久々クルマ以外のはなし。
南館増設・改装して初の鉄博でございます。
うーん。車両スペースの展示にあまり変化がなく残念。ただし、
アルピコ交通が保存してたという、「ハニフ1」には驚いた。だって
あのー、社屋の裏かなんかに雨晒しで置いてあったであろうまんまな姿で展示
してあるんですよ。ガラスはそこら中抜け落ちてるし、塗装も剥がれ落ちて板材の地が出ちゃってるもんなぁ。木造車体は強度も殆ど残ってないようで、写真には無いが車体前後の床下に鉄柱が据えてある。
ただ、この朽ちかけた車両にプロジェクションで描く現役当時の走行シーンは涙モノ。
東京駅舎なんかに客寄せでやるヤツよか、1000倍価値があるね。因みにこのガラクタ (殴) 、
中央線快速のご先祖様です。決して軽はずみにガラクタ呼ばわりなどなさいませんように。
これは前からあるランチトレイン。片っぽは通路下になって雨晒しからはいくらか…。
バリバリの現役車両を収蔵するわけにいかないので、ざっくり言うと「つくりもの」のE5系。しかし
インテリアはみっちり作り込んであります。グランクラスのつくりものって…なんかムダに贅沢だなw
贅沢と言ったら名古屋には、787の実機が展示されてるらしい。何があったんだボーイング。たいがい、民間機って試作機も仕様を作り直して売っちゃうもんですけども。
※通常、E5系の車内に入っての見学は出来ません。覗くだけ。
また、以前は資料室に押し込んであった収蔵品を大挙動員して、新しい展示を作ってます。
お雇い外国人からの技術移転を図るため作られた、「工部大学校」の卒業写真。
…最前列のおまえらちょっと来い💢
鉄道開業から30年後、ようやく立ち上がった八幡製鉄所。しかし国産のレールは品質が悪く、なかなか使い物にならなかったそうな。
東京駅を免震化するのに掘り出した、山形産とされる松の杭。国内各所の木材から厳選されたとあって、100年以上土中にあったのにこの美しさ。
1935年(昭10)、既にドットマトリクスと思しき電光式の発着案内が実用化されていたんですね。知らなかったー💧
新幹線計画の責任者=国有鉄道技師長・島秀雄の失敗作・C53の機構部模型。
島自身は、父の島安次郎共々技師長を務めた生粋の技術屋だったが、このC53や有名なD51、戦後初設計のディーゼルカーなどはどれもこれもまともな仕事が残っていない。D51は重心位置が悪く、パワーをかけると空転しやすい欠陥があったが、登場が戦中期に当たったため
「運転台が狭い ? しのごの言わずに黙って使え ! 」
「国家の非常時だ ! 戦時輸送のためにどんどん作れ ! 」
てなことで、欠点の改良どころじゃなく1000両以上作っちゃって、なんか気がついたらそこら中にいる「結果オーライ」な機関車なのだった。
このC53の場合は、左右のシリンダーに加えて中央シリンダーを持つ3シリンダー機なのだが、当時の日本の鉄道設備は大重量の高速機関車を思いっきり走らせる余裕はなく、出力の向上と重量軽減を両睨みしなければならなかった。
で、大学出たての島は、ただでさえ機関車の心臓部であるシリンダーを3本支えて重くなった車体台枠やタイミング機構のリンクなど、あっちこっちに肉抜き穴を開けて回った。そしたら、
走行中に台枠がパワーに負け、動輪の軸受や駆動ロッドの大端部などが歪み抵抗が増えて過熱したり、
蒸気をシリンダーに振り分けるタイミング機構が狂い、…車で言ったら、直噴のガソリンが気筒毎に噴いたり噴かなかったりって感じですかね…起動不能になったり、
最悪は、過度な肉抜きで剛性不足の台枠に亀裂が入って運転不能になるほどの損傷を来たす、文字通りの「欠陥機関車」となってしまった。
C53自体、大出力の高速機として特急を牽くために作られており、「タフな心臓にヤワな背骨」をかばって爆走させるには…
とにかく駆動部の過熱をなんとかせなならん
↓
しかし油冷するにも、オイルラインの備えが無い
↓
おい、誰か一斗缶持って油を注ぎ続けろ !
…島秀雄はその後、罷免も左遷もされることなく、最後には新幹線システムの完成者として後世に名を残すことになるのですが、彼の「ヒドい機関車」のおかげで動輪の間にゴーグルと命綱付けて潜り込み、目の前でぐわんぐわんと回る大端部目掛けて機械油をヒシャクでじゃっぽじゃっぽとぶっかけ続け、…沼津から名古屋だっけか?
名古屋に着いてみたらもう、油と埃で全身真っ黒になって駅長が絶句したとかね、そういう鉄道員がいたコトも忘れてはなりません。
正に「一将功成りてなんとやら」。
あーなんか打ち疲れたぁ。
まぁ拙者の駄文は置いといてもね、皆さん、鉄博面白いですよ。是非いらしてみて下さいな。
次は京都に行かないとなー。
Posted at 2018/10/12 17:57:21 | |
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