【房総駱駝なるもの】
房総駱駝と漢字四文字で書くと、古えの西域地方に生息していた駱駝を彷彿させてくれ、非常に歴史的浪漫をそそるのだけれども、千葉県外房にある御宿で、駱駝がなんちゃらの詩を謡った等で御宿の名をたからしめている駱駝のことを述べているに過ぎない。しかも、駱駝はたしか常駐はしておらず、駱駝の像があるだけ。という程度の認識しかないのだけれど、御宿自体は好きだ。
【サザエが蓋をしたごとく】
御宿は太平洋に面しあらあらしい波を堪能することができる。
幼少期は湘南や伊豆、内房でなければ、外房や福島いわきなどの外洋で海水浴をすることがもっぱらで、海といえば、あらあらしく波しぶきをあげるイメージが浮かんでくる。波の引きも強力でいわき辺りでは盆を過ぎると、海岸沿いの施設自体がサザエが蓋をしたごとく、おとなしくなっていたことを覚えている。
江の島辺りの密密密とおよそ好対照であった。
香川出身で愛媛在のとある執筆者は、私を松山郊外の海際に誘い、島が無数に浮かぶ瀬戸内海こそが、海であるといっていたが、そのように環境が人間の価値観を規定するのだろう。
【初の機械洗車】
目指したわけではないけれど、結果的に、というか、ともかく夕方に御宿に着いたのだが、水着の持ち合わせが無かったので、サンダルに履き替えて海岸線と多少の浅瀬を歩いた。
そこは太平洋の波らしく、きまぐれに腰のあたりまでうねりを挙げてきたりする。最終的には昔ながらの銭湯を改修しきれていない(それゆえにグーグルマップで低評価を得ていた)木更津のお風呂で潮っ気を落とし、そして、インプレッサも初の機械洗車で省力化。
もはや、手洗いにこだわるわけではないけれども、あの巨大なエアインテークとリアスポがあるので、なんとなく自分では機械洗車をしにくかった。ついでにいえば、サイドバイザーの割れているし、云々云々、まあ、旧いクルマなのである。
アクアラインをゆっくり走行しても木更津市街から一時間ほどで帰宅できる。木更津はウチから思いのほか近いのだ。外環道ができたとはいえ、関宿や銚子の人が木更津に行くとすればかなり大変だもんね。
【実は薔薇十字団の】
実はこの日は太宰治が逗留時に通っていた甲府の銭湯に行こうかなとか、あれこれ思案していたのだけれど、天気予報をチェックした結果、房総が良いという結論に達した。道が渋滞していたりして、結局は房総半島をアクアライン経由でないルートで向かうことにした。
23区でも城南地区住まいの私にはかなりの迂回路なのだけれど、
考えてみれば、昔は東京湾フェリーを使用するか、ぐるりと東京湾を一周して、ようやく館山や鴨川、九十九里などに行っていたものだった。
なお、フリーメーソンにも影響を与えたとされる薔薇十字団は姿を変え、ここ房総の地にも逗留していたそうで、そのことも久方ぶりの房総行きを私に決意させたのであった。ま、薔薇十字団の痕跡が日本にあるはずもないけれどね。すなわち、うそぴょん。
【ずっとバック いや~ん】
房総の内陸部は離合は可能だけれども、やや狭めの道路が縦横無尽に走っていて私好みであるが、そういう営みをすっかり忘れてしまっていた。久しぶりに挿入しようとしたけれど、どっちがどっちの穴だっけみたいな一瞬の戸惑いを見せる程度には久方ぶりであった。
昔はガンガンと狭い道を突っ込んでいったものだけれど、特にインプレッサでは保守的な運転をするようになってしまい、これではアカンと思い、房総半島内陸部に無数にある狭い道(西日本の酷道に比べればかわいいもの)をチャレンジすることにした。久しぶりにUターンもできない道路に出くわし、数キロバック。
しかし、諦めずに外房の某ダムにも立ち寄ったりした。
【かなり】
翌日は夕方くらいまで家に籠っていた。が、散策だけでもしておこうと外へ出ると、久し振りに祭が開催されていた。
先週に土浦の居酒屋で飲んだばかりであったが、飲酒解禁。勢いで同じく近所の居酒屋で飲み直し。随分飲んだかも。
祭に関しては、若年層が中心になって企画したものだと思う。基本的に若い街なのである。いわゆるおしゃれな雰囲気が漂っているのだけれど、東京音頭をみんなで踊るような盆踊り大会のようなものを個人的には好んでいる。が、場所がないか、我が街は。
【イチジクのかき氷】
月曜日は少し前から千葉にある布施弁天の東屋に行こうという話になっていたので、またもやインプを始動。桃の季節は終わったようだが、イチジクが本日から入荷したようで、値段は千円を優に超えるけれども、食べてきたぜ。イチジクのかき氷を。
そのうちに、どんどん涼しくなってきて、おそらく九月下旬くらいの涼風が吹くようになったが、そんなときに熱いお茶を持ってきていただくお心遣いがありがたい。ここは赤いロードスターで初来訪して以来、ちょくちょく訪れており、顔を覚えられるくらいにはなった。当初は高台から筑波の山々を眺めたりする心地の良い風致が特徴であったが、さらにテラスを新築し、植生物をセンスよく配置することで、すっかり人気店になったようだ。
【ああ、また】
筑波山は利根川の後ろに鎮座している。もう隣は茨城県で、柏市でも外れの地域にあるがゆえに、柏市街よりも、茨城(守谷等)との結びつきが強い。
「ああ、また茨城か」
と心中思いつつも、利根川越え。
で、勢いで筑波山を目指すも、長居をする暇が無かったので、つくばエクスプレスの万博記念公園駅(秋葉原まで直通)駅前の駐車場入口のポストにお金を入れて、ホテル隣の喫茶店でしばし寛ぐ。
が、例の方は現れなかった(笑)
To my regret,the man never showed up..
なお、岡本太郎の作品についてはよくわからないけれど、彼の考え方にはとても共鳴していることをお伝えしておこう。
【85年の思い出】
つくばといえば、1985年のつくば科学万博のことは今でも思い出すなあ。閑散としたチュニジア館のことを(笑)
神奈川(87年にバブル前夜の東京に越してきたのであった)から遥々つくばまで来たものの、人気パビリオンは人があふれかえっていて、空いているところに入ろうということで、チュニジア館に入ったわけだけれど、私とアラブとの接点は或いはこのときが原点なのかもしれない。
トルコからエジプトまで中東の人たちとは随分と仲良くなったし、アフガニスタンやパキスタンといった人たちのアパートで民族料理を振舞ってもらったりもした。その後はイラン大使館やトルコのジャーミーに行く機会もできたのだから、
チュニジアという地中海沿いのイスラム国の一つのことを印象深く刻んだことは私の人格形成に何ほどかを与えたに違いない。
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【メシ】
つくば市のはずれにある「笹」でカツを食す。ここも、試乗会から宿泊先に向かうときに見つけた場所で、散策ツアーのコースでも向かったお店である。
閉店間際で入れないかなと思ったけれども、セーフ。
水海道(みつかいどう)駅の看板を見て電話をしてみたが、別のところに繋がってしまった。
水海道かあ。いかにも豊穣、過分に豊穣であるがゆえに、龍のような荒々しさで、水流が陸地を浸食していく様が想像される地名である。竜ヶ崎という地名も布施弁天で龍の伝説があるのも、関東がいかに水浸しだったかということを傍証としているような気がする。関東が沃野となったのは江戸になってからと云われているが、今でも水海道の辺りは洪水に見舞われることがある。
【佐竹は美人を】
てことで、またもや、茨城である。
鎌倉時代には既に常陸の国に盤踞していた佐竹氏は関ヶ原の戦いののち、秋田に移封されてしまう。秋田に行くとクオリティの高さにびっくりする。
、関ヶ原の戦いで西軍の実質的中枢であった石田三成と懇意であった佐竹氏が秋田にいざ移るときの伝説が私にはおもしろおかしいのだ。
佐竹は秋田移封の腹いせとして、領内の女性のうち、美人だけを秋田に引き連れたというもので、こういう面白い言い伝えをポリティカルなんとか等で、滅却されていくのは本意ではない。
仙台・水戸・名古屋の日本三大ブスという虚構的なからかいも近頃は聞かれなくなったし、イケメンという言葉が許容されるのであれば、ブスなんて言葉はなんともないと思っている。当人の前で言うのは憚られるけれども。
【擬制】
ちなみに、「美人=よい」とは思っていないけれども、逆に悪いとも思っていない。
そんなものはどっちでもいい。
ともあれ、秋田美人が輩出される理由としては、一年の日照時間の短さや大陸との関係性を指摘する声もあるが、これは興味があって、個々人の好みはあるとは思うけれども、秋田のレベルは断トツで、何が言いたいかというと、地域性と美人(多分に主観や歴史的・地域的な美人の概念により規定はされる)に興味があるのだ。
人間の属性などどうでもいい。
どこからどこまでがその人間の境界線なんだ?
属性は言葉と同様、便宜的に対象を区分けするために構築された擬制に過ぎない。
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