2012年11月03日
【ワルめーらの日本を歩く】丹波山越えと有馬温泉
承前。
【ワルめーらの日本を歩く】京都嵐山渡月橋・天龍寺
「丹波にはねぇ。何もないんだよ。大学のテニスコートだけはあるけれど(笑)」
昔、ミクシィで知り合った京都丹波在住の女性が、そのようなことを述べていたことを思い出す。丹波に行きたいのだけれど、オススメの場所はないかどうかを聞いたときのことであった。
京都市街のことならば、驚く程の文章表現力ですらすらとその魅力を書き連ねる彼女が、こと丹波のこととなると、一文を認めるのも億劫になるようにみえるのが興味深い。
私自身、学生時代に京洛の市街を抜け、丹波路に行ったときに、市街地とのあまりの都鄙の差に驚いたものである。
渡月橋から眺めたまん丸とした山々に向かう。この山々を超えれば旧国名でいう丹波に入る(現在の京都府・兵庫県の一部にまたがる)。
一見すると大した山々ではなく悠々と山越えができそうな気がするのだけれど、道路の整備状況は想像だが、江戸時代辺りからあまり変化していないのではないだろうか。
背の高い杉木立が狭い道路脇に林立し、昼間でも薄暗い。鋭角に近いカーブが無数にある。山陰道は別として、ほかの道路は国道・県道を含めて、京都市街から北部や西部に行く時の印象は以上の通りである。

保津川下りというのも考えてみれば、非常に急峻な川を下る遊びであり、これほどに刺激的な川下りはないのではと思う。私は保津川下りを体験したことがないので想像だが。
京洛から丹波へ渡るには保津川を逆流して登るという荒業が必要となり、自動車で抜ける分には川を逆流するほどの抵抗はないものの、やはりそれなりに難路だとは思う。なにせ薄暗く狭い道路が延々と続くものだから、気分の問題としてそう感じてしまうのだろう。
本能寺の変前の明智光秀の領地が丹波であったという話を前回したと思う。
ちょうど、中国地方への毛利氏征伐に秀吉が苦戦していた頃で、信長共々光秀は秀吉を応援すべく、中国地方に赴く予定だったと言われている。
ゆえにこそ、信長に命じられたものだから、大軍勢が丹波を出立しても怪しまれなかったと言われているが、進路を中国地方ではなく、京都本能寺に変えた時点で、
十分に怪しむに足りると私は思う。このことについては、以前もブログで書いておいたが、また言及する機会があるかもしれない。
このとき、光秀は出雲・石見の領地を与えることを約束されていたという。しかし、当時これら領国は毛利氏の土地であり、また現在の丹波の代わりにあてがわれるというものであった。それゆえに、切羽詰った光秀が謀反を決意したという説もある。
そのほか、光秀が丹波の豪族波多野氏を攻略したときに起きた悲劇を謀反の原因の説とするものもある。
波多野氏の本拠である八上城をなかなか落とすことができなかった。
そこで、信長の命により、明智光秀の母を人質にして八上城に送った。そのかわりに波多野秀治らを城から誘い出すことに成功した。
しかし、なんと講和会談中に秀治を捕らえて、光秀が止めるのを無視して処刑してしまったという。
激怒した八上城の兵たちが、光秀の母を松の木に磔にして殺してしまったという(当時としては当然の処置であった)。
この時に光秀は信長に恨みを強く抱いたという。
本能寺の変に関しては、あまりにも多くの説があり、それゆえに興味深い。
丹波に関係するものとして、二つの説をあげたが、前者についてはありえないと思う。信長のポリシーからすれば、配下の重鎮を領国の隅に配置させることは当然であったし、丹波(と近江の一部も領していた)が召し上げられるというのは、信長の性格からして推量できることではなかろうか。
これが真実だとすれば、光秀にとってはむしろ栄転ではなかっただろうか。
むろん、毛利攻略が成功すればの話であるが。
後者については、確かにこのような事実はあり、それが光秀の心に暗い影を落としていた面があるかもしれない。ただ、より細かくみていくと、光秀の母が本物であったのかなど、種々の疑問が残る。
というわけで、未だに本能寺の変の動機というのは謎めいたままなのである。
動機のみならず、光秀軍の変の時における行動についても謎めいたままであるのだが。
話を戻そう。
道中に水尾という小さな集落があった。その昔、水尾天皇がこの地をよく訪れていたというが、当時の感覚からすればよほどの僻地であろう。今でさえ、僻地と述べてもいいくらいである。
江戸時代に幕府と対立した後水尾天皇とも関連があるとされるが、よくわからない。
また、JR保津峡駅の前にも向かったのだが、誰ひとりとして人はおらず、周囲をおお尽くす山々と眼下の保津川の渓流。そして、保津川に架かる鉄橋だけが人間の活動とは無関係に立ち尽くしているように思えた。
それにしても、これほどの山地に鉄道を施設し、駅を設けたのはよほどの難作業であったに相違ない。


徐々に道が平らかになり、野が開けてきた。
なんとか山越えを完了したように思える。

丹波は盆地をなしている高地であり、平らかな土地が多い。京都に近いということもあり、地勢的にも発展しそうな素地がたくさんあると思うのだが、いい意味で鄙びた風情をたくさん残しているのは京都との間を往還する道路のあまりの急峻さゆえに、自動車を主体とする交通では京都との結びつきが未だに強くなりにくいという点が挙げられると思う。

有馬温泉へのチェックイン時刻は割合と早めにとっていたのだが、一部で土砂崩壊かなにかで道路通行禁止があったのと、京都からの道程に時間を擁したために、予定よりも少し遅くなってしまった。
しかしながら、金の湯・銀の湯という具合に泉質によって二部される有馬の湯に存分に浸かることができたのは本当に幸せであった。
六甲山脈の北側にある有馬温泉は古くから湯治場として栄え、平清盛にも関係があるというし、秀吉はこの湯を殊のほか愛好したという。
秀吉が有馬を愛好したとして、彼は湯に浸かったのだろうか。
湯に入ることが一般化したのは、江戸時代になってからで、それまでは蒸し風呂が主体であった。
ゆえに、太閤秀吉も湯に浸ることはせずに、蒸し蒸した湯の煙を全身に浴びて鋭気を養ったのか。或いは、現代の我々のように、じっくりと湯船に浸かったのだろうか。
金の湯というのはやや濁っていて、銀の湯というのは無色の泉質である。
私が宿泊しているホテルには両方が整っていて、交互に入っては、時折、水風呂に浸かり、また金ないしは銀の湯に浸かるということを夜・朝ともに一時間近くしていたと思う。
温泉はもともと好きだが、有馬温泉のような泉質に出会ったのは久し振りのことで、
長居をした次第である。
私と同じく関東から来たと思しき男性客も「ここはいいお湯だな」と開口一番に述べていた。


翌日は六甲の尾根を伝い、さらに西へ進むこととなった。
次回に記そう。
ブログ一覧 |
日本を歩くシリーズ | 旅行/地域
Posted at
2012/11/03 18:48:16
タグ
今、あなたにおすすめ