2011年05月24日
宥座の器 ~足利学校にて~
かなり激しい雨が降っていた。空はやや灰がかった白色で比較的明るかったが、冷え込みも強まってきて、一挙に春初頭くらいまで四季というビデオテープを巻き戻して再演しているような有り様であった。栃木県足利市の足利学校内を散策していたときの天気である。
出だしの文章を天気の話に置き換えられるというのは、それだけ豊富で多様な気候が列島に存在するからに相違なく、その点、われわれは本当に恵まれている。
ところで、足利学校とは一説によれば、平安の昔に遡るほどの歴史を持つ学校であり、江戸期に至るまでさまざまな地域のさまざまな人々がここで学んだとされる。

藁葺き屋根がいい具合に黒ずんできて、藁からわずかに雨が滴り落ちてくる。この様はどう表現すべきだろう。少なくとも、以上のような光景に感傷を覚え、得も言われぬ玄妙な心地になるのは、われわれくらいなものだろうと思う。
そこには温暖湿潤気候で四季が明確にあり、それゆえに季節ごとの移り変わりに対して自然に鋭敏な感性を育むようになったという気候要因説を私は採用したい。
方丈の建物の中を見物していると、足利学校で働いている女性から、「今日は書院で論語の素読をしています。普段入れない箇所なので、宜しければどうぞお入りください」と声を掛けられたので、赴くままに書院に入り、畳に坐す。
既に素読は終盤に近づいていたものの、なんとか孔子の言葉の一説を他の参加者と共に素読することができた。
音読の効用というのはさまざまにあると思うが、漢文読み下し文の場合、だいたい文章の呼吸というか、発音して休止してまた発音するフォームが定まっている気がする。それゆえに、音読で繰り返し読む素読という方法は、論語の漢文読み下し文を理解するにあたっても有効ではないかと思う。素読をしているうちに、かの人物の思想(『論語』でいえば、孔子の弟子が書き記した孔子の言葉)がだんだんと理解できるようになってくるから不思議である。
『論語』は比較的平易だし、われわれは論語の文章をいくつか知っている。だからこそ、敷居がもともと低いうえに、素読により、私たちは先天的に慣れている文章のリズムを取り戻す。だから、理解がしやすいのであろう。
「論語読みの論語知らず」という表現もあるが、私はそれでも構わないと思う。枝葉末節にこだわり、知識のみを蓄積し、実行が伴わないとしても、そういう具合に生きるのも一つの道だろうと思う。孔子は賛同しないだろうが。
私の考えは、自由自在・融通無碍の老荘思想に近いのかもしれない。
素読を受け持つ先生は年配の男性だったが、実に礼儀正しく、これぞ儒生だなと感心してしまう。きちんと一礼をされ、こちらの感謝の言葉に応えてくれる。これは当たり前の威儀のように思えるが、やはり儒生に生きるものにとっては、この当たり前さの濃度が私たちの比ではないように思える。それくらいに儒教は作法・振る舞いといった礼式を重要視する。
それがしばしば固定的な道徳に堕し批判されることもあるが、こと足利学校の先生にはそうした点はまったくなく恬淡としていて、私を含めた素読臨時受講生は自由に書院から眺められる池のある風雅な庭園や孔子廟(孔子が祀られている建物をいう)を臨んだ風景を被写体として収蔵することすら気儘にできたのだ。
さて、画像をご覧いただきたい。
コップがぶら下がり、柄杓が置かれている様に気づくはずだろう。
これは私も始めはなんなのだろうといぶかしんでいたが、後ほどその疑問が氷解した。
これは宥座の器(ゆうざのぎ)と呼ばれるもので、しばしば抽象的である思想性を目に見える機能によって表現した、いかにも唯物的・実証的な中国らしい道具である。
空の状態だとコップは傾いたままである。柄杓を使いコップに徐々に水を足していく。すると、コップに適量の水が入ったくらいにちょうどコップは垂直になる。
ところが、さらに水を入れようとするとコップは傾き、やがて水もこぼれる。
実際に柄杓を使用して水を入れてみたが、実に面白いことに適量でないとダメなのだ。
これは中庸の大切さを表現したものらしい。
参考となるサイト
中庸とは、ごくごく簡単に言ってしまえば程よいバランス感覚のことだと思う。あることに偏向するのではなく、あらゆる対象を等距離に見る感覚。ある種の相対主義にも近いように思えるが、孔子の思想を西洋哲学風な言葉でいえば、あるいはそういえるのかもしれない。しかし、「人間は万物の尺度である」と喝破したプロメテウスのように、人にはそれぞれの基準(尺度)があるという考え方とは異なると思う。
孔子は礼を重んじ(一般にいわれる礼の意味ではないがここでは儒教の根幹をなす概念と考えていただければよい)、ゆえに孝(両親を敬う心)や忠(主君に忠誠を尽くす心)などの大切さを説いた。つまり、万人に共通する尺度を提示したという点で、プロメテウスとは異なる。
余談だが、孝と忠では、前者のほうが価値として重いとされている。
仮に両親が犯罪行為をしたとしても、息子や娘がそれを非難し、世上に訴えるというのは間違えであり、どこまでも両親をかばう。極端な例だが、これが孝である。
もしも、両親が息子が仕える王を殺せと命じれば、息子は儒教的な考えを採用するならば、王を殺すのが正当なこととなる。
かつて北朝鮮の金日成が亡くなったあと、後継の金正日は三年もの長期間服喪した。これは儒教的な孝の観点からいえば、ごくごく当然のことであり、われわれにとっては少し奇異に見えるが、大陸中国や朝鮮半島といった儒教圏では普通のことなのである。
もっとも、最近は儒教的な価値観から開放されてきているようにも思える。だが、われわれが雨降りしきるなかに叙情を感じてしまう不思議な感性をごく自然に有しているように、やはり上に挙げたこれらの地域では、儒教的な要素が行為や言動によって現れてくるのだと思う。
方丈を出た頃、雨は小降りになっていた。
実は本文中の写真は足利学校を外から撮影したもので、すっかり雨が止んだのちに撮影したものであった。
方丈を退出する前に、百円で販売されていた『論語抄』という冊子(80ページもあるから書籍と呼んで差し支えないだろう)を購入した。
これが実によくできていて、一ページごとに『論語』の孔子の言葉が墨書体の読み下し文で書かれていて、左側に現代語訳がわかりやすく書いてある。
これほどに、わかりやすい書籍を極めて廉価で販売するのは驚きでもある。
が、考えてみれば、これは足利の培ってきた伝統的な学の風の歴史を鑑みれば、不思議ではない。
境内には字振松(かなふりまつ)という松が植わっていて、読めない字やわからない言葉を紙に認めてこの松に結んでおくと、翌日には振り仮名や注釈がついていたという謂れがある。
こうした土地柄なのである。
まことに好ましき地である。
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Posted at
2011/05/24 10:17:33
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