2011年11月25日
皆さんは課題をラクに片付けたいですか。それとも、刻苦して課題を克服したいですか。
私はラクに課題をこなすほうが好きですね。
そのために有効な方法論があれば積極的に採用していきます。
今日は仏教のお話しをしましょうか。
仏教の教えの要諦が、悟りを開くことで輪廻転生世界から解脱することにあるということを聞いたことがあるかもしれません。
しかし、どのように悟りを開けばいいのでしょう。
皆さんはわかりますか?
釈迦の教えが濃密に残っていたと思われる原始仏教(現在のインドでは仏教はほぼ廃れてしまっています)にせよ、日本に輸入された奈良時代の仏教でも、その方法論というのは、例えば修行を積んだりとか経典を読んだりといったかなりハードルの高いものだったのです。
それでも平安時代になり最澄や空海が最新の仏教の教えを持ち帰り、どんな人でも救われる(解脱できるのだ)ということを説きました。
しかし、どうすれば解脱できるのでしょう。
いや、解脱までいかなくとも死後に浄土と呼ばれる世界に行くことは可能なのでしょうか。
彼らより少し後の時代に、源信というお坊さんがいて、観想念仏という考え方を提唱しました。観想とはイメージすること。つまり、イメトレで浄土世界を意識すれば、人間はそのまま浄土に往生できると説きました。
これはかなり簡単ですね。
しかし、実際に浄土(源信の場合、阿弥陀如来がいる極楽浄土を涅槃の先の世界としました)を想像することが、情報も拙い当時の社会において可能だったでしょうか。
源信の教えは貴族階級に受け入れられます。
例えば、有名な宇治の平等院鳳凰堂(鳳凰という名が気にかかるところですが今はさておき)は、あの有名な藤原道長の息子の頼通が、極楽浄土に擬せて造営したものとされています。
となると、イメージを想起する機会すらない一般大衆は如何にして救われるのでしょうか。
幼いときに夜討ちに合って、父親(おそらく母親も)を殺された少年がいました。
彼は遁世しようとしますが、その秀才ぶりに目を付けた僧侶の配慮で比叡山で学習することになりました。
彼はめきめきと頭角を現します。
彼の法名を法然といいます。
彼は仏教史上類い稀なる教えを展開します。
「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏以外に何もない)と唱えるだけで、誰もが(女性ですらも)極楽浄土に行けるのだという教えを編み出しました。
これを唱名念仏といいます。
このような教えは、仏教では法然と後述する親鸞の宗派にしかありません(ごくごく小規模なら、当時の中国にも法然の教えの基となる教えがあったようです)。
ただただ唱えるだけでいいのです。
これを他力本願といいます。
念仏を唱えることで、自動的に極楽浄土に行く。だから他力なのです。
法然の思想は斬新でしたが、それゆえに反発に合い、彼は土佐に流されます。
が、彼はそこで滅入ることもなく、晩年に京都に戻ることを許されました。
なお、法然が開祖の宗派を浄土宗といいます。
ちょうど、法然が土佐に流されていたときに、門下の僧侶で越後に流されていた人物がおりました。これが親鸞という人物で、これほど画期的な人物は他にいませんね。
基本的には法然の唱名念仏を踏襲しています。
しかし、法然はどちらかといえば秀才肌の人間で戒律という決まり事も同時によく守っていました。例えば、女人と接しないといったことですね。
親鸞は自分にはそういうことはできないとはっきりと表明したのです。
そして、仏教史上初めて公然と妻帯したのです。
実はそれ以前にも隠し妻のような感じで女人と交わる僧侶はいました。隠語でこのような隠し妻のことを大黒様と呼びました。お酒のことを般若湯というようなものです。
さて、親鸞は「南無阿弥陀仏」によって誰もが救われるのであれば、論理的に考えても妻帯しようがなんだろうが、皆が極楽浄土に行けるはずだとも考えていたのでしょう。
彼の有名な言葉があります。
「善人なおもて往生を遂ぐ。況んや悪人をや」
善人ですら浄土に行けるのに悪人が浄土に行けないはずがないという意味です。
これを悪人正機説といいます。
よくよく考えると変な気もしますよね。善人ですら救われるのに悪人が救われないはずがないというのは考えてみればおかしいですね。
親鸞は悪人と自分を意識しているからこそ、念仏に励む心が生じるのだと考えました。だからこそ、自分の悪を意識している悪人こそが浄土に行きやすいと考えたわけです。まあ、これは私の理解ですが。
そういうわけで、親鸞を開祖とする浄土真宗は世界中の仏教のなかで、唯一妻帯を認められた宗派となりました。
明治時代に入り、我が国では仏教徒の妻帯が認められるようになりますが、浄土真宗以外の僧侶で妻帯する人たちが多くなったのは戦後になってからという話を聞いたことがあります。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、極楽浄土行きは決定。
なんともラクではないですか。
そして、私たちは戒律に縛られる必要もないのです。なにせ、念仏を唱えれば極楽浄土に行けるのですから。
こういう他力本願な教えというのは私好みですね。
ウチの檀那寺は真言宗(空海が開祖)なので、万人の浄土行きは認めるものの、念仏を唱えるだけですぐに浄土に行けるという発想はありません。
空海は万能人で私は尊敬していますが、私は親鸞的な人間味のある、しかしながら、いや故にこそ滋味のある生き様や発想が大好きなんです。
上野の東京国立博物館で法然と親鸞に焦点を当てた特別展示を開催しています。
お気が向かれたら足を運ばれるといいと思います。


Posted at 2011/11/25 23:19:52 | |
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エッセイ | 暮らし/家族
2011年09月19日

都市住まいの私には、対座式の列車(向かい合わせに座るタイプの列車)というものがまず珍しい。
特急券が必要な特急列車や新幹線固有のものというイメージが高い(特に首都圏や関西圏私鉄に顕著だが、在来線と同じ車両が特急列車として使われる場合もある)。
対座式でも背筋をくいっと伸ばして座りなさいとでも述べているかのような絶壁の座席となると、これはもうある種の郷愁をそそられる。
だが、こうした珍しさや郷愁というのは、割合と身近にあるもので、そういう意味では珍しくはないかもしれないし、郷愁を感じるのも妙かもしれない。
東京都ならば、中央線の高尾駅(八王子市)まで赴けば、対座式の列車に遭遇できるし、高尾から先となるとむしろ対座式列車がメインとなる。東京駅から一時間もかからないだろう。
都心部ではお馴染みのオレンジ色の中央線というイメージが断絶される節目となるのが、高尾駅なのだ。
気軽に珍しさや郷愁が味わえるうえに、高尾から先の中央線沿線というのは、基幹路線というよりもローカル線の風情である。山に囲まれ、家々はどこか古さびていて、ここ数十年ほどの歳月を経ても、さして景観が変わっていないのではないかとさえ、本気で思ってしまう。
大月駅(山梨県)を降りて、徒歩で20分ほどの場所に岩殿山という山がある。名前のとおり、急傾斜な岩で覆われていて、その間から足下がおぼつかないように植生がある。もっとも、地面からどっしりと天に向かって伸びている木々や草花もたくさんあるのだけれども、やはりこの急傾斜の岩のイメージというのは相当に大きい。
遙かな戦国の世のこと。岩殿山は山城であった。
武田氏の麾下にあった豪族小山田氏の主城であり、こんなところに立て籠もられてはたまったものではない。
だが、要害であることとその氏族の安全というのは必ずしも両立しない。立て籠もれば安全だというのは戦術論に過ぎまい。
織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼(有名な武田信玄の息子)を滅ぼすために甲斐(山梨県)に入ったときに、小山田氏は一族の安全の保証を条件として織田方に寝返った。
しかし、その条件はかなえられることはなかった。
今でも山梨県では武田氏、というより武田信玄の人気がとても高い。今でも活用されている信玄堤など、彼は治水工事をしたりして国を富ませた。だから、その評判の良さがずっと受け継がれてきたのであろう。
お隣の関東の地を制覇しつつあった後北条氏(北条早雲が祖)もまた領民の評判がとても良かったという。
後北条氏の痕跡は関東各地に残されているが、彼らの本城があった小田原の地に早雲の銅像が建っているが、私の知る限りではその銅像も小田原駅西口を特徴付けるモニュメントに過ぎない気もする。
いまなお、尊崇を受け続けている気配は私には見受けられなかった。
なお、後北条氏の家紋である三鱗は、我が家とほぼ同等のものであり(我が家の場合、三鱗の周りに円を描く)、この点、何やら不思議な縁を感じる。
高尾駅に着いて、いわゆる都市部を走る扉数のやたら多い電車に乗り換えると、それはそれで安心感がある。
しかし、どうも後ろ髪を引かれるような思いがしないでもない。
【追加】本文トップ画像は昨年の秋に撮影したものであった。この日は大月から富士急行に乗り継ぎ、三つ峠駅まで乗車。しばし散策して、たしか十日市場駅という無人駅から帰路の途についたと記憶している。
他にも数枚の写真を保存しているので、興味のある方は、以下のリンク先にアクセスしていただきたい。
http://www.myalbum.jp/pc2/album/Albm_Dspy.aspx?albumID=52afaa73f788
Posted at 2011/09/19 23:04:55 | |
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エッセイ | 旅行/地域
2011年07月26日
文豪三島由紀夫は自分が生誕したときのことを明確に覚えていたという。
その三島を超える大文豪の私(笑)は、産湯の記憶を明確に覚えている。
もっともこの話を本みんカラブログで、何度か披見したかもしれない。あるいは初出だっただろうか。
まあ、どちらでも良い。
生誕してまもなくの頃である。
病院の湯に私は漬けられた。
産湯の湯が熱くて、私は熱いからやめて欲しいと親や祖母に訴えたのだった。
しかし、なぜか自分のその訴えは鳴き声としてしか発声されず、親は祖母はそんな私
をみて、笑っていた。それは好意的な笑いではあった。赤ん坊として可愛いなという微笑ましい感情であることを私はすぐに読み取った。
しかし一方で、私はこの世界では、赤ん坊という立ち位置では自分の意思が伝わらないことを了解したのだった。
その後、私はごくごく普通のガキとして成長していくのだが、一方で私は生誕後まもなくのときの記憶が残っているので、心のどこかで世界に対する違和感みたいなようなものも感じていたこともまた事実である。
ただし、三十路を過ぎてから、そうした違和感を拭い去るような心境にまでようやく至ることができた。委細については記さないが、赤ん坊のときの産湯の記憶についても私にとっては大いに意味があることで、それが現在の私を形成する重要な要素となっていることだけは間違えないだろう。
そして、それは間違えなくポジティブな事柄だ。自分自身の成長に資するものである。
私は今でも赤ん坊をみても、無邪気に可愛いなとは思えない。
何かしら私に意思を表明しようとしているのではないかという視点で見てしまう。
もっとも、それ以上に小難しくは考えないのが、私らしいといえば私らしいのであるが。
皆さんはごくごく幼いときの記憶をお持ちになっているだろうか。
私は産湯の記憶以外にもたくさんの記憶を持っているが、思いの外少数派であることを知っている。別にそれはそれで全く構わないのではあるが。
Posted at 2011/07/26 23:45:04 | |
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エッセイ | 日記
2011年07月23日

社会的通念とか価値観というのは案外と短期間で変容するもの。
この間、新宿のブックファーストに行ったときにそれを改めて感じた次第。
その機縁はカール=マルクスに対する肯定的な評価の書籍が目立ったことにある。
周知の通り、マルクスの思想はいつのまにやら形を変えて肥大化し、ついに冷戦という構造すらもたらすほどに、世界的な影響力を持つに至った。
しかしながら冷戦終焉後は、マルクスという思想家に対しては冷淡なものが目立っていたように思える。フランシス=フクヤマのように資本主義(自由主義)の完全勝利を謳ったものも多かったように思える。
ところが、最近はカール=マルクス(おホモダチ、否、盟友のエンゲルスの仕事も多大なのだけれど)が見直されてきている。
書籍を丹念にめくったわけではないけれども、マルクス主義ではなく、思想家のカール=マルクスを見直そうという動きがあるのだなという風に感じた。
私自身、マルクスの思想というものにどっぷりと浸かったわけではないので委細はわからないが、偉大な思想家であるとは思う。
彼は格差に対して焦点を当てた。
そして、その経済的な不平等の構造について考察し、ブルジョワジーと労働者階級との驚くほどの経済的差異を、なんとかしようとした。
今の自由主義社会は、基本的には皆が富を享受できるようなシステムを念頭に置いている。完全なる競争社会ではない。
これは、社会主義者の福祉重視の思想も大きいし、より根源を求めれば、やはりマルクスに行き着くのかなとも思う(空想的社会主義者の存在はさておき)。
私は多読な人間ではないが、書店に入って、今どのようなジャンルの本がどれだけ置かれているのかということに楽しみを感じるタイプである。
だから、私が世間の時事的空気を読み取るとすれば、書店がその格好の場となる。
昔、たまたま岩波書店刊行のソビエトに関する書籍を読んで、ソビエト社会の平等さぶりに感動して、それを両親に伝えてひどく叱られたことがあった。
岩波の本というのがまた示唆的だけれども(笑)
その後しばらくして、叱られる理由を了解したのだけれども、今考えてもソビエト連邦のすべてが悪かったとは思えない。大掛かりな休暇制度もあったし、いい面もみなければなるまい。結局はソ連や共産主義にははまらなかったけれども、評価すべき点はするべきだろうと思う。
畢竟、述べたかったことは価値観とは簡単に判断を下せるものではないということだ。
マルクス以外に例を出そう。
ナチズム下のドイツでは、様々な保養所が設営されようとしていたし、有名なアウトバーンだって、国民一人一人が自動車を保有し、ドイツ国内を自由に行き来するための施策という一面は大きい。また、ヒトラー自体の嗜好にもよるが、徹底的なベジタリアン・嫌煙の政策も取っていた。
だから、世のいいことやわるいことといわれるものについて、我々はもっと広い視点で見る必要があるのではないだろうか。
そういう具合に私は考えている。
Posted at 2011/07/23 23:22:00 | |
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エッセイ | その他