昨日、家の不要物を整理していた訳ですが・・・
これ、、、捨てれないな・・・
って、週刊誌がありました。
1995年9月11日に朝日新聞社より発行された「AERA」です。
下記にフォトジャーナリスト水口康成氏の記事をコピーします。
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彼女の方が先に、私の姿に気付き、駆け寄ってきた。
確かに、郁子さん(二九)=旧姓・中屋敷=だ。
生きていたのだ。
抱き合った。
三人の子どもも、無事だという。
あとは、ただ涙があふれ、言葉にならない。
すっかり痩せ細り、小さくなってしまった。
八月十九日のことだ。
クロアチアの首都ザグレブから南へ約七十キロほど、セルビア人勢力下にあったクライナ地方のミホレスコ地区に設けられた難民キャンプ。
郁子さん親子は、戦火を逃れて流入した約二万人ともいわれる難民たちに交じって、救援を待っていた。
子どもたちだけが支え郁子さん親子が、それまで住んでいたのは隣接したボスニア西端部のビハチ地区北部だった。
この地区はイスラム教徒主導のボスニア政府側に反発する反政府イスラム教徒勢力(アブデイッチ派)の拠点の一つだが、八月上旬、クロアチア政府軍と共同戦線を組むボスニア政府軍の大攻勢を受け、制圧されてしまった。
行き場を失った住民たちが難民と化した。
郁子さんも、長女ナツミちゃん(一つ)を背負い、長男ハーリスちゃん(七つ)、次男ケレジちゃん(四つ)の手を引き、山道を歩いて逃げた。
ミホレスコヘは、八キロの道のり.到着した夜は、地べたに草を敷き、子どもたちと抱き合って寝た。
だが、その後の五日間は、どこからも物資の援助はなく、逃げ出した際に持ってきたわずかばかりの食べ物を分け合って凌いだ。
「これから、どうなるのか。何の見通しもなかった。子どもたちだけが、心の支えでした」
二日目からは小さな倉庫に寝場所を移したが、雨が降ると、水が滲み込んでくる。
あれやこれや、これからのことに思いを巡らせれば、とても熟睡できるような日々ではなかった。
私が郁子さんと初めて出会ったのは、 一九九二年暮れ。
その前年の春、旧ユーゴの崩壊に伴い、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言を契被に勃発した内戦を取材するため、資金を正面しては現地入りを繰り返していた時のことだ。
ビハチ地区を訪ね、反政府勢力のアブディッチ西ボスニア自治州代表(当時)にインタビューした際、日本人の女性が暮らしていると聞かされて、びっくりした。
まさか、と思いながらも訪ね当てたビハチ北部ベリカ・クラドゥシャのレンガ造りの家で、「こんにちは」と声をかけたら、出てきたのが郁子さんだった。
私の突然の訪間に、彼女も驚き、はじめは日本語がなかなか口から出てこない様子だったが、夫
のリビチ・ハーシュミさんも、にこやかに迎えてくれた。
郁子さんは、末っ子のナツミちゃんを身ごもっていた。
平和な日々は一転した岩手県二戸郡一戸町出身の郁子さんは、農業研修員として八六年にスイスに行っていた時、同じように農業研修に来ていたリビチさんと知り合って、結婚。
そのまま日本へは戻らずに、リビチさんの故郷、トドロボで家庭を持った。
「愛し合っていた。幸せだった」まだ、平和な時代だった。
リビチさんは、地元の食品加工工場で働き、郁子さんは主婦業に専念しながら子育ての毎日を送った。
だが、わずか数年後のボスニア内戦勃発で一変する。
郁子さん一家は、戦闘を避けてベリカ・クラドゥシャに移り住んだ。
それが「レンガ造りの家」だ。
当時この地区一帯もすでに戦闘態勢にあったが、物資は比較的豊かで市民経済はそれなりに機能していた。
「今、この国を離れるつもりはありません。
夫と一緒に、この地で子どもを育てたいんです。
岩手の両親には、元気で暮らしていると伝えてください」
郁子さんは、けなげに、気丈に、そう言った。
落ち着いた静かな口調だったが、内に秘めた決意の固さがひしひしと響いてくる。
私は、次の取材地へと、ビハチを離れた。
年が明けた九四年一月、私は岩手の実家に郁子さんの無事を知らせ、そのニカ月後にボスニア入りし、両親の手紙を持って再び郁子さん一家を訪ねた。
涙を浮かべながら手紙を読む郁子さんだったが、「ボスニアで生きる」という彼女の決意は、まだ変わっていなかった。
夫死亡の知らせに愕然ボスニア内戦激化のニュースを聞くたびに、その後も私は一家の消息が気掛かりだった。
九四年秋、郁子さんから「家族を連れて帰国したい」と打ち明けられた。
夫は兵役にとられて離れ離れになってしまったという。
私は、日本に引き返して外務省などに「帰国の便宜を」と働きかけたが、「(彼女の)意思が確認でき
ない」などと、反応は鈍かった。
ニカ月後に、郁子さん宅を訪ねると、 一家の姿はなかった。
「イクコは狙撃された」近所の少年の言葉に、私は息をのんだ。
後から、郁子さん本人に聞いたところによると、戦闘に巻き込まれ、右肩を撃たれたという。
しかも、夫のリビチさんは政府軍の砲撃で、死亡したとの知らせも届いていた。
郁子さんの傷は幸い軽く、親子はトドロボ地区に逃れ、夫の親類宅に身を寄せて、なんとか暮らしてきたという。
救出がもう少し早かったら、ギターが上手な、最愛の夫も失わずにすんだかもしれない。
「運が悪かったのかもしれない。戦争が憎い」
今、九年ぶりに岩手の実家に戻った郁子さん。
無邪気に遊ぶ三人の子どもを見つめながら、そうつぶやく郁子さんの口は重い。
ボスニアでは人日の多数派であるセルビア人武装勢力、イスラム教徒主導の政府軍、反政府軍、ク
ロアチア政府軍などが入り乱れての戦闘は、再び激化している。
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当時、帰国して実家に居る時に会いに行って少し話した。
そん時・・・
おれは、遠慮しないで本当の事を言いすぎるらしい(汗
だって、モマイよぉ。。。
まさか、モマイが日本テレビの『きょうの出来事』でニュース出るなんて・・・びっくりしたし。。。
郁子さんに、、、悪気がないのは解ってるけど・・・言っちゃダメwwwと・・・(滝汗
この雑誌を持ち・・・
アイツ・・・
元気なのかな?と、昔を思い出した(当時30歳
ネットで検索してみると・・・
本を出したらしいので興味ある人は読んであげてください。