2日目、台風18号が迫ってきており、風・雨が、朝から厳しくなってきました。
でも朝は、散歩と決めています。 JR宇和島駅へ。
ホテルのような建物?
ステーションホテルがあり、そのほうが目立ちました。
駅の中には、プラレールの宣伝が。
鉄道案内にも、アンパンマンが一役かっています。
もう、10年以上、JR四国は、アンパンマンを観光用として利用しているそうです。 『なんで?』
一般の車両もご当地のゆるキャラがラッピングされています。
実は、車両内の床にも、ご当地のゆるキャラが絵ががれていました。
いざ、台風の中、出発しました。 市内のお店を連ねるメインストリートには、台風の影響で人がいません。
雨がすごい。
宇和島城に着きました。
が門が閉じられています。
本日、閉門で中に入れませんでした。 仕方ありませんね。
気を取り直して、
宇和島市立伊達記念館へ。
現在、展示中の日本刀を、宇和島刀剣会の会長様直々に解説いただきました。
日本刀には、戦国時代まで、有名な5大産地がありました。
その後、江戸時代には、金持ちの各藩主が有名な産地から職人をよびよせたので、土地ならではの特長は少なくなったそうです。
宇和島市内の日本家屋のたたずまいの前で。。。
だれの史跡?
村田蔵六 => 大村益次郎が、宇和島藩で雇われていた時期(1954年前後の1年間くらい)の住まい跡です。
そばに親しかったオランダ医師シーボルトの娘:イネ(医師)の住居跡がありました。
さて、宇和島に着てから、もう一ついってみたいところがでてきました。
海岸線に広がる段々畑です。
海岸線道路を進みます。
この付近では、カキの生産が盛んなんだな~とおもっておりました。
後でわかりましたが、 宇和島は、真珠の産地でもありました。
おいしいか。 美しいかで似ていますよね。 少し高いということでは。
突然、不釣合いな看板
まもなく、着きます。
海は、まだ穏やか。
到着です。 なんという高さ。 !
城壁のような角度。 よくここまで、石を使って畑をつくりました。
観光地になっていますので、本来であれば、ここで休憩、お昼をいただけるのですが、
台風のため。。。
こんなおいしいランチがいただけたのですが。。。
さて本題の紫電改展示館へ、風雨がきつくなって来ました。
紫電改展示館下の駐車場にて、
本日、開館しているか? 不安のため、電話をしてみると、 『あと少しやっていますよ。』
また、『上の紫電改展示館まで車できていいですよ。』 と
到着しました。 といっても風雨が厳しく写真が取れない。
展示物には、 1/24スケールの松山基地のジオラマがありました。
ありました、4枚プロペラの力強い風貌が。と言いたいが、曲がっているのが痛々しい。
翼には、20mm機関砲 x 4門と強力な火力が。
エンジン、2,000馬力と 零戦の1,000馬力とくらべ、ボリユームが違います。
車でいえば、 1,000ccのパッソ車と 2,000ccのマークIIの違いでしょうか? すいません、トヨタ車を比較にしました。
後ろからのスタイルも力強い(太い)。
乗り込みたいです。
誉エンジン(中島飛行機製造)、2,000馬力を見よ。
大戦末期のため、 不具合のエンジンと『松やにいりのオクタン価の低いガソリン』で、整備しても途中でエンジン不良で戻ってくる機体も多くありました。
ここへくるきっかけとなった『源田の剣』です。紫電改を唯一運用した343航空隊の記録が、日本側からと米国側からの双方から
正確に描かれています。
自分の隊の撃墜・撃破記録は、空戦ということもあり、未確認でも勢い、『1機撃墜』と報告してしまうことが、双方にあります。 しかし、本書は、双方の未帰還機(うち死亡や不時着・落下降下後帰還など原隊復帰)、帰還したが機体を再使用できないなどの損失側からの記録を比較することで、そのときの空戦の勝敗を正しく評価しています。
また、日本軍および米軍の公式記録および生存者からの聞き取り調査をもとに、だれが、いつどの空戦でどのように戦死したかが、推測含めてほぼ正確に記録されている。
すごいことです。
さて、この展示館にある紫電改は、1945年7月24日、
"大村基地を飛び立ち豊後水道上空で米軍機と交戦し未帰還となった六機のうちの一機です。 その日、343航空隊の指揮官であった701飛行隊隊長の鴛淵 孝(25歳)中尉も未帰還となっています。
"
引き上げ後の調査では、パイロットに遺品は見つからず、誰の飛行機かは、特定できませんでしたが、
『源田の剣』では、当時、現場で着水の瞬間をみていた人からの聞き取り調査で、名パイロットの一人である武藤金義飛行兵曹長(29歳)であろうということになっています。
当方は、
この紫電改および展示館は、敗色の濃い大戦末期の4ヶ月間、唯一米軍戦闘機と対等に戦える組織であった343航空隊の墓標であると。
『 英霊へ敬礼。 』
ここからは、 航空ファンじゃないけど、ディテールです。
20mm機銃、 4門ついているから、強い。
でも発射速度の速いグラマンの12.7mm機銃 x 6門は、『シャワーのよう』に弾幕が追っかけきて、威力がある。
ゴム被覆でカバーされた燃料タンク、これなら、大丈夫なはずでしょ。
米国製の12.7mm機銃に対しては、貫通しないようにテストしていると思うが。。。
さらに炭酸ガス(自動)消火器が。 こちらは、ゴム被覆のついていない零戦の燃料タンクにも採用されていた。
消火器は、1回だけ使える。 左右の主翼内燃料タンクと機体燃料タンクについていた? のでしょう。
零戦なら、 自動消火器で消して、その燃料タンクのコックを切lって、他の燃料タンクからの供給へとコックを切り替えるのしょうか?
紫電、紫電改の独自の空戦フラップ、 失速しない最小限度で旋回できる装置で、 小回りがきいた。
水銀の比重でどうのこうのと聞き覚えがあるが、具体的にどのようにセンサーが働いて、どのようにフラップを動かすのだろうか?
三式空1号無線機
今まで、日本機軍の無線機は、聞こえづらく、編隊内での無線がほとんど使用できなかった。
理由は、エンジンからのスパークで雑音が多かったため。それをエンジンのスパークプラグコードのシールド方法を変えることで雑音が消え
初めて、編隊内の交信が可能となり、米軍と同じ編隊同士の空戦ができるようになった。
戦術面でも、 2機編隊の行動を厳守し、2番機は、1番機を最後まで守ることが徹底されていました。
バッテリーは、 自家用車の 60くらいのサイズです。
とういうことは、セルモーターがついている? いや、このバッテリーでは、2,000馬力のエンジンを
スタートさせるのは、無理でしょう。
ではどうやって始動させたのでしょう。
紫色のマフラー、343航空隊の一つである301飛行隊へ、練成をしていた松山基地にて、隊員らと親しかった今井琴子夫人が、自らの正絹を紫に染めて、済美高女生徒ら刺繍をしてもらい、
パイロットへプレゼントした。という由緒正しい品物です。 こちらの所有者であった笠井 智一 氏は、2017年9月25日時点、ご存命です。
『ニッコリ笑えば必ず撃墜とす。』 とは、301飛行隊の名パイロットの杉田 庄一 一等飛行兵曹のことば。
名パイロットは、後輩も育てました。彼の飛行指導があったから、生きることができた。 と上記の笠井 智一氏は、述べています。
とはいうものの、杉田 庄一 一等飛行兵曹は、 4月15日の戦闘で、離陸後の不利な空戦で戦死しています。
最後に、記念撮影をしていただきました。
台風接近のこのよう暴風雨に訪問したのは、私一人だったのでしょうか?
当方の退館ともに閉館となりました。
風雨が強く、写真を撮るのも諦めました。
このあと、高知市までの150kmあまり、 途中の太平洋を望む海岸線の波が怖かったこと。怖かったこと。
高知市のホテルについてTVをつけると、台風18号は現在、高知市を通過中です。 と。
なんというドライブか。
この旅の目的を達成することができたのですが、私の心は、今日の天候のように晴れません。
おそらく、美しい太平洋を望むめるようまた来るでしょう。
* 本日の歴史探索の旅にお付き合いいただきありがとうございました。
尚、階級については、戦死した時点の階級を記載したつもりですが、誤りがありましたら、申し訳ござません。