2010年12月07日
想像を逞しくすると、これらガス貯蔵庫群がSF作品に登場するような、地球外生命体の乗り物のようにもみえる。球体から降りてくる異星人の姿は、地球人と寸分違わない。球体の乗り物のなかには操作系というものはなく、自らの想念によって、操縦することができるという仕組みになっている。
自分たちが行きたいなと思ったことがエネルギーとして凝縮され、そのエネルギーが球体の乗り物と共鳴することにより、目的地に向かうという原理。
そのような性能を保持している。
地球に降り立った理由は、地球という星にある青い海、深い緑、底冷えするような砂漠、屈強な岩場など、多様性に彩られた地球という星を見学してみたかったから。要するに地球観光だ。
私にはそんな情景が思い浮かぶ。
これら三つのガス貯蔵庫で、区民の一日分のガス使用量を補えるという。液化されている(?)ガスを気化させずにどのようにうまく貯蔵しているのかは知らないけれども(気化しないように空間的隙間を設けない?)、泰然として私たちにガスを供給してくれる偉大な存在であることは確かだろう。
さて、そんなガスを使用して、暖かい鍋料理でも作って食べたいもの。
白菜に豚肉やニラ、もやしを入れて、辛みそを混ぜたら、ほかほかに身体が温まるおいしい鍋料理ができそうだ。生姜を刻んでいれてもいいかも。
2010年初冬。
ガス貯蔵庫をみた私はこのように想像の幅を様々に膨らませたのであった。
SF的想像から料理に関することまで、人間の思考というのは無限の幅があるのだなとつくづく思う。
Posted at 2010/12/07 21:45:44 | |
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エッセイ | 旅行/地域
2010年11月27日

拙宅の近くには大小様々な寺院が宗派を問わず密集している地域があり、さながら京洛(京都市街)の隅っこの静かな細路地の一つを歩いているかのような様相を呈している。殊に禅の寺院が多いように思える。
禅(座禅)によって、悟りを開き解脱しようとする仏教宗派のことを総称して禅宗と呼ぶことが多い。日本では臨済宗・曹洞宗が著名である。
因みに、禅の発祥はインドの達磨大師(ダルマのモデルである)が中国大陸に伝え、それが日本に伝わったとされているが、その間に様々な内容の変化があったことだろう。
殊に、禅の世界では不立文字、つまり言葉では表現できない事柄があるという立場をとるので(密教もそうかもしれない。諸賢のご鞭撻を仰ぎたい)、私がこのように言葉という手段で記述しても、禅の本質を突き進むことは論理的には不可能ということになる。ゆえに、禅という広漠でとりとめもない世界の話は以上でやめておく。
おそらく、禅的世界を感応するためには、徹底的に座禅や日々の掃除といった禅的世界に自己を徹頭徹尾組み入れる必要があるのだろう。そして、あるときに、これが禅を通じた宇宙の根本的原理なのかという本質がみえてくるのだろう。
禅寺の外見的な特徴として、大掛かりな伽藍がなく質素な建物が多いように思える。推するに、禅という行為がきわめて内面的な自己との対話であるから、外側の舞台装置をとりわけ必要としないのかもしれない。
私は資質として大規模な伽藍を見て詠嘆するよりも、視覚的には簡素であっても、内的自己と対話するといった精神的な営みとしては強力なエネルギー磁場を発している環境が好きなので、ごくごく一般的に総評してしまえば、禅寺が好きである。
今回ご紹介する蓮池(鴨池と呼ばれている)を擁する寺院が禅宗だったがために、筆が禅的世界に関する事柄に記述の多くを集中してしまった。
画像のほぼ中央部にある、赤い祠のある小島には弁財天が祀られており、この辺りがごたまぜ文化を許容するアジア的な特徴がにじみ出ていて面白い。
弁財天は仏教では妙音菩薩とされることが多いらしいが、元来はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーである。また、我が国では神道の神として取り入れられることも多い。「神仏習合」というごたまぜ文化の極致の好例であろう。
さらに一つ付け加えるのであれば、菩薩とは悟りには至っていないものの極めて仏に近い存在である。悟りに至った存在は如来と呼ばれることが多い。
さて、画像の鴨池には始終、鯉が泳ぎ亀が蓮の葉をかき分けながら戯れていたりする。鴨も水面を自在に泳いでいる。融通無碍とはこういうものなのかというのを無言で教えてくれるかのようである。冬場にはシベリアから渡り鳥が到来し、この小さな鴨池は寒を凌ぐまでの間、渡り鳥たちの住処となる。
鴨池は周辺地域よりも若干高台にあるようだが、ほとんど認識できない程度である。ただ、いずこからは知らないが、鴨池には常時水が湧き出ているため(湧き出ている場所を見たことがない)、周辺の低地部を常に潤しているようで、そういう点では動物たちのみならず、私たち人間にとっても、十分に尊崇するに値する場であると言えるだろう。自然の摂理の好ましさを感じさせてくれる場である。
なお、禅寺の人たちに築庭の才があるのか、鴨池と本堂を隔てる庭の草木は季節折々を感じさせてくれる仕掛けになっており、ご覧のとおり紅葉の季節の風致の美しさはむろん、どの季節に訪問しても、その感動的な風致に息をのむはずである。
美しい紅葉や水面を鑑賞し、鯉や亀や鴨の無碍な動きを観察していると、心が一気に晴れやかになり、また沈着する。
そして、ふと深い内的世界の根っこにある自分との対話ができるような感覚を受けるのだ。それが禅寺という高度な内的思索空間の敷地内にあるせいかどうかは知らないが、それはさておき。
私には以上に述べたような素晴らしい場所を十分に知っているし、これからもどんどんと貪欲に素晴らしき場所を開拓したいと考えている。
Posted at 2010/11/27 08:31:49 | |
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エッセイ | その他
2010年11月21日
海外に行ったときに現地の人々に対して、折り紙で鶴を作ったりすると、当地の人々は大変驚き、そして感動するそうです。そんなお話を聞いたことがあります。私はずっと日本で生活をしているので、このお話を聞いてなるほどなと思いました。確かに、紙一つで鶴という一つの作品が出来上がってしまうのですから、これは折り紙という文化のない地域の人々にとっては、信じられないような奇蹟が眼前に起っているという衝撃を受けるとともに、大いなる感動を与えるのだと思います。
紙チラシをベースにして作成された駒と蛙をいただいてきました。
非常によくできています。感嘆・感動しました。
ここまで優れた作品を目の当たりにしてしまうと、折り紙文化になじんでいるとはいえ、なおも感嘆・感動せざるを得ません。
駒は木製のものと遜色ないほどによく廻りますし、蛙は後部を手で押すとぴょこんと一回転跳ねます。器用な人たちがいるものだなと思った私は、冒頭で述べたように折り紙の鶴を見せられた海外の人たちと同じような感情になっているのではとさえ思いました。
手元に紙チラシでできた駒と蛙があります。つまり、紙チラシ一つで駒を廻したり、蛙がぴょこんと一回転できる紙の芸術を眺めています。
これらを眺めていて今考えていることは、どんなに小さな事柄(紙チラシ)でも、叡智を駆使すれば(折り紙の技術)、大きな果実となって結晶させることができる(駒と蛙)日本人、より広義に言って人間の可能性の無限性についてです。
私はそういう風に感じました。
何気ない日本の伝統的な文化の折々を見ていくと、もっと人間の可能性の無限性を発見できることが見出されてくると思います。
私は人間存在の無限の可能性を強く信じていますから。
Posted at 2010/11/21 19:23:22 | |
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エッセイ | その他
2010年11月16日
東京23区の端っこに世田谷という土地があります。
概して品のいい邸宅が立ち並んでいるという高級な街としてイメージされていることが多いようです。確かにその通りだと思います。概括的におおざっぱな印象として述べるのであれば、そういえると思います。
しかし、邸宅ばかり並んでいるような土地だらけという訳でもありません。
ここへ引っ越してきて、かなりの年月が経ち、すっかり愛着が湧きました。
そこで、そんな愛する街の魅力の折々を、私はお伝えしたいなと思っています。
今も昔も文人が多い土地として知られておりますが、もともと(今もそうですけど)は鬱蒼とした木が立ち並んでいたり、広大な農地が展開されている田舎でした。一方で、都心までの距離が近いこともあり、いわば都会と田舎の両方の雰囲気が味わえるということで文人たちが好んで居住したという話を聞いたことがあります。両方の雰囲気を味わうというのは、おそらく作家の想像・創造の精神を掻き立てるのに役立ったのだろうかと思われます。
因みに、徳富蘆花という小説家は自ら農業をしようと思い立ち、世田谷に居を移したとされています(「みみずのたわごと」という彼の作品にその様子が描かれています)。
さて、そんなわけで都会的洗練さとは異なった雰囲気を濃厚に持った世田谷の地ですが、戦災の影響が少なかったこともあり、昔ながらの佇まいの古風な家がかなり残っています。画像にあるお宅もそうです(ここは所有者の方々への協力のお蔭で、一般の立ち入りが許可されている場所ですよ。念のため)。
有名な巨大な白菜を産出したところとしても有名で、現在もその白菜に冠された名前と同じ苗字の人たちが農作業に励んでいます。
私は歩くのが好きなので、時折、このお宅にお邪魔しています。
縁側に座って折々の木々や花を鑑賞したり、竹林で頑丈な竹の幹を触ってその力強さを実感したりするのが好きです。
実にのどかな時間がゆっくりゆっくりと流れていきます。
私の癒しスポットの一つとなっています。
なお、場所の委細を知りたい方にはお教えいたします。夜間は開放されておりませんが、昼間ならばこののんびりとした空間を味わうことができます。
今回は懐かしい匂いのする農家の一角をご紹介しました。
こうした緩やかな時間に身を浸して、都心の賑やかな空間に移動すると、二つの時空間をいっぺんに体験できた気がして、非常に面白いものです。
Posted at 2010/11/16 14:31:48 | |
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エッセイ | 旅行/地域
2010年11月14日

「あきのたのかりほのいおのとまをあらみ」(百人一首第一首目の歌の一部「天智天皇」作)という時期はとうに過ぎ、
田には稲穂も無くむき出しの土だけを露出している。
しかし、未だに秋は続いている。晩秋か初冬なのか。
季節の端境はどんな時に気づくものなんだろう。
ゲーセンでクイズと運転を楽しんでから、てくてくと我が街まで散歩。
そろそろ吐く息の白さが見えてもいい時分かなとは思うのですが、
どうもそこまでは冬到来の徴候は現れていないようです。
並木道を歩くと、落ち葉が無数に路面を浸し、時に渦状に舞い散っているのですが、頭上の樹木を見上げるとまだ青々とした樹木が生い茂っていたりします。
旧暦に換算すれば、(だいたい)来月でようやく霜月になるわけなので、まだ霜が降りるという様相ではないようです。
まだまだ紅葉が楽しめる季節。首都圏では今時分が紅葉満開のようです。
私はいささか冬の到来を待ち望みすぎていたのかもしれません。
秋の彩り鮮やかな世界を楽しもうと思いました。
季節の端境に思いはせながら。
さて、以前にも紹介しましたが、我が街にはさまざまな人々が憩える素晴らしい広場があります。
その広場の木々を覆うライトアップ作業が始まった模様です。
いよいよ、クリスマスの息吹が聴こえてくるようです。
こちらはさすがに徴候が早いですね。クリスマス関連のグッズも販売が開始されています。
今日はささやかながらサンタクロースの靴を模した小物を買いました。
妻がとても喜んでくれたみたいでよかったです。
そうそう、ライトアップ作業は妻と二人で見学していたのです。
クレーンに乗りながら電球と配線を付けていく作業をしている人たちのおかげで、美しい光に彩られた空間を堪能できるんだなと、感心しておりました。
どんな当たり前のことに見えても、そこには無数の人々やモノが介在して成立していること。
ごくごく当たり前の事柄に改めて気づくことができました。
妻に教えてもらいました。感謝です。
閑話休題。
あらゆるモノや人々が根底の部分ではつながっているという考え方が私は好きです。カール・ユングの「集合的無意識」とか、シェルドレイクの「形態形成フィールド」の理論などです。
興味のある方は検索されてみてください。ここでは詳述しません。
ごくごく簡略化すれば、これらの論は「つながり」を軸にしたものだと私は考えています。
私は専門的に論を理解しているわけではありませんが、概要を私なりに把握した限りでは、私好みの論です。
これらの論は私が考えていることと似ているからです。
私はすべての出来事は必然的に起こっていると思います。
しかし、必然性というのは確定された運命ではなく、自分自身で変えることもできると思います。つまり、私たちには自由意志があるということです。
自由意志はあるけれども、私たちは根底で繋がっているからこそ、私たちは季節の訪れに感傷を抱いたり、ライトアップ作業にいそしむ人たちに感謝したりできるのではないかと思います。
つまり、私たちは実は一つのものとして相互に繋がっているからこそ、他人やモノとの関係性を意識するわけです。繋がっているという意識が無ければ、他人やモノへの関心も希薄になるのではないかなと思っています。
そんな風に思います。
思索の秋でした。
私が今、共鳴した曲↓
Posted at 2010/11/14 01:48:46 | |
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