もう24年も経ちますか。
知人の招待で、前日から初めてのTDLに泊まりで出掛け。
~舞浜のパーク周辺なんて、見渡す限り駐車場ばかりで、開いてるホテルもサンルートプラザしか無かった頃です~
その後数年、手紙をやり取りする事になる女の子にパークを案内してもらい…とは言っても、初対面の女子相手になかなか話を切り出せず

、居心地の悪い思いをさせてしまいました。
二日間の夢から覚めてアパート…つうか、あの時代で既に絶滅危惧種の三軒長屋に戻ったのが、1985年8月12日、1810時を少し回った辺り。忘れもしません。
ほとんどその時間に、JA8119は踏んではならないジャンピング・ボードを蹴ってしまったのです。
土産他の荷をほどき、母が簡単な夕食をこしらえた頃。1930時の第一報に驚愕したのもよく覚えています。
それからはもう、運輸省や日本航空、羽田・所沢の各管制部、静岡~山梨~長野~秩父地域など地上からの目撃談や自衛隊・在日米軍の捜索情報などが錯綜。報道は混乱を極めました。
2130時頃、「行方不明機の飛行可能時間が尽きる」の報。伊丹空港の到着ロビーには、未着のまま残る「JAL123」。
翌0300時位まで、テレビにかじりついてましたね。
交信途絶空域が甲武上信国境で行政機関の管轄境界だった事、災害派遣法が未整備の時代で航空自衛隊や在日米軍、警察・消防間の情報収集・救援行動が統率されなかった事などの要因で、夜明けまで遭難地点を特定できなかったのは周知の通り。
仮にそれが出来たにしても、ド深夜の林道もない山中への人員・機材投入は事実上不可能で、幾重にも不運に見舞われた悲しい事故だったわけです。
ハイヤー時代には、事故当時の話をずいぶんと聞かされました。日本航空やマスコミにチャーターされた車が大挙、群馬の片田舎(失礼)に集結。上信越道もない当時ですから、本庄児玉辺りで下りてR254~R299と向かったんでしょうが…、299で分かる通りで、上野村って道が悪いためにムチャクチャ遠いんです(T_T)。
当時はまだLPボンベがトランク幅一杯の筒形でなく、スペアタイヤポケットに納める通称「UFOタンク」が普通だったもので容量が小さい。
しかも、村にLPスタンドが一ヶ所しかなかったらしいんですよ。
補充待ちの大行列にあたあたしてる所へ悲劇が訪れます。「乗客の家族には藤岡へ移動願う」と。
要は、村の施設では到底、遺体の収容~確認~処理作業が間に合わないので、藤岡市に空路でピストン輸送しますと。その先は改めて指示が来るという事で。
…
藤岡ではLPの補充は多少しやすくなりましたが、お棺や焼き場が足りない状況は変わりません。
「霊柩車」も足りてないのは言うまでもありません。
…お盆の夜に羽田から大阪に向かった飛行機のお客様ですから、ご自宅もそちら方面にお帰りですと。
後の顛末はお察し下さい。
ワタクシが聞いた範囲での最遠は「福岡県某所」でした。
藤岡市の体育館は、臭いが抜けずにその後解体、場所を代えて再建されたそうですが。
霊柩車の代走を果たした営業車たちがどういう処置をされたのか?は、分かりません。
だってその先の事を尋ねても、先輩方は誰一人として話してくれませんでしたもの。
いろいろあったみたいですが(黙)。
合掌( ̄人 ̄;)

Posted at 2009/08/13 05:10:09 | |
トラックバック(0) |
交通 | 日記