2010年12月15日

嫌なものを無理に避ける必要はありません。
嫌なものを避けようとしても、嫌だという気持ちが支配的になるので、
環境が変わっても、きっと同じ状況が生じるでしょう。
また、嫌だと思うことを考えるなと言う気もありません。
以下のカギカッコ文をお読みください。
「嫌なことを考えなさい」「嫌なことを考えないでください」
肯定系と否定系という違いはありますが、どちらも頭の中に強く印象付けられるでしょう。後者のように、否定文を使っても、脳は否定形を無視して、把握してしまいます。
だから、ある嫌な出来事について、否定的な言葉で諭そうとしても、頭の中には否定的な事柄が支配的となるため、精神はいつでも嫌なことに束縛されるのです。
そして、その結果、ネガティブな思考が続くというわけです。
さんざんネガティブな事柄を味わってきた人々に対して、ポジティブな考え方をしましょうというのは、「今から空を飛んでみてください」というのと同じくらい飛躍しすぎています。だから、ネガティブな事柄にがんじがらめになっている人たちには、少しづつポジティブなことを考えることをお勧めします。
ネガティブで空虚な気持ちになったら、布団にくるまっていればいい。やがて、怒りの気持ちがもたげてきたらしめたもの。なぜなら、無気力よりは怒りのほうが感情のエネルギーとして強いので、ポジティブという極に思考をシフトするきっかけとなりやすいからです。
徐々にでいいんです。
そして、嫌なものから逃避したくなる気持ちはわかりますが、なるべくネガティブな気持ちになる時間をほんの一秒でもいいので減らしてみましょう。
「だめだ無理だ」「そんなの不可能だ」と思ってしまっても構いません。
思ってしまうものは仕方がありませんから。
気の向いたときに、気分がいいなと思うときに、たった一秒でもいいから、ネガティブな思考から関心を逸らすこと。
それが状況を改善する長いようで、実は一番効率的で早い道だと私は思います。
Posted at 2010/12/15 23:41:40 | |
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2010年11月24日

湧水を見ていると、このこんこんと湧き出る水はいったいどこからやってきたのだろうということを考える。
山に降った雨や雪が長い時間をかけて、土に染み込み、こうして再び地上にでるようになった。そして、湧き出た水は次第に流れとなり、川を形成し、やがて海へ注がれる。
海に注がれてから塩っ気にさらわれた水は果たしてどうなるのか。
大気上に蒸発する場合もあるのだろう。沸騰とは違い、別段百度にならなくとも、水は気化しうる。
すると、その気化した水という成分は再び、山に雨や雪を降らし、どっぷりと土の中にもぐりこむのだろう。
なんという循環!
主にインドで受け入れられている輪廻転生という思想について考えてしまう。
人間はずっとずっと、生きては死んでということを繰り返すという(動物や昆虫になる場合もある)。
だから、インドには歴史という概念はないという。
過去や未来という考え方をそもそも持たないから。
ただただ、輪廻という輪の中を永遠に回るだけ。
ぐるぐるぐるっとね。
まさに生命体の広大な循環である。
そこには始まりも終わりもない。
あるのは「今」だけだろうか。
一応、この広大な循環から抜け出す手もある。
輪廻世界から飛び出したときの状態を解脱という。
水はあるときは、凍結して氷になり、あるときは気化して水蒸気になる。
だが、水という分子構造に変化はない。水であることに変わりはない。
もちろん、固有の化学反応を生じさせることもできる。しかし、その化学反応が生じえた場合、それはもはや水という属種ではなくなる。水という属種に再びなるという可能性を秘めつつも。
前世が芋虫か何かで、現世が人間で、来世が虎か何かに生まれ変わったとする。
そのとき、私たちは前世・現世・来世を一繋がりの存在として、意識できるんだろうか。
今の人間としての自分が、前世の芋虫であることや来世の虎であることに対して、深い思い入れができるのだろうか。
釈迦が過去も未来もない輪廻転生盛んなインドの地で、ひたすらに修行を得て、悟りを得たというのは、生老病死の苦しさがきっかけなのかもしれないけれど、永遠に輪廻転生していくというこの世界に対して、違和感を感じていたのではないだろうか。この点が凡人離れした釈迦の資質といってもよいだろう。
釈迦が修行の末にいよいよ解脱して仏陀となったときに、初めて永遠に循環するという世界観を超えた「何か」を見つけたのだろう。
個人的には輪廻転生もあると思う。ただ、輪廻転生がずっと続くような循環世界に人は生きているだけでもないと思う。
この広漠な宇宙では、輪廻のような循環世界もあるだろうし、魂という永遠の存在が確固として生きる世界もあるだろうし、もっと幅広い奥深い世界のように思えるのだ。
Posted at 2010/11/24 20:02:44 | |
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2010年11月21日

承前。
※自省録(-。-)y-゜゜゜を参照ください。
さて、上記ブログにおいて、私は終盤部に以下のようなことを記述しました。
>ルールは人それぞれ。似たようなものが引き寄せられるということに理解を示す
>か、否定的であるかも、その人の自由です。一番重要なのは自分自身がどうす
>るかということですから。
>私は改めてこうした考えを心に刻みつけたいと思います。
人それぞれなのですが、たとえば野球やサッカーなどでルールがなければ、そもそもこれらの競技は成立しませんね。外野に百人も守備陣を置くようなことをしたり、手を使いながらサッカーボールを動かしゴールしても、それは野球やサッカーにはなりません。これらはルールというものがあるからこそ、成立するものでしょう。
ただし、野球やサッカーをする場合、こうしたルールがあることを、私たちは自分自身で了承しているわけですから、野球やサッカーのルールに違和を感じる場合はプレイをしなければよいということになります。
スポーツは趣味性が高いので、私たちはルールの個別性に関して、割合と寛容でいることができます。いわば、納得しやすいのです。
野球やサッカーをしている人たちに対して、
「おい、ボールを打ったら一塁側に行くってのもワンパターンだから、三塁に向かって走れ」とか、「サッカーボールの大きさが気に食わないから、ゴルフボールでプレイしろ」なんてことは誰も言わないでしょう。極例ですけれども。
法令というものがあります。殊に近代国民国家は法令(大まかに法律と言ってもよいでしょう)の存在が国家や国民自身の存在を担保しているといっても過言ではありません。そこには最上位法の憲法を頂点として、実に様々な法令があるわけですが、面白いのは法令に記載されている条文というものに対する解釈が人によって大きく異なるということです。大抵は過去の判例に従って、解釈される場合が多いのですが(これが「通説」と呼ばれるもののほとんどです)、一般的によく知られているところでは日本国憲法(というよりその存在そのものの可否)について、意見が分かれるということが多いのはご存じかと思います。
なので、法令という明確なルールがありながら、私たちはやはり自分なりの見解をもって、法令に対して様々な解釈をする余地があるというのが法社会での現状ではないかと私は考えています。もっとも解釈の幅が全くないような法令を許容する社会の場合は別ですが、現在の日本国ではそのようなことはないでしょう。
ルールは確かにあるものの、やはりそこに個別的な意思が介入する余地があるわけです。法曹に携わる方ならなおさらご理解いただけるでしょう。
スポーツと法令の例を出してみましたが、私たちには本来的にルールを自分で定められるという自由意思があると思うんです。スポーツや法令に対して違和を感じる場合、関心を寄せないか、適当と思われる法解釈を取る余地があるんです。
だから、いかなる場合にも、私自身がが述べたように
「一番重要なのは自分自身がどうするかということ」という視座(あくまでも私の見解として)を大切にしていきたいと考えているのです。
そして、規則(ルール)の厳密なスポーツや法令を敢えて批判するまでもなく、自分自身がどうするかということは絶対に自分自身の力によって決定できるのだと私は信じています。無論、このように考えるのは私個人の見解で、他の方々がどのような見解を持とうがそれは自由なのです。
私が互いの見解を尊重しようと過去何度かのブログに述べたのも、私自身の見解を私自らが尊重するならば、少なくとも相手の見解というものも全面的に尊重してあげなければ、アンフェアだろうという考えに基づいています。
ゆえにこそ、私は自分の思想の重要な部分として、自分自身が考えていることを行動の指針・尺度に置きながらも、同時に他者の見解にも理解はできなくとも、大いに認めるという方針を貫いているのです。
前回同様に、『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』(ソフトバンククリエイティブ刊)より、一部抜粋してみましょう。
自分の欲求に焦点を定めておけば、人の反対は無視できる。だが、人の反対に対抗しようとすれば、自分の欲求から焦点がずれるから、創造にも影響が及ぶ。
自分の欲求に焦点を定めておきたければ、反対にぶつからなくて済むように、その場から立ち去るほうが簡単だ。
だが反対されるかもしれない相手と離れなければならないとすると、街にはあなたの考えに全面的に賛成ではないという人が必ずいるだろうから、街を出なければならない。さらには国からも出なければならず、地球上にいられなくなるだろう。
だが、反対者から離れる必要はない。ただ自分の欲求に焦点を定め、あくまでもその焦点を明確にしていれば、どんな状況でも前向きに創造することができる。
(前記書 199ページより200ページから一部抜粋 改行は適宜ワルめーらが施す)
別に仲良しこよしでいる必要もないでしょう。といって仲良くやっていくのが私の欲求なので、どんな方々とも仲良くいようと私は決めています。ただ、自分は親しいのだぞと相手に理解してもらおうとは思っていないのです。あくまで自分の欲求(仲良くしようという欲求)に焦点を絞っているからです。無理に離れることもないし、無理にくっつくこともない。それこそ、自分にとってありのままに日々暮らしていけばいいと私は考えています。それが自己愛だとするならば、自己愛といってよいと思います。
自分を愛してこそ、初めて他者や事物にも愛情を注ぐことができるだろうと私は考えていますから。
Posted at 2010/11/21 22:02:42 | |
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思索 | その他
2010年11月20日

子供のときから、書店に入ってはただ漫然と折々の書籍が並んでいるいるのを眺め、味わうのが好きです。よほど書店の雰囲気との相性が良いのでしょう。
書店内では、一念に立ち読みをするわけでもなく、くまなく書店内を歩き、目に留まった書籍や雑誌をぱらぱらっと眺めて、その中で気に入った書籍・雑誌を二冊程度買うということをもっぱらしています。こうした一連の行動をすると、とても気持ちよいのです。理由はよくわかりません。
そういう縁も手伝ってか、いくつかの書店で働いていたこともありますし、私と書店とは不即不離の関係にあるのだなと、今改めて思います。
四年ほどまえになるでしょうか。仕事帰りに小田急線の成城学園前駅駅ビル内にある三省堂で、一冊の本が目に留まりました。
『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』(ソフトバンククリエイティブ刊)というハードカバーの本です。
いつものようにぱらぱらっと本をめくり、大まかながら内容に自分の考えていることに納得のいく回答を与えてくれるのではないかという期待を感じて購入しました。
購入後に本を読んでいくうちに、この本の中に出てくる語り手エイブラハムの諸現象に対する在新な把握・解釈に大変な感銘を受けました。
何度も何度も読み返しました。私は普段、読み返すことをしない性質なのですが、この本だけは別でした。よって、続編も刊行され次第、すぐに購入しています。
書籍版元編集者のブログもたまに読んでいます。
私が感銘を受けたこれらシリーズ化された書籍の内容をひとまとめに凝縮してみましょう。
この世の中には似たようなものが引き寄せあう原理が普遍的に働いているという考えに基づいて、エイブラハムという脱人間存在(?)が、人間心理、仕事、恋愛、お金に関することから社会情勢・宇宙全体に至るまで、あらゆる事柄が起こる原因を上に述べた原則に即して述べています。
私たち個々人に起こる出来事についていえば、私たちが考えていると似たようなものが、自分の周囲に現象として現れるという考えです。
こうした考えに関してはかなり昔から知識として知っていました。ただ、多岐に渡る諸現象に即して、具体的・論理的に述べる上記書籍群はやはり斬新だなと思っています。
私は自分が考えていたことがポジティブ・ネガティブに関わらず、時を置いて実現することが多く、それはなぜだろうかという疑問が、この書籍群を通じて解けました。また、自分の考えや自分自身の存在がきわめて重要なのだなということを知るようになりました。
爾来、私は自分の気持ちを尺度にして、行動をしようと決意しました。
また、常にネガティブな事象に着目したり、ネガティブな事象から無理に目を逸らすような感情の飛躍を行うことを取りやめ、自分のペースでゆっくりとポジティブな方向に思考をシフトしていこうと決意しました。
私がみんカラのブログにおいて、できるだけ肯定的な事象に力点を置いて文章を書いているというのは上記のような思想的な背景があります。
そして、私が事象に関して、善とか悪といった二元論的な評価をしないのも、もともと現象はそんなに簡単に割り切れるものではないという考えがあったことに加え、
自分が違和を感じたり、得心がいかないなと思ってしても、そのことに対して批評・批判することで、なおさら私も違和や得心のいかない状況をどんどん引き寄せているのだなということを考えるようになったので、私はそうしたものについては一切関知しないという姿勢をとるようになりました。
逆に言えば、自分が親近を感じたり、得心する事柄なら、その事柄に思いを馳せることで、どんどんそうした自分にとってポジティブな考えが引き寄せられるという論理にもなるでしょう。
今はそんなふうに考えて、「明るく、いい気分で」をモットーに暮らしています。
冒頭で述べた『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』を先ほど適当にめくってみました。そこで目に留まった箇所を引用したいと思います。
あなたがたのほとんどは自分自身を信用していないが、実はあなたがたのなかから出てくるものこそ信頼できるすべてなのだから、わたしたちは驚くほかない。
あなたがたは自分を信頼する代わりに、何が正しくて何が間違っているかを教えてくれそうなルールや(宗教的あるいは政治的)集団を探して、物質世界における人生のほとんどを過ごす。それから、その―通常は何千年も前に作られた―古いルールを現在の新しい人生経験に合わせようとして、自分の「四角い杭」を他人の「丸い杭」に打ち込もうと試みて人生の残りの時間を費やす。
わたしたちが見るところ、その結果はフラストレーションか、よくても混乱である。
それにまた、誰のルールがいちばん適切なのかという争いで、毎年大勢の人が死んでいる。そこで、私たちは断言する。
すべてに適用される不変の総合的なルールなどは存在しない。なぜならあなたがたは常に変化し、成長を求める「存在」なのだから。
家が火事になったとき、消防車が―大きくて長いホースや消火用の水などとともに―駆けつけて放水し火を消してくれたら、「適切な行動だった」とあなたがたは言うだろう。だが火など出ていない日に同じ消防車がやってきて、家じゅうに水を撒き散らしたら、「適切な行動じゃない!」と言うはずだ。
お互いについてあなたがたが決める法も、これと同じことだ。
(前記書 144ページより145ページより一部抜粋 改行は適宜ワルめーらが施す)
ルールは人それぞれ。似たようなものが引き寄せられるということに理解を示すか、否定的であるかも、その人の自由です。一番重要なのは自分自身がどうするかということですから。
私は改めてこうした考えを心に刻みつけたいと思います。
Posted at 2010/11/20 22:09:56 | |
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思索 | その他
2010年11月18日
私は法律(法令)に縁があるのか、実地で法律に携わる機会が多くあった。
よくぞここまで体系的に考えて作ったものだと感心している。私は改正条文の入れ替え作業や条文の検索をしたことがある。
法律は条文の羅列ではない。条文解釈も必要だし、さまざまな条文と照らし合わせたり、過去の判例を利用したりして、法的解釈というものを生み出す。解釈というのも様々だ。判例に照らし合わせて判断するというのが一般的だが、それでも人によってまちまちだ。だから、私は法律は客観性を保証しないと思う。
もちろん、法律そのものを批判しているわけではない。法律には客観性がないと考えているだけだ。同様に倫理とか道徳とか誠実とか真理とかいったものにも客観性を見いだせない。人によって本当にバラバラなんだなと思う。
テロリストとか原理主義者のごとく「これが真実だ」「いや、これが正しい」なんて大騒ぎしたりする人を見かけるが、私は批判する気はないし、関知しない。
なぜなら、上に挙げたような真実等の概念は、社会や時代が醸成した一つの信仰のようなものであり、個々人の思想や信条・振る舞いも先述したとおり、ある概念を自分の嗜好に当てはめているだけで、そこに絶対性や普遍性・客観性があるわけではない。
ゆえにこそ、私も主観的に考えて、行動するわけだから、ともに社会で暮らす人々の思想や信条、行動や振る舞いを批判するのはアンフェアだし、関知しても仕方がないと考えている。
関知しない理由は様々だが、一点挙げようか。
ある人の行動に不快を感じていたとしても、その人を攻撃するのはアンフェアだろう。だって、自分には絶対的な正義があるわけではないのだから(相手に関しても同様のことがいえる)。
それならば、関知しないのが一番という論理になる。
様々な現象や出来事について、あることないことを弁じること自体は構わない。
人は人で、私は私なのだから。
最近、私の周囲では弁論行為がお盛んなようで、それに逐次解釈していく人たちがいるが、そんな解釈なんてものは、自分の中に秘めておけばいいと思う。ましてや批判や反論などしても解決にも何にもならないだろう。私見に過ぎないが。
だって、私たちは主観的な存在なのだから。互いの見解に相違が生じるのは当然だろう。
古代ギリシャの雄弁術でもあるまいし、そんな弁論会場の場を私は避けたいが、まあ人はそれぞれなのだから弁論的なことをするのも良いだろう。大いに認める。
私は「あーでもない」「こーでもない」といった「会議は踊る、されど進まず」みたいな状況が好きではないから、関知してこなかった。
しかし、私は私で好きにやる。
てことで、ポルシェ購入に向けて情報収集しまーす(笑)←ガキの頃からの憧れなんざんすよ
そしてそれが、私のみんカラの利用法の重点のひとつです
むろん、今の愛車も維持しつつネ^-^
てことで、近日中に見てくる予定。狙っているのがマイナーなポルシェだけれども、
引き寄せられるはず。そう信じています♪
Posted at 2010/11/18 11:59:29 | |
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