんで財布の中にお金入ってなかったんだろ???(笑
この頃、学校での友人関係がうまく行ってなかったワケじゃないけど
なんだか自分の中でうまく行ってない、できていない、その気持ちを相談できる友人が
いなくて自分自身をどうしていいか分からなくなってました。
勉強の方も前半は右肩上がりでしたが2学期後半から頭打ちで右肩下がりの状態。
授業の内容が難しくなってだんだんと付いて行けなくなってしまって半分投げやり。
彼女が欲しくても性格が性格だから誰も相手にしてくれないし(爆
でも自分では「ヲレ、イケてるし」みたいなw ←鏡を見るたび思ってたw
何もかも自分では頑張ってたつもりだったけど
歯車がかみ合わず空回りばかりしてるのが分かっていたし、
追い求めていた結果に辿り着こうとしていても辿り着けなくて自分自身どうしていいか
分からなくなった時にふと「今の状態ならもう死んでもいいかな?」と思ったことを憶えています。
そんなある日に親友の1人と一緒にバイクに乗って近所へお出かけして写真を撮りました。
親友のバイクは私と同じモデルで同じ色。ゼッケンナンバー24が私で35が親友。
親友のゼッケンナンバーには理由があって今でも憶えてます。本人はどうか不明ですがw
一方の私は特に理由はナシ。
ただホントは自分の誕生日である25にしようと思ってたんですが
カッティングシートでキレイに曲線を切り抜くのはなかなか至難の業なので
2はなんとか作ったものの5は作る気になれず直線定規で作れる4を作っての結果。
コレを相棒に貼り付けたあと父親に「なんで24なんか貼ったんや!」と叱られました。
ハッキリとは憶えてませんが4という数字は「死」につながる的なコトを言われたと思います。
こうやって2台のバイクを見るとお互いステッカーチューンでアピールしまくりですね(笑
違う高校だったしそれぞれバイトの都合で2台一緒に走るコトはあまりなかったと思います。
今考えるともっともっと一緒に走っておくべきだったし、写真も撮っておくべきでした。
デジカメだったらメモリーの容量ある限り撮れますが当時は24枚撮りのフィルム。
現像代やらプリント代やらかかるので1枚撮るのにも慎重だったかもしれません。
こうやって並べて撮れるコトは今振り返るとホント幸せでした。
当時の自分は嬉しかったと思います。いや、間違いなく嬉しかったはず。
コレが当たり前でこの当たり前がずっと続くものだと思っていたし終わらないと思ってました。
アップした写真の日付を見ると撮影日は「’91 2 11」
つまり1991年2月11日。
タイトルの写真は当時の私です。親友に撮ってもらいました。
この日から3日後の2月14日に私は人生を左右する大きな事故に遭いました。。。