この記事は、
四国ミーティングについて書いています。
平井元主査のお話を聞きに、四国まで行って来ました。
せっかくなので、ちょいと偉らそーに、感想なんぞを書いてみようと思います。(前回の貴島元主査のレポートのように講演内容を網羅するものではありません)

まずは講演会ではおなじみの「J58Gへの想い」上映。
この社内向けビデオの中で「我々(開発チーム)が作りたかった車」のオーナーになったとたん、急に「週末はドライブをしようよと仲間を誘って、驚かれるかもしれません」というくだりが出てくるのですが、まさに私の日常がそんな感じで、見事に言い当てられてるなぁって思います。
ちなみに、私は「両腕に前輪、両足に後輪がつながったような・・・」のフレーズと、操安部分について語った「現代の車としての安定感を実現、しかしドライバーがその気になったときに頑なにグリップし続ける後輪はいかがなものか」のあたりが毎回グッと来ます。
後半には「ときめき」という言葉と「こだわり」という言葉が何度も出てきて、最後には互いが絡まって「増幅させるものなのだ」と結ばれるわけですが、私の人生の「ときめく部分」の大部分をロードスターが占めていて、生き方そのものに対する「こだわり」が何なのか明らかにしてくれたのが、やはりロードスターだったのだと改めて思ったのでした。
ニト朗さんのブログを是非どうぞ。

場所を会場に移して冒頭の一言。
「女性の方が何名かいらっしゃっているようですので言いますが、お子さんを失敗を恐れない人に育て上げて欲しいと思います」
と、切り出されました。
もちろん、ロードスターの生い立ちを考えれば「失敗を恐れる」ような開発チームであれば、とてもあの完成度で発売に漕ぎ付けられなかったのは明らかなのではありますが、ちょいとひっかかったことがあったので、講演が終了した後に平井元主査とお話させていただき確認してみました。それでわかったのは、平井元主査が楽天的に育ったのには母親の影響が強かったと自己分析されていたことでした。失敗を恐れないように育てることと、あえて女性に限定して話されたのが私には違和感があったのですが、謎が解けました。
しかし、振り返って考えてみると、私もたいがい楽観論者なのですが、それが両親どちらの影響かと問われれば母親の影響だったような気がします。「失敗を恐れず突き進め」というような直接的で力強いメッセージは母から受け取ってませんが、楽観的に考えるというベース部分は父よりも母の影響だった気がします。
なるほど。
続いてカーグラフィック1988年3月号の記事、「誰かライトウェイト・スポーツを造らないか!」の紹介。
「本職のモノ書きなのに「つくるの字」を間違えておる。これは工場で造る方、正しくは創造の創」
と、笑いながら切り出し、ロードスターが生まれる寸前の時代背景について解説されました。
この記事については
白神爺。さんが解説されていましたので未読の方はどうぞ。
さらに、平井元主査の講演会では必ず登場する「金沢ディーラー出向」の話へと続きます。
「他に出来ることが無いし、するやつも居なかったから自ら手を挙げて債権回収を毎日やった」
と、当時を振り返りつつ
「こんなにも自社の車が壊れるのは、もう最初の設計段階から見直すしかない」
と、サービスの現場で意を固め、本社の設計部門に戻った直後に、自ら「デザインレビュー」を行う仕組みを企画立案されたそうです。
自動車業界にお勤めの方で詳しい方が居たら教えて補足して欲しいのですが、当時自動車業界では、上流行程である設計段階で開発に携わる全関係者が集まって議論を徹底的に行う「デザインレビュー」採用の流れが徐々に始まっており、マツダ社としてデザインレビューの明らかな成果として言い切れる最初の車種が
「手前味噌だけど、ユーノスロードスターなんです」
とのことでした。
デザインレビュー導入に当たっての苦労話なんかもされていましたが、ここでの平井元主査の立ち振る舞いは、後のJ58Gプロジェクトでのリーダーシップに通ずるものがあり、「表面的な形や体裁ではなく、あくまでも本質論に沿って進める」という感じだったのだと想像されました。
新たな開発手法の採用と言えば、常に人員不足の中、ゲリラ的に開発されたロードスターは新たな開発手法のオンパレードで(皆さんの方がお詳しいとは思いますが)、コンピューター(シミュレーション、設計)の積極活用、外人派遣スタッフの採用なんかも有名なエピソードだったと思います。
私の理解が正しければ北米子会社での企画に加えて、
フォーカスグループインタビューというリサーチ手法の採用もこのプロジェクトがマツダ社では初だったと思います。
平井元主査はデザインレビューのエピソードもそうですが、必要とあらば最新の開発手法を積極的に採用される方だったのだと改めて思いました。「J58Gへの想い」の中でも「レトロなどと言う余分な要素を省き、現代の技術でライトウェイトスポーツを・・・」へつながる話ですね。
さらに、当時の役員から「ロータリーエンジンを積むことを検討してくれないか」と言われたときの話。
NAどころか、その後のNB、NC含めてレシプロエンジンしか積んでないことから、氏がどのように考え答えたかは皆さんの想像通りなわけですが、冒頭の「失敗を恐れない」精神で、というよりは楽天的な考えで、
「まぁ、クビにはならないだろうと思っていたけどね」
と笑いながら当時のことを話されておりました。

その後質疑応答に移り、平井元主査が影響を受けた車として「ポルシェ911」を挙げ、「とにかく運転して楽しい車だった。とても参考になった」と説明されていました。
さらに、どのようにデザインが決まって行ったかの質問にも、当時の田中氏の活躍ぶりも交えて丁寧に答えられていました。(ご存じない方は
白神爺。さんのフォトギャラをどうぞ。私もDUO101の実車を見たときには「田中さん、ありがとう!」って心の中で叫んだ口です)
そして、最後に
「ホワイトボードを使って「人馬一体」について語ろうかと思っていたけど、次回にするよ」
と、おっしゃられて講演会終了。
思わず「今話してください!」って言いそうになりましたが、次回があるのも良いことだと思い直し、グッとこらえました。
感想文は以上でございます。
開催に尽力された四国の皆様、本当に貴重な機会をありがとうございました!!
Posted at 2011/05/27 02:38:15 | |
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