2011年06月06日
《再録》 不定期連載みちのく紀行記 序章編
2008年8月に妻とともに、東北をずっと北上してきた。
あれからもう3年が経つのだ。遥か昔の出来事のように思える。
ふと思いたち、旅行から帰ったのちに記した紀行文を再録してみようと思う。
私どもが通った経路は今はすっかりと変貌しているかもしれない。
しかしながら、記憶の中にしっかりと当時の情景が刻み込まれていれば、それで良いのである。それで十分である。
地球の悠久の歴史は、変化の繰り返しである。
長い尺度で考え、また新しいみちのくの魅力が生み出されれば幸いだし、自然の摂理でいえば、必ず生み出されるはずだろう。
本紀行文は数編に分かれているが、気の向いたときに適宜再録していきたいと思う。
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周知のとおり、みちのく(東北地方)と呼ばれる地域を
旅してきた。まずは簡単に旅程を記そう。
東北道佐野藤岡ICからひたすら東北高速を使用。
八幡平付近でようやく一般道に腰を押しつけた我々は、秋田県より十和田湖を目指す。十和田湖からは八戸市へ。そこで一泊。
高速道でも使わなければ、一日では到着しないのだ。
二日目は八戸から久慈方面に向かい、種差海岸の独特な海岸線を
楽しんだあと、広大な三沢の土地をとおり、ついぞ本州最北端
の大間崎へ。帰路は陸奥湾を右に見ながら、一挙に久慈のいかにも
鄙びた宿へ。そこで一泊。
三日目は南部の三陸側(岩手県の海沿い)をひた走る。
琥珀で有名な久慈の名所にも立ち寄ったが、もっぱら険しく削り取られた岩と驚くほどに多種多様に海水が入り込んでいるリアス式海岸を
ひた走る。結局、南部地域はおろか、仙台まで一般道。
東京に着いたのが朝方であった。
概略を書くのは容易なのだが、まず「みちのく」という地域が曖昧だ。
便利だからウィキで検索してみた。一部抜粋・見やすくなるように一部手を入れたものが下記である。
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①道奥国(みちのおくのくに)のこと。現在の福島県と宮城県のほぼ全域、および、山形県内陸部にあたる。南東北。
②陸奥国のこと。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県にあたる。東北地方の太平洋側を中心とした地域。
③現在の東北6県全体を指す別称。陸奥国と出羽国を合わせた地域の別称。「未知国」・「魅知国」とも表記。
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おおかたの人には③がピンとくるのではなかろうか?「東北六県=みちのく」と考えれば、非常に明快になる。なので、この紀行記では③をみちのくとする。
それにしてもやっかいだ。②の陸奥国の扱いは非常に難儀だ。時代ごとに範囲は変わるし、境界線は極めて不明瞭だ。
またもや、ウィキで検索してみよう。
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陸奥国(むつのくに)は、明治以前の日本の地方区分である国の一つである。奥州(おうしゅう)とも呼ばれた。延喜式での格は大国、遠国。
範囲は本州の北東端にあたる今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県と、秋田県北東の鹿角市と小坂町にあたるが、明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)に行われた分割によって青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に縮小された。
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これはあくまで明治時代前後のことであって、上代から近世まで陸奥の範囲は広くなったり狭くなったりと流転している。
このような面倒があるから紀行記として書くには序章でも設けるほかない。
だいたい南部地方の境界がどこまでなのかが未だにわからない。岩手県と青森八戸一帯と考えてよいものか?
南部氏は南部藩の盟主であるが、鎌倉時代頃に甲州(山梨県)から八戸の地に上陸し、以後、地域を統括したという。
米作に適さないこの地域で彼らがどのように版図を広げたのかしるべくもないが、南部地域では豊潤であった先進の久慈を征服し、その威はますます強大になる。
時代は下り、久慈の一門が、南部氏に豊潤な津軽地方(こちらは平野部も多く、日本海側なので西国からの米作技術などが上代から入ってきたのであろう)の攻略を提案。ところが、津軽を攻略した某は豊臣秀吉に取り入って、津軽藩として独立してしまう。津軽為信である。ここら辺が津軽と南部との仲の悪さのはじまりなのだろうか。
徳川以降も南部藩は生き残るが、嫡子がいなくなり藩は分裂。南部の本拠は人工都市盛岡に移っていたが、八戸南部藩ももう一つの南部氏の藩として存続する。前者を大南部、後者を小南部という。
維新後は、官軍の戦略により、南部地方は岩手県と青森県に分断される。
この歴史を読み解くのが痛快でもあるが、大変な作業でもあるのだ。
稲作はもともと熱帯地方に適している。本来なら南部地域のような寒冷で平野部の少ない地域には牧畜が適している。現に上代まではそうだった。だが、結果として南部は米作を受け入れる。
住民は焼畑農業でヒエ・粟を作り、それのみを食した。そして自分たちが作ったコメは商人に買い上げられていった。
こうした搾取構造が日本の共産主義者安藤昌益を生んだのであろう。
彼の思想は強烈だ。殿様も商人も泥棒であると。彼らはコメを生産しない。彼らも共にコメを作らねば南部は壊滅するだろう。
彼の性道徳も独特だ。兄弟姉妹間の性交渉は白昼堂々とやればよい。性行はひたすら種の存続のためにある。これら近親の間で生まれた子供がまた近親で性交渉して種は存続する。これが人倫であると。
むろん、近親交渉を推奨していたわけではない。また、いわゆる浮気は鳥獣虫魚の所業であるとも述べている。
原始共産主義社会を指向した江戸の共産主義者安藤昌益についての知識はまだ私にはあまりない。
ただ、太平を謳歌していた江戸時代のなかでここまで激越な思想家を生んだ南部の地というのがいかなるものか?
その昔、奥州藤原氏や安藤氏が中央から独立した政権を持っていたごとく、ここはヤマトではないのかもしれない。
そういう空想さえ浮かんでくるような場所なのである。
いささか、南部に身びいきするような感じであるが、今回旅した箇所はほぼ全域南部地方であるからひいきの一つでもしてやらにゃと思う。
また、序章としては風土紀行よりも、まずは歴史的な構造の複雑さというものを基盤にするように努めた。簡単に青森県・岩手県といった官製の括りに収まる地域ではないはずだ。
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Posted at
2011/06/06 23:33:05
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