![WRCドライバー列伝 カルロス・サインツ WRCドライバー列伝 カルロス・サインツ](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/021/544/474/21544474/p1m.jpg?ct=dfc4cfed9cba)
エル・マタドール
嘆きの王
1990年、92年チャンピオン
スペインと日本車にとって初の王座を獲得。
それまでのWRCの流れを変えた男です。
サインツがチャンピオンになる以前は得意なラリーに参加してポイントを獲得し苦手なラリーをキャンセルしたり、スポット参戦する
地元のスペシャリスト達も沢山いた時代でした。
サインツはターマックが主流のスペイン人でありながら、グラベルでも速く、スカンジナビアン以外での初のフィンランドラリー優勝など、スペシャリスト達を蹴散らします
サインツ以降、オールラウンドな適応能力を持つドライバー達がチャンピオンになっていきます
情熱の国出身らしく、勝利への要求たるや凄まじく
セットアップの為に走り終わったラリーカーの泥を全部洗い流させたり、ミリ単位の車高の調整を求めます。
その為、サインツが在籍したチームの車は確実に速くなり
その仕事振りは同僚ドライバーにも影響を与えます。
が、
嘆きの王 と言われる由縁
結構波乱万丈ですよね。
TTE加入後、二度の王座獲得し
これからも、この蜜月関係が続くはずだったんですが
TTEがカストロールとスポンサー契約しチーム在籍が不可能になりました。
サインツは個人スポンサーとして
レプソル(スペインの石油会社)
を持っており
バッティングしてしまったのです。
泣く泣く、ワークス活動が終了したランチアのプライベートチームに移籍するも奮わず(汗)
貢献度の高かった昇り調子のワールドチャンピオンがこんな理由で移籍ってのもスゴい話ですよね(笑)
スバルからトヨタに戻ろうとしたら違法改造でトヨタは出場停止
フォードを経て満を持してトヨタ復帰後、マーガム・パークの悲劇があったり、翌年ワークス活動終了(ホント色々あるわ)
二度のチャンピオン。
まともに行けば4、5回はチャンピオンになれてたはず。
最終戦までチャンピオン争いをしてチャンピオンシップ2位が多い(汗)
1番悲劇的だったのが98年
最終戦グレートブリテン
ポイントリーダー、マキネンがラリー初日でリタイヤして
ラリー最終日、サインツはそのままの順位で走りきればチャンピオンのはずが…………
最終SSマーガム・パーク
エンジンブロー
残り300メートルでリタイヤ
嘆きの王 ここに極まれり。
2003年にも最終戦までチャンピオン争いをしますが、
スタート直前、車載カメラから煙が出てゴタゴタしたりしてリズムを崩しあっさりコースアウト
でもサインツにしてみれば98年よりマシだったでしょう(笑)
さて、そのドライビングスタイルは
多分、基本的にはFFの延長的な
フロントを軸にリアを振り回す感じだと思うんですが
結構乗ってる車によって印象が違います。
ST165~185だと上記の印象で
スバルの時には
アンダー気味というか
常にステアリングがイン側に切れている事が案外多く
フォードエスコートの時には
見てて結構キレイな感じリアを振り回してたり
カローラはフロントを軸にリアを動かしたり
様々な印象があります。
が、個人的な印象として
フォトジェニックなドライビングでは無いというか(汗)
見栄え良い車の動きがあんまり無い感じ(ファンの方すいません)
自分の手持ちの映像には何故だか
ターマックで
Rの小さなコーナーで華麗にリアを振り回して行こうとしてる最中にグリップが回復して車の動きが止まってしまったり
グラベルで侵入アンダーで
アウトアウトアウトなだったり
まぁ、「あ、失敗したな?」
的映像は各ドライバーそれぞれ
あるんですが、
サインツの出演率は高いです。
反対にほとんど無いのがカンクネンでした。
ただ、90年前半からグループA、WRカー初期~中期
機械式から電子式、パッシブからアクティブデフ、そしてダウンフォースに重点を置かれ始めた時代
目まぐるしい変化の中、適応し
第一線で活躍し続けた唯一のドライバーだと思います。
個人的には、コ・ドライバー、ルイス・モヤの
スペイン語のペースノートの声が印象的でしたね(笑)
![](/user/css/images/icon_keitai_1112.gif)
Posted at 2011/02/21 18:55:17 | |
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