
本田美都はいつもより遅い時間に大河内峠を攻めていた。
通常は夕方に走るのだが今日はうたた寝をしてしまったのでヘッドライトを点けなければならない時間になってしまった。
夜の峠は昼のそれとは違う顔を見せるが、それはドライバーに伝わる情報が圧倒的に減少するためである。
アスファルトのギャップ、路面のダスト量、コース幅が昼間より伝わってこなくなるため慎重にドライブしなければならない。
美都はいつものコーナーにいつものスピードで飛び込んでいくのに躊躇する。
「ブレーキングポイントが解らない……」
そう呟いた瞬間にバックミラーに驚異的なスピードで近づくヘッドライトが見えた。
「ヤツだ。ローズ・ゴースト……」
ローズ・ピンクのS660が美都のクルマの真後ろにピタリと張り付いてきた。
「ベタベタに張り付いてきた………。苦手なナイトドライブの時に限ってアイツと鉢合わせになる。コンビニの時もそうだけどよほど相性が悪いのね……。いいわ、やってやろうじゃない!」
勝ち気な美都は「父親に車高調とターボを装着して貰ったビート」でS660を引き離し、バックミラーからピンクの車体を消しさるつもりだ。
車高調とタイヤのおかげでコーナリングスピードは上がっているし、立ち上がりの加速もターボの恩恵を十全に受けているので今までのビートとは比べ物にならないほど速くなっている。
ぴよ八や松田AZUに特訓して貰って上手くなってきてはいるが、旧い設計のビートは限界速度域になるとさらにミッドシップ特有のピーキーさが顔を出してくる。
パワーもコーナリングスピードも上がってるので弱アンダーステアから急激なリバースステアになる特性に少し手こずり、美都はノーマルの時より神経を尖らせながらドライブする。
クルマが速くなったが故のリスクもあるのだ。
一方色々な事にイライラしていたローズ・ゴーストこと恵州むつみはバトルしたい気分だった。
こんな日はストイックなタイムアタックじゃなく精神が昂ぶる熱いバトルの方が良い。
テール・トゥ・ノーズのスリルに身を任せていたほうが義父や母親、そして姉の事も忘れさせてくれるような気がするからだった。
「ビートには確かトラクションコントロールはおろかABSもパワステも付いてない筈………………。それでいてこのマシンコントロールとは大したものね。あのコンビニであったデカい女、どんだけマッチョなのよ?」そう思った刹那、むつみの頭の中で鳴り響いていた超絶技巧のパガニーニの演奏は止み無音になってドライバーズ・ハイの領域にシフトした。
脳内の音楽が止むと血が奏でる音楽に身体が包まれ、むつみの唇は嬉しそうに左の口角が上がる。
「チッ、アイツ、笑ってやがる!」
バックミラーに一瞬映ったローズ・ゴーストの口元は自分を嘲笑っているように美都には見えた。
美都は血液が一瞬にして沸騰しこめかみで心拍数の上昇を意識する。
後ろから追われる事に慣れていない美都は焦燥感に駆られ得体の知れないプレッシャーを感じているが、ローズ・ゴーストは美都とのバトルをまるでダンスのように楽しんでいる。
美都は暗くてコーナーの路面のインフォメーションをいまいち把握出来ないのでマージンを取らざるを得ないが、ローズ・ゴーストは躊躇なくコーナーに飛び込んでくる。
「クッ、引き離せない………」
背中に受けるローズ・ゴーストの無言の威圧感はビートのコックピットに影を落とし、重苦しさが蔓延する。
それに比べローズ・ゴーストは大河内峠のあらやるコーナーの深さ、ギャップの位置、今日の路面状況は全て頭に入っている。
故に夜になって視界が悪くなっても彼女には全く関係なくタイヤのグリップ力の限界で走行出来る。
「お尻を振ってクルマが身悶えしているわよ」
むつみは冷たく言い放った。
ビートのリアタイヤはグリップ力が低下してきて、カウンターを当てるがリアの挙動の収まりが悪くなってきている。
食いしばっていた奥歯がガタガタ言い出し、脚先は震え、振動がアクセルに伝わりクルマが挙動を乱し、手汗でステアリングやシフトノブがヌルヌルしている。
身体中の穴という穴から自分のモノではない液体が溢れてきているようだ………。
「父ちゃん………」
美都の父親の顔がよぎった。
趣味もなくいつも油まみれで真面目な父親は酒もギャンブルもタバコもグルメにも興味がない男だ。
母親はそんな面白みのない父親に愛想を尽かし家を出ていったので美都が家事全般をするようになる。
父親は今まで料理なんか一度もした事のない美都の作った美味い筈のないご飯を嬉しそうに食べてくれるような男だ。
美都はそんな父親に買ってもらいチューニングして貰った大切なビートを壊す訳にはいかないし、ローズ・ゴーストと一緒に走ってみて初めて運転が怖いと思った。
その瞬間、アンダー気味で旋回していたビートが突然のオーバーステアに見舞われる。
一瞬の逡巡でリズムが狂い、必死のカウンターを当てながら体勢を整えるが、今度はリアのタイヤが逆にスライドして挙動が安定しない。
いわゆる「タコる」って現象である。
それに比べてローズ・ゴーストは地面に張り付いたように安定している。
「クッ……限界だわ………」
辱めを受けた気分だが、直線でハザードボタンを押し左にビートを寄せて「ローズ・ゴースト」に道を譲った。
それが2日前の事だ。
放課後の「けいよん!部」部室でぴよ八先生と鈴木千野は本田美都のその時の話を聞いている。
親友と呼べる女が「もうクルマに乗るのが怖い………」と言い出した。
「アイツはあんなスピードでコーナーを駆け抜けて怖くないのかな?まるでローズ・ゴーストは何も喪うものは無いかのようなドライビングだった……。あんな幽霊のような女に勝てる訳ないわ……。ワタシ、あの峠には当分行きたくない……」と美都は溜め息と共に言葉を吐きだした。
ぴよ八と千野は美都の言葉を黙って聞いていた。
確かに速く走れればワインディングは楽しい。
それを千野はローズ・ゴーストに教えて貰った気がするが、他人を脅えさせるような運転は何かが違う。
峠って楽しむところじゃないの?
運転って嗜むものじゃないの?
千野もこの前ローズ・ゴーストと一緒に走った時に似たような違和感を感じていた。
確かに彼女は『魔物』に取り憑かれているような冷たい走りだった。
鈴木千野はローズ・ゴーストに対してそれなりの畏敬の念や憧れを持っていたが、美都をここまで追い込んだ事を納得は出来ない。
「乗りたくなったら、またビートに乗ったらいいじゃない?義務や強制でクルマに乗る訳じゃないんだから………。また一緒に楽しく走れるようなれるわ」と千野はありきたりな慰めしか出てこなかった。
言葉は稀に無力だ。
「ごめん、千野。今日は先に帰る………」
と重たくスカートを翻して美都は教室を出ていった。
美都を追いかけようとしていた鈴木千野をぴよ八は呼び止めた。
「鈴木、ちょっと待て!」
美都はローズ・ゴーストに勝てなかった事が悔しい訳ではなかったし落ち込んでいる訳ではない。
ローズ・ゴーストがベタづけしてきた時のあからさまな「悪意」が怖かったのだ。
悪意に恐怖し道を譲った事が悔しくて、「父親から貰ったビートを壊してはならない」事を言い訳に使った自分が情けなかった。
少しウェーブの掛かった髪を揺らしながら陽だまりの廊下を歩いていると自然に涙が溢れてくる。
「美都…………?」
部室に向かっていた香鈴NANAは泣いている彼女と廊下ですれ違ったが声を掛けてはいけない気がした。
掛けるべき言葉が見つからないし、そもそも泣いている理由が解らない。
ただ、NANAはそこに立ち尽くす事しか出来なかった。
「鈴木、担任で顧問だから一応言っておくが復讐なんてくだらない事を考えるなよ。復讐はただ復讐の連鎖を生むだけだ。他に何も生まれはしない。世界中のテロや紛争がそれを示している。しかもお前が代理で闘う必然性は何処にもない」とぴよ八は千野に伝えるが、彼女は悲しく笑っている。
「だがな、峠を走るなとは言わない。『たまたま』ローズ・ゴーストに出会う事もあるだろう。その時は一つ大きく呼吸しろ。ワインディングではお前は一人だ。俺が隣にいて教えてやる事は出来ない。一人で感じて、考え、そして………………全力でドライブしろ……」
全く思ってもいない言葉がぴよ八が発したので千野は戸惑ったが「不良教師…………」と高校生らしい屈託のない笑顔を見せて廊下に飛び出して行った。
人間は矛盾する生き物であるし、辻褄の合わない自分を肯定する為に生きているようなものだ。
ぴよ八は「友人を思う女子高校生を応援する人間」としては正しいが、「まともな教師」としては決定的に間違っている。
「オレは立派な教師なんかじゃないよ、あずみ………」
ふと松田あずみの顔が見たくなったぴよ八は教室の窓から空を見上げると薄っすらと丸い月が出ていた。
その月は泣いているように滲んでいる。
「ああ、明日また満月がやってくるのか……」
翌日鈴木千野は美都のためにローズ・ゴーストと闘うために大河内峠に向かった。
つづく