
テレビや新聞を自発的に観る習慣が無い私には委細はよくわからないけれども、
いろいろと言上したいことがある。
が、原稿料をもらえるわけでもないので、やめておく。
今の私には、思想表現や社会批評よりも大切なものがある。
即ち、乳首の復興である。
90年代頃の雑誌を見てみい。乳首なんてぽろぽろ出まくっているが、それで社会的に機能不全になったことはない。少なくとも、経済においては好況(90年代後半以降もいまからすればまだましだった)であったし、一億総中流意識を皆が持てた稀有な時代であった。
よって、「乳首への寛容」と「社会的健全度」「政治や経済の発展」とは比例する。
昔の香港のエロ本でもあるまいし、★マークを付けて隠すことになんの意味があろう。隠蔽することで、人は好奇心を掻き立てられる。いったい、乳首とはそんなにたいそうな代物なのだろうか。たいそうな代物で、先に述べたように社会的な健全性や政治や経済の発展に影響を及ぼすのだから、凄いエネルギーを持っている。すなわちオルゴンエネルギーのようなものを持っているのだ(「別冊宝島」的の精神世界特集的な)。
「パンツが見える」(井上章一)や「夜這いの民俗学・夜這いの性愛論」(
(赤松啓介)あたりをご一読いただきたい。
性の放縦性や関心の対象なんてものは時代や地域によって、ころころ変わるものなのだ。そして、この日本列島においては、少なくとも想像しえないほどに★マーク的な要素が無かったということにご留意いただきたい。日本の伝統とやらを保持しようとする朋輩たちは、ぜひとも、このことを念頭に置いて、日本の国体なるものを述べていただきたい。
で、昨日は茨城から帰ってきて、日産に行ってまいりました。
ちょっとした事情があり、基本的にスズキ・スバル・日産の三者(ペレストロイカ)がスイスポの面倒を見てくれるようになっている。
スイスポの軽量さを活かした自然吸気の走りを後顧の憂いなく愉しみたいと思い、入庫。そして、なんと先代とはいえ、走行一万キロのノートe-POWERをお借りしちゃいました。
担当の方とは90年頃の日産の話を中心に雑談。あたかも日産の旧車を預けにきたんじゃないかという錯覚すら覚えたものの、そんなわけで愉しい時間を過ごさせていただきました(笑)
さっそく、ノートを走らせて、ワンペダルという機能を使ってみた。どう説明したらよいのだろう。アクセルを離すとかなり強力なブレーキのようなもの(ブレーキ?)がかかり、たぶん、燃費その他にも好影響を与えているのだろうけれど、よくはわからない。エンジンを補助的に使用するという点では合理的なシステムだなと思ったものの、現行では改善されたとはいえ、ワンペダルの使用には違和感を感じた。
ワンペダルでアクセルオフになってブレーキ(?)が効いたときにブレーキ灯がどういうタイミングかはわからないけれども、点灯するようだが、これってオンオフで運転するような人にはいいかもしれないけれども、前方を予測してエンブレなり惰性を効かせてクルマを停止させようという人には違和感もあるし、周囲も変なタイミングでブレーキランプがついてとまどうのではないだろうか。
加速は確かに良いけれど、アクセルをぐわっと踏むと加速するもので、これもオンオフ的であり、私には合わなかった。
大きさは手頃だし、メダリストというグレードを冠しているだけで、気分はローレルに乗った気分に、ならねー
ともかく、そんな面白い経験をさせていただき感謝しております。
久し振りに元STIの某さんに会いにSTIギャラリーにお邪魔。
貴重なお話の数々をお聞きしてきた。例えば、初代レガシィが生まれるときの
裏話とか。初代レガシィの販促等に深くかかわった桂田氏(故人)の直筆のメモも見せていただいた。
レオーネからレガシィという大飛躍が起きたのはもしかしたら奇跡なのかもしれないと思っているけれども、一応の布石や土壌はできていたのだった。
バブル期のスバルは経営的には苦しかったけれども、まあ、あれやこれやと手を尽くして、今に至る礎を築き上げたということがよくわかった。
WRカーはむろん、22Bのプロトタイプも自由に乗ることができるし、殊更にスバルファンでなくとも、パラダイスなのではないかと思う(私もスバルファンとはいえないと思う)。
とある老婦人が「スバルはまたWRCのようなものに出ないのですか」と尋ねていらっしゃったことが印象的だ。トヨタの社長も来訪したことがあり、実は少なくともトヨタの社長とスバルの大飛躍をもたらした人物とではかなりの交流がある。ゆえに、トヨタの社長がWRCで大いに気焔をはくほどにトヨタを強くしたけれども、「スバルもどうだ?」という具合に誘ってはいるらしい。
という裏話等々で盛り上がる。
近くのイタリア料理店でピザとスパゲティを食べ、ふと思いついて、知人にメッセ。青梅にいるという。ああ、奥多摩放課後軍団の会合かあ。忘れてた。
自宅とは逆方向にどんどん東京の西に進み、連中と合流。
スカイラインを覗けば、みんなして足車で来ているところが笑える。
80年代や90年代のクルマを中心に興味を持つ人たちとは、とても思えないであろう。
同時に私は足車にも趣味性をそこそこ求めてしまうし、興味の軸足が彼らよりも新しい世代のクルマになる。13年落ちで税金があがるくらいになると俄然、魅力を感じてしまうというニッチな人間である。
さて、前日に引き続き、またもや桃のスイーツを食べて、メダリストの試乗会開始(笑)
一名を除き、ワンペダルに違和感を感じた人ばかりで、これはいわば昔のクルマに乗っているからこそ、違和感を感じるのか、はたまた、ワンペダルの特性によるものなのか、これまた謎が深まってしまった。
e-POWERシリーズ自体は大変人気があるけれども、どうもワンペダルというものの意義がわからず、仮にバッテリーにチャージするという役割も兼ねてワンペダル機能があるのだとすれば、もう少し、(私にとって)自然な挙動を示してほしいと思った。が、CVTもそうだけれども、かつては日産のCVTもスバルのCVTもさんざんであった。が、今はイノベーションにより、コンパクトカークラスではCVTが主流にすらなっている。なので、ワンペダル機能もきっとイノベーションにより、洗練されるはずである。
しかしながら、オンオフという特性は消えることはないだろう。
だって、モーターで走っているのだから。
さて、その場合、人間の感覚がオンオフ的なものに対して適応できるか?
今まで登場したが消えていったテクノロジーも数々あるけれども、
私は適応できると思う。
でもそれはゼロサム的であり、味気ないというか、中間のマージナルな領域が無くなることを意味する。ファジーや曖昧さと言い換えてもいい。
クルマから敷衍するけれども、人間がオンオフ的なるものに大いに適合したとき、何が生じるのだろうか。
私は書くと水戸光圀の「大日本史」ばりに長くなるので割愛するけれども、
星新一がショートショートで描いたような顛末的社会になると思うし、だからこそ、マニュアル車のように中間領域を使うシステムは必要なのだと思う。
そうなんだ、マニュアル車が必要。
マニュアル車万歳。マニュアル車マンセー!
ちなみに前日はこんなことをしていました。
→
茨城都民、愛車を預けて茨城へ 結城三百石・超音波温泉等