いつの間にか20年と言う月日が経ちました。何度かアップした内容になりますが、忘れ去られてしまう「風化懸念」が現地で出ているとの事で、自身が体験した事柄を個人目線から記録としてアップします。
※写真はデーターフリーの物を利用させて頂いています。本文との関連性はありません。また何度も行き来しているので記憶違いによる点や様々な矛盾があるとは思いますがその点はご了承ください。
当時は、JR塚本駅と阪急十三駅の真ん中くらいの立地にある、12階建てのノッポマンションの11階に住んでいました。ベランダからの見晴らしがよく、神戸の山並み方面がよく見えます。
マンションは、台所にこたつを置いて小さなテレビがある場所と、ベランダがある寝室の2つ。
震災前夜には、ちょっと不思議な事はありまして・・・寒くて面倒だから、こたつで眠る日々が続いていました。当時は関東炊きが好きで、重くて大きな土鍋に目一杯山盛りで作って置いてありました。五キロは余裕で超えてる重さ。
で、それを作りおいて寝ていたのですが、何故か夜中に起こされたような感じで起き、冷たいベッドにわざわざ移動し寝てしまいました。
地震!
これまでま地震の震動とは全く違う。
いきなりドーン!と、1メートルくらい上に飛ばされる感覚が最初の一発目であり、ここで「アカン、終わった」と覚悟を決めるくらいの縦方向への衝撃に続いて体が落ちたとたんに左右への激しい横揺れ「マンション折れた」と覚悟するくらいの横揺れの衝撃が、本当にびっくりするくらい長く続いていました。(本当は十数秒)
物につかまる、隠れる、etcとマニュアルにありますが、どれも不可能です。寝ていたというのもありますが、あの衝撃では抗う術はありませんでした。
収まって、暗いので電気を点けても反応なし。何故が風が吹いていて寒いのでベランダを見ると・・・アルミサッシが開いています。閉めても閉まらないので手元を見ると鍵が掛かった状態。という事はひずんでゆがんで開いた・・・と言うあり得ない状態でした。家具がないので倒れているモノはないのですが・・・テレビが無い。当時で大型の29インチのブラウン管テレビですから重くて大きいのに、3メートルほど飛んでました。
台所に行くと、大きな土鍋がおでんの具をぶちまけて落ちて割れています。・・・前日にこたつで寝ていた頭の位置に落ちていたのでした。あのまま寝ていたら無事では済まない・・・不思議な事と頭直撃の恐怖と考え背筋が寒くなりました。
ベランダから見る街並みも真っ暗。世の中がどうなったのかテレビも電話(携帯は一般には普及されていない時代)も通じないので、とりあえず洋服を着替えて外にでてみます。
11階なのですが、当然エレベーターは動かず初めて階段を下りてゆくと・・・あちこちの玄関が開いていて、ちら見すると家具がアチコチに飛んでいて悲惨な情景。何人かと階段を下りてゆくと一階の管理人室に人だかり。聞いてみると、ラジオがあり、どうやら淡路島で地震があったとの事しかわかりません。
震災の知識も備えもしらない物ですから、呑気にコンビニに電池と食べ物を買いに。マンションの外は真っ暗。信号も外灯も通電していません。歩いてゆく途中に何軒かのお家の屋根や外壁が崩れています。コンビニに着くと自動扉なので停電なので扉は開きません。店員さんは、レジ台に登って座って、ふて腐れ顔で足をバタバタしてこちらにバツ印をするのみ。仕方ないので部屋に帰り片付けていると7時過ぎくらいに通電。
テレビを付けてビックリ。ある程度の状況確認とともに、神戸が大変な事になっていました。慌ててカーテンを開けてベランダから神戸を見ると煙があちらこちらに上がっています。炎も見える箇所もありました。サイレンが遠くに近くにとずっと鳴り続けています。
仕事に行く時間。電話は通じません。仕事場は尼崎に事務所があり、個人的に判断しても通常通りには無理でしょう。仕事先は全国に顧客がいましたが、神戸では御影と三宮のお店にお邪魔していました。そこが心配。
取り敢えず自分が仕事の範疇で出来る事を考えて出社。CB1000SF-TⅡを趣味で持っていたので緊急車両の妨げにならないバイクで裏道を使って向かいます。
塚本から尼崎までは、火の手も上がるような箇所もなく事務所に到着。事務所番をしてスタッフの生存確認、話し合いの結果、バイク持ちの自分が後日に神戸入りして取引先の確認と報告をする事になり解散。大阪の実家は電話は繋がり「こっちは、ちょっと揺れただけやったけど、そっちは大丈夫?」との事で大阪は被害ないのに逆に驚き。
事務所のスタッフとは前日にこんなやりとりが
当時は小さな地震が頻繁にあり、垂直に雲が上る「地震雲」がよく上がってました。北海道で地震があると、翌日くらいにこちらにもあったので、夕方に
「地震雲もあそこにあるし、昨日は北海道に地震があったから明日はまた地震がありそうですよ」と、言うのを思い出しました。※それ以来、雲や地震情報はチェックしています。
取り敢えず御影と三宮のお店の状況を確認し報告する為に、邪魔にならないように裏道で行くのですが・・・車はほぼ通っていません。尼崎から先を過ぎると下記の写真のような光景。
御影の駅前のお店は2階にありますが、大きなガラスが全て割れて営業は不可能な状態。
長田方面は2号線を通ったのですが、奥の方は火が出ています。
驚いたことに、倒壊する区画と、ほんの1メートル先なのに全く何もの被害のない区画があるので驚きました。全体的な被災ではなく、要所要所が被災している状態でした。
被災区画が多すぎて、決定的に救出消防する数が足りていないようです。
三宮についてお店が入居するビルは無事だったので、上がってみましたが、中は散乱が凄いようですが片付けられれば営業は可能。しかし、降りて裏のビルを見て驚愕・・・傾いてお店のビルに倒れて寄りかかっています。営業は不可能・・・。
と、単車に戻ると轟音と地響きと煙が襲ってきました。30メートル先の他のビルが倒壊したのです。恐ろしい事に、こんな衝撃的な事柄にも関わらず20年も経つと記憶が風化している所・・・
他の日に、神戸の知人宅からSOSが入り、水の補給がうけられてもタンクがないので大阪で買って持ってきて欲しいと。
早速、大阪の某お店にいくと・・・値上げしています!売れているから値上げしているとの事。やるせない気持ちです。そして大阪の街はいつものようにキラキラと明るく華やかで活気があり、人々はいつもの日常です。釈然としない反面、これは現実であり当たり前の事。経済活動をしてくれる事は、巡り巡って被災地に何かしらの恩恵が向けられる、と自身に言い聞かせて電気も水道もない知人宅に。
阪神高速のバスが落ちかけの場所を通って帰りました。裏道や国道2号線は緊急車両などの妨げになるので大きな道路のここを通ります。
車がほとんど通っていないのは、道が切れていたり段差が大きいからのよう。
バスの場所の下側に燃えて炭になって大型トラックが・・・目の前のGS店員さんに聞くと、このトラックにペットボトルが満載で横転して放置してあったのをテレビで映したようです。それで運ちゃんが無料で配っていたのですが、やはり直ぐになくなり、遠くから歩いて取りに来た方が無くなった事に激高し・・・火が出て消しても間に合わなかったようとの事。
2号線がずっと渋滞して物資トラックなどが1時間に1センチしか動けない状況。
ベランダから神戸の空がずっと煙があがっていた事。
某地区を夜に通ったのですが、無法地帯で男でも恐ろしかったこと。
バイクと自転車が活躍していた事。
たくさんの方々がボランティアにかけつけてくれた事。
線路をあるいて被災地にあるき続けた事。
ある保険屋さんが現金もって駆けつけて、証書なしでもその場で対応していた事
某電話キャリアが携帯を使ってもらえるように大量にもってきて無料で配ってくれた事
少しでも揺れがあるとちょっとパニックになる自分に動揺した事・・・
・・・
風化と言うのは、自身でも驚きます。月日が流れるのは記憶がどんどんいい加減になっているのに自分に驚いています。
どう震災に向き合うかは人それぞれですが、周りの助け合いや協力は重要です。
たとえ感謝されなくとも目立たぬ行いでも、少数でも、きっと誰かの救いになっていると痛感します。
また、震災への備えや危機意識はさらに重要だと思います。
以前に、東京消防局の講習を受けたことがあり、東京都、23区など東京消防局管轄の広範囲で救急車の総台数を聞いて驚きました。2百数十台しかないとの事。1台に2人乗れたとしても500人前後・・・何千人規模の災害があれば、全ての至急の対応は不可能です。道路が通れない状況になれば尚更救助は遅れてしまいます。それらを踏まえて、自分に出来る事、事前の対応を場所場所や離れている身内の状況等も考え、数多くシュミレーションしてイメージしておくのは重要だと痛感しました。
いつ、身の回りに災害が起きてもおかしくない、と言うのは私たちは経験しているはずです。
改めましてて
阪神・淡路大震災で、被害に合われ、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。