2012年03月23日
メディアとして発信するということ
とにかく疑って掛かることだと思っている。自動車の評論は、とくに国内外の自動車メーカーの新車についてのそれは、ニュースソース(情報源)のほとんどが当該メーカーによってもたらされます。
担当する多くの人材に取材をし、技術情報のレクチャーを受けた後に当該車両のテストドライブを行い、その感想なり印象なりを元にリポートに仕立て上げる。これがいわゆる試乗記といわれる記事の一般的な作られ方です。
もちろん下地となる知識や情報は、それぞれの出自や教育、職業経験などの時間軸によって異なるはずですが、製品に関する情報がほぼ一方的に生産者側からもたらされるという事実に変わりない。リポートを著すライターの取材力と表現力が記事のクォリティと多様性の源泉ということになるわけですが、そこで違いを分けるのは批評の精神だと僕は思っています。
ニュースソースからもたらされる情報を丸呑み鵜呑みにするのではなく、まずは疑ってみる。それには学習や経験に基づく知識、情報の蓄積が必要で、若さの突破力や感性だけではどうにもならない。すでに20、30、40、50という各年代をそれなりに生きて来て、ライターとしては今がバランス的にはもっとも充実しているという実感があります。
そのベースとなっているのが、まず自分なりの意見を持って対象に臨み、相違や対立を明らかにさせながら理解を深めて行くという批評の精神ということです。煙たがられたり、面倒臭がられたりすることも多いです。とくに、ムラ社会化して久しい自動車専門メディア/ジャーナリズム業界においては、同調圧力が異様に強く、強い個性、目立つ意見や行為に対する監視が厳しい。
意見の多様性や個性的なライフスタイルこそが活力の源だったはずなのに、面白さより間違いのないことに汲々とし、メディアもコンプライアンスの名の下に失敗を極度に恐れる体質に陥ってしまった。情報や広告の発信源としての企業に極度に従順になり、関係消失を恐れるあまり批評の精神を失っています。
つべこべ言わずに頂けるものをいただき、大きくなって物を言ったほうが得という価値観が大勢を占めるようになってしまった。それでやって行けるのなら、それもありかもしれませんが、時代はすでに情報を上流から下流に流すだけといった一方通行ではなくなっています。
個人が情報発信できるツールが安価で容易に手に入る。双方向性が可能な情報革命を経験して久しくなりました。クルマに関する一次さ情報は依然としてまず業界やメディアにもたらされる習慣が残っているので、形態は維持されていますが、数多くの媒体が存在しながらそこからもたらされる情報が単一的ということになれば、需要と供給の関係の行く末は明らかだと思われます。
もっと多様な意見を共有し、互いの思いや考えを率直にぶつけ合いながら、その摩擦熱がもたらすプロセスを重要視し、そこから生み出される面白さから未来を創造していく。窮屈な正しさではなく、無限の可能性が膨らむ面白さの中から、より良いクルマのあり方を提案して行く。
今自動車メディアやジャーナリストに求められているのはそこではないかと、僕は思うわけです。持論は、単なる思いつきなどではなく、長い間の思索や考察を踏まえてのもの。多くの読者は「そんな言わずもがななことを・・・・」苦笑していと思いますが、同業にはそうは思わない人々が多い。サバイバルを考えるなら、変わるべきは我々の側であることは間違いありません。妄言多謝。
ブログ一覧 | 日記
Posted at
2012/03/23 23:58:22
今、あなたにおすすめ