
←技術統括者の島秀雄氏です。
国鉄総裁(当時)の十河氏と共に新幹線計画を推進した立役者として、鉄道界のみならず広く知られた方です。
が。
新幹線に採用された分散動力方式=電車列車の採用、完全立体交差の専用軌道化などのマネジメントに手腕を発揮した反面、純然たる技術者としての実績はあまり芳しくない方でもありました。
父であり大技術者の島安次郎氏が「弾丸列車構想」として描いた新幹線が、一世一代の成功作と言っても過言ではありません。蒸気機関車の設計や気動車技術政策では失策続き、父君の威光が無ければ果たして…というまさかも有り得た。
氏の代表作で主に取り上げられる蒸気機関車は、国産唯一の3気筒機関車・C53。そして貨物向けのD51。
各々、登場時は大きな期待を背負い、また今日でも周知の存在ながら、その用途について致命的欠陥を抱えた設計と批判されています。
C53は、一般的な機関車の左右2気筒に加え、車体台枠内にセンターシリンダーを持つ3気筒機で、トルク変動や車体揺動が少なく大出力。軽量な木造車(シャーシや下回りは鋼製)に代わり普及しつつあった全鋼製客車を牽引し、なお快速を誇る急行専用機として誕生。その基本型は米国製の秀作C52を叩き台とし、日本の技術水準を引き上げる一大指標となるはずでした。
しかし、重量増を嫌った過度の軽量設計が裏目となり、台枠の歪みに起因するベアリングやクランクメタルの焼付き事故が多発。
3気筒機特有の弁装置に係る保守管理にも手こずる始末で、昭和3年の登場から戦中の優等列車廃止までの束の間の活躍後、表舞台から姿を消して行きます。
D51については、更に過酷な1000t超の貨物列車向けに造られながら、重量配分が後ろ寄りで、荷重が掛かると空転しやすいクセがあったそうです。
それを多少なりとも矯正しようと前進させた運転台にはボイラーがはみ出てしまい、前型のD50よりも作業性・居住性が劣悪との不評を囲ったまま、戦時輸送体制下で1100両余りが量産されたのでした。
ただ石炭くべて走るだけならまだしも、トンネルなんかに突っ込むと、狭い運転台では排煙やボイラーの炎熱地獄に巻かれて逃げ場がないんだとか。
気動車についても…戦前にあった三菱製直噴ディーゼルの試作提案を知りながら、戦後に熱効率の悪い副室式+無過給、大重量・低出力のDMH17エンジンを採用の上で大量生産。
新幹線も0系一本の時代が長く続きましたが、それは「最新鋭」「高性能」「専用設計」であればこそ。
いくら非電化線が主要幹線~ローカル線にわたり汎用性を優先するにせよ、はたまた他に代わる高速ディーゼル機関が無いとしても、
「17リッターで180ps、出た時点で時代遅れ」「燃費は悪く熱量過大」「登り坂でずっと全開にしてると火を吹く」「サービス電源(主に空調)にもこの巨大で非力なエンジンを使った為、特に優等列車には運用の足枷となった」
ような代物を、特急形から通勤車まで5000両も揃えてしまっては、後から手直しや新設計を加えるにも四苦八苦。
経営悪化と労使対立で組織全体の思考が硬直化する中、ディーゼルメリットが活きない副室式を捨てられないまま実用段階で失敗を繰り返し、はたまたガスタービン試作に手を出した所でオイルショックに見舞われるなどの迷走の果て、国鉄における気動車技術向上の取り組みは頓挫する事になります。
そういった失敗の元を作った人でもある、と思うと、功罪天秤にかけたらどっちへ転ぶんだろうかと思えてなりません。
確かに新幹線は日本産業界、重電から市中の板金業者に至る技術の結晶ですが、敷いて走らすには大金が要る。売り物になるのに半世紀近くかかりました。
台車はフルアクティブサスに一新された一方、ノーズの流線型は未だプレス化出来ず、ハンドハンマリングの叩き出し。一品モノで造ってますから、そこは別オーダーになってしまう。
中国辺りにこういう技術を出すと、T34よろしく全車型をプレスで一発抜き!
価格半分納期半分精度1/5!なんて泥塗られそうでおっかない(苦笑)
話がおかしくなりましたが、確かに新幹線は速いし便利とは言えど、あんまり旅情的なものを差し挟ませてくれないんで好きになれないのです。
あっという間に着くけど、途中で何処を通って来たのかよく解らない。
なんか、電脳時代の人生みたいな感じがどうしても好きになれません。

Posted at 2011/01/28 15:31:22 | |
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