2010年04月24日
ソ連に憧れていたときがある。
いまでも物真似でインチキロシア語を披露するが、ほんの少しの間、図書館で
ロシア語の本を借りたことがある。中学の頃だったと思う。ソ連が健在しているときだったから。
ソ連の何に共鳴していたかというと、いわゆる「平等」を是とする共産主義思想というのが、
そのときの自分にはとてもいい響きに思われたんだよな。
自由をベースとした資本主義よりも、平等を是とする共産主義社会の方がいいと思っていた。
まあ、結局のところ完璧な共産主義社会は共産圏の盟主であるソ連でも実現しなかったし、
いまは、平等という言葉よりも自由という言葉のほうが心地よい。
とはいえ、私が良いと思う自由な社会は資本主義礼賛的なものではなく
(資本主義の恩恵は充分に預かりつつも)、
もう本当に個人の自由意志が互いに尊重される世界。
そこには倫理も道徳もない。ただひたすらに、個人の自由意志が個人の責任において許容される。
価値観を決めるのは親でもなく、社会でもなく、あくまで自分。
自分に既に備わっている志向性をベースとして、人は自由を満喫するのだ。
どんな他者に対する価値判断も批評もせず、その他者の意思を尊重する。
そう思いはじめるようになってから、自分自身の思考がどんどん変貌してくるようになった。
自分や世界を動かすのは、他者の意図や思惑ではなく、自分自身の信念なのだなと
思うようになった。
すると、自分が思っていることが割合と現実として現れるようになってきた。
自分の願望が一気に引き寄せられて、現実世界で花を咲かせるような感じ。
人間社会は有史以来、未曾有の成長を遂げてきた。
お互いがお互いを必要とし、よりよい社会を構築していくことを私は許容するが、
社会という枠組みが大きくなったために見えなくなった事柄というのもあると思う。
それは、たとえば自分自身についてであったりする。
メディアや他者の意見・見解という渦に取り囲まれているうちに、私たちはいつのまにか、
自分自身とは何かということを明確に意識することを忘却し、惰性のうちにテレビで報道され
ていたような見解や書籍に書いてあるような事柄を自分自身の意見であり、それが自分や社会
の本質なのだという具合にきつく規定しまってはいないだろうか。
では自分自身とは何か。
それはやはり自分自身で決めていくしかない。
そのベースとなるのは完全な個人の自由だと思う。
ソ連のマルクス=レーニン主義やアメリカニズム、戦後民主主義、
その他影響を及ぼしたあらゆる思想が無価値だということではない。
私自身、ほんの一時期だけれども、ソ連に興味を持ったからこそ、平等に
ついて考えるようになり、ひいては自由についても考え、今のような認識に至ったのだと思う。
したがって、あらゆる出来事も無価値であるということはないと思う。
すべての事象には価値がある。
そして、その価値をどう評価し、どの価値を選択し、どういった価値を構築していくかは、
やはり私やあなた自らが取り組むほかないと思うのだ。
Posted at 2010/04/24 09:56:34 | |
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思索 | その他
2010年04月23日

アルコール(お酒)というのは実に面白い。
お酒を摂取することで、人々は普段とは異なった心理的・身体的な反応を露呈させるからだ。もちろん、お酒を飲んでもまったく普段と変わらないという人もいる。
私の友人(女性)は、お酒のにおいをかいだだけで酔っ払ってしまうそうだ。
食事だか飲み会だかをする機会があって、試しに匂いをかがせてみたところ、本人は突然、ワンワンと咆えて完全に犬になりきっていた。これには驚いた。
アルコール許容量の個体差の理由についてはある程度の科学的な説明ができるだろう。それはよい。私はお酒を飲んだときの人々のそれぞれ異なった反応・有様を観察すること自体が面白いのだ。現象を楽しんでいるとでも言おうか。
私はお酒には強いと思う。
顔が赤らんだり、稀に身体がふらふらっとすることもあるが、
たいていは何杯でも飲んでしまう。
現に昨晩も焼酎をほぼ一瓶開けたのだが、実に爽快な朝を迎えている。
そういう意味では私は恵まれているといえるかもしれない。
朝まで飲んで出社するということも割合と平然に行っていた。
少なくとも胃袋が頑丈なことは確かで、そんな自分の肉体に感謝したい。
一方で飲まなくても平気でもある。
現におととい、妻と一緒になじみのお店に行ってきたのだが、私は運転をしていたため、お酒を嗜むことはなかった。別にそれでもまったく問題ないのだ。
さて、器質的な原因究明ではなく、私は別のアプローチで、このお酒の持つ作用について、もっと想像力を広げて考えてみようと思う。
たったいま、脳内でお酒を飲む人と飲まない人、強い人と弱い人に共通する特徴を見出そうとしているが、まったくもってわからん。うーむ。
アルコールという媒介が精神や肉体に通常とは異なる変異を与えることはわかっているのだが、性格や肉体的な特徴は見出せないように思える。遺伝的要素ということであれば、私の父母はそこそこ飲めたが(いまは飲んでいない)、特に母方の祖父母はほとんど飲めない。なぜ母親は飲めるような性質になったのか。環境によるものだろうか。
ここで私は人間の関心というものに思いを飛躍させている。
たとえば、私は自動車や歴史、外国語に興味があるのだが、これらに関心を持たない人がいるのは当然である。
自動車や読書、外国語に親しむきっかけというのはあるのだろうが、そのきっかけはなぜ私には生じて、ある人には生じなかったのだろうか。
若しくは、きっかけが私にもある人にも同様にあったとして、私はなぜそのきっかけを奇貨に、興味や関心を抱くようになったのだろう。
潜在意識という普段の自分が意識していない無意識という領域があるらしい。そこには自分がいままで経験してきたことをさまざまに解釈し、それが顕在意識(自分で意識している意識)や行動として現れるという。
ということは、人間はいままで様々な経験をしたときに、自分の表層の意識ではなく、もっと奥深い部分で、その経験を様々に解釈し、自分の性格や行動といった形で再びフィードバックしているともいえる。
それでは、経験への解釈はどのようにして決まるのであろうか。
アルコールによる意識や身体の変容というのも、おそらく潜在意識に積もった情報が絡んでいるのだとは思うが、お酒の例をとってみるだけでも、人間存在というのは実に多様で複雑なのだなと思う。
今のところ、私はこの多様で複雑な人間存在というのは、もっともっと奥深い根っこの部分では一つに繋がっているのだと思う。
だから、他者というのも正確にいえば、自分と決定的に分かれた存在ではないように思える。だから、個々のことを「自分」というのではないだろうか。つまり自ずと分かれた存在であるということをここでは暗喩している。
話は思索の世界から、一気に転回するが、
私は芋焼酎が特に好きなんですよ。
なので、芋焼酎が好きな方、一緒に飲みましょう。
特に画像の場所では、白い砂浜や蒼い海、高層ビル・レインボーブリッジ・東京タワーを眺めることができます。こんなところで飲みたいですね。いや、実際にのめるんです。芋焼酎があるかどうかは未確認ですが、ビールやカクテルならOKだと思います。
この場所は、私の友人に連れて行ってもらったのですが、非常にいい環境で、南国的気分を味わうことができます。超お勧めですぜ。
Posted at 2010/04/23 10:14:23 | |
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思索 | その他
2010年04月16日

まず行動が第一という考えが一般にはかなり積極的に流布している。
これはこれで一つの考えだと思う。
私は基本的には思考し、精神を整えてから行動することがほとんどだ。
具体的な心理過程を記述すると、
「自分は何をしたいのか」「自分がこれからやろうと思っていることは本当に自分がやろうとしていることなのだろうか」「果たしてこの行動は適切だろうか」といったことを自問している。これが思考。
そして、自問した考えについて思いを馳せていると閃きが起こる。その閃きに従って、行動を決める。若しくは自分の感情を指針として、あることを考えるときにいい気分に感じれば、あることに対して私は行動(アプローチ)をとる。いい気分でないときは、おそらく潜在意識下の自己意識と調和していないということだから、とりあえずは行動は留保しておく。
これが精神を整えるということ。
思考や精神が行動を規定する。若しくは、思考や精神の延長が行動であるともいえるかもしれない。
すぐに決断が迫られるようなときはどうするかと問う方もおられるかもしれない。
確かに、上に述べたようなプロセスをとっさに行うというのは難しいかもしれない。
だからこそ、私は普段から思考して精神を整えてから行動するということをパターン化させているのだ。いわば馴れの問題であって、決断を迫られていると見られる状況があっても一切の迷いはない。
このように思考していると、考えていることが不思議と引き寄せられてくることに気づく。考えていることがそのまま現象として現れることもあるし、少し違った形で現れることもある。また、思考して即座に現象が現れるというわけではなく、一定の時間を置いた後に現象として現れる。
また、現象を体験してみて、そういえばこの現象について考えていたなと気づくときもある。
思考が現実化するという考え方は、アメリカで盛んである。
書籍でいえば、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」がもっとも著名で、これは世界一のベストセラーである。無論、邦訳も昔から刊行されている。
アメリカ人というのは、伝統的なしがらみにとらわれないために、今までの価値観とは異なることを見出しやすい感性を持っているのかもしれない。
現在では思考が現実化するという発想はかなり人口に膾炙するようになってきたのではないか。ポジティブシンキングをするとポジティブになるというのも、この考え方の延長上にあるものだろう。
日本でも「念ずればかなう」という表現があった。
最近は、神という外的存在ではなく、自分自身の自由意志によって、思考を生み出し、思考したものを現実化させるのだと説く考えが増えてきている。
自分自身が抱いている思考と似たような環境が引き寄せられるようにして、自分の周囲に展開するという考えだ。
いくつか関連書籍があるので、書店のビジネス本・自己啓発本・人文・スピリチュアル(精神世界)辺りのコーナーを探していただきたい。
一般的に「引き寄せの法則」と題している邦訳本が多いのが特徴である。
ところで、この思考が現実化するという考えを私は意図的に活用しているということにもなるまいか。
つまり、私は自ら主体的に思考によって精神を整えることにより、自分の思考に類した現象を主体的に呼び込んでいる、つまり引き寄せているということだ。
「類は友を呼ぶ」というが、私は思考の作用について、実に的を得た説明を簡潔に示した表現のように思える。
もう少し思索してみよう。
思考とは認識とも置き換えられようか。
大乗仏教のなかの考えの一つに唯識というものがある。
唯識とは唯(ただ)、八種の識(五感である視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識、二層の無意識)のことを言うらしい。これらが個人の認識や思考や無意識といったものを内蔵しているとのことだ。ごく大雑把にいえば、「人間の精神(若しくは個を規定するすべて?)=識」ともいえるのかもしれないが、この点私にはよくわからない。
唯識の考えでは、すべての人間には阿頼耶識(アラヤ識)というものが備わっているという。アラヤとは「集まる」の意味らしい。上に述べた八識のうちの無意識の一つに該当する。
余談だが、ヒマラヤは「ヒマ=雪」と「アラヤ=集まる」で、雪の集まるという意味になる。
さて、阿頼耶識は、人間存在の様々な事柄を形成しているようだが、今現在私には知識がない。わかりやすい説明をしているサイトがあったので紹介しよう。
夢相庵~仏教に学ぶ~というウェブサイト内にある人生を演出する阿頼耶識より一部引用してみる。
(以下、引用)
私達は、私以外の外の世界は、私とは別に存在しているように思っていますが、実は私の阿頼耶識が私の外の世界を作り出している、こう唯識は考えます。自分の感覚・知識を信じ切っている私達現代人にはなかなか理解出来ないことではありますが、以下の説明を聞けば、何となくそうかも知れないと思えるのではないでしょうか。
私達の眼は、通常は空気中の小さなホコリ、ばい菌を捉えることは出来ません。しかし太陽の光線が部屋に差し込む具合によりましては、沢山のホコリが見える時があります。もし、私達の眼が顕微鏡のような高感度のものでしたら、恐らくは、ばい菌とホコリだらけの世界が眼に映り、とても生きてはゆけないかも知れません。
音についても、私達の聞こえる音の周波数とイルカやコウモリとはかなり異なります。聞こえない音があるから静かに眠ることが出来ているのかも知れません。匂いも、犬は私達の何倍かの嗅覚力を持っていると聞きます。また大地震の前にはある種の動物が予兆を感じ取ると言う話もあります。
こう考えますと、世界は、私達が思っている通りの世界ではないと言うことになります。私達が世界と思っている世界は、私が私の能力で捉えている世界であり、真実の世界ではない、即ち、世界は唯(ただ)私の識(心)が作り出しているものだと言うことになります。
同じ人間でも、人に依って世界は異なります。前にも例として上げましたが、テレビに映る同じ人物を、私は吉永小百合に似ていると思うけれども、私の妻は全然似ていないと言うことがあります。私の認識している吉永小百合と、妻の認識している吉永小百合が異なる像として阿頼耶識に記録されていると言うことだと考えられます。
ピカソの絵を見て、感動する人もいるでしょうが、人に依っては単なる落書きにしか見えません。同じ仏像の前を通っても、その慈悲心に溢れた眼差しに眼が釘付けにされる人もいれば、全く無関心で一瞥も与えないで通り過ぎる人もいます。同じ仏像でも、阿頼耶識に蓄えられた種子に依っては見え方が全く異なると言うことになります。更には、ある人には存在している仏像が、他のある人には存在しないと言うことになります。
(引用終わり)
私はこの考えが気に入っている。
私が常々考えていたことと似ているからだ。
そもそも万人に共通するような客観的な世界や状況などは論理的にありえないと思う。吉永小百合やピカソの例がそうだが、人間は個々により関心や視点、解釈が異なる。
私自身の例を話そう。
大通りを歩いているといろいろなクルマが往来しているのが見えて、個々のクルマの色や形、車種などを認識することが私にはあるが、一緒に歩いている妻は大通りの並木の初々しさに感動していたりしている。
同じ状況下にありながら、まったく異なる視座を持っている。おそらく眼球では二人ともクルマも並木も捉えているのかもしれないけれども、認識する視座によって、まったく違う状況(世界)が導きだされる。
さて、その認識するおおもととなるのは唯識論的表現ではなく、一般的な言葉でいうとやはり思考ではないか。
上の例の場合、自分に関心がある思考に基づいて、認識する箇所が規定される。
こういう風にも言えるのではないかと思う。
なお、自分に関心のある思考とは自分では意識していない潜在意識での欲求を含む。
今まで挙げてきた事例に共通するのは、自分の思考がすべてを決定するということだといえる。つまり、それだけ自分の思考というのは人間にとって、非常に大切なものなのではないかと私は考えている。
皆さんはどう思われますか。
「われ思うゆえにわれあり」いう有名な格言を残したデカルトは、
精神と肉体を分けて考える近代的な二元論の考え方の先駆けとして広く知られている。
彼は精神と肉体を別のものとして明確に分けていたが、思考にまつわる有名な上の格言は、デカルトが方法論的懐疑と呼ばれる彼の「思考」を通じて、絶対的に否定できないものを求めたことから生まれた。方法論的懐疑とはあらゆるものを疑ってみることで、デカルトはこれにより真実を求めようとした。
彼が懐疑したあげくに出た結論は、「この疑っている自分は疑えない。よって、私という存在は確実にいるのだ」ということだ。つまり、彼は思考を通じて、自分が確かにいるということを真理だと証明したと考えたのだ。
この場合、思考のおおもとにあるものはなんなのであろう。魂だろうか。
魂だとすれば、魂のおおもとはなんなのだろうか。そもそも魂とは何か。
そして、こうしたことを考えている私はやはり実在しているのだろうか。
思考とはいろいろなことを考えられるものである。
なお、デカルトは精神と肉体を連結させている働きが脳内の松果体にあると考えたという。松果体が真実であるのはやはり自分自身の思考による確信ではないだろうか。他人もそう思っているから、松果体は実在しているのだという風にはなるまい。
では仮に松果体を取り出してみる。これをみて、やはり松果体の実在を信じる人もいるだろうし、ほとんどの人が目に見えるゆえに疑いなく、松果体の存在を受け入れるだろう。
しかし、精神と肉体を連結させる機能としての松果体の働きは目には見えない。デカルトの考えについて賛同するかしないかは、やはり我々それぞれの思考に基づいて判断を下すほかない。
そう、やはりすべてを規定するのは自分の思考なのだ。
私はそう思う。
Posted at 2010/04/16 21:56:14 | |
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思索 | その他
2010年04月12日

はっと自然の美しさや素晴らしさに息を飲む心のありさま。
まさに「もののあはれ」ですな。
私も日本に長く暮らしたものとして、こうした「もののあはれ」的なことに深く共鳴する性質があるのだなと思います。
桜の花の具合にも感心しますし、これから迎えようとする新緑の季節の準備をしようとしている萌芽の数々にも目が向かってしまい、大いに愛でる気持ちになる。
自然を自分と隔絶した対象物として捉えるのではなく、大自然のなかに私もいるし、桜花もいるし、萌芽の数々もいるという具合に世界を捉えているように思えます。
つまり、自分という意識と事物との区別がほとんどないのですな。
ゆえに、私自身も完璧に他から隔絶された存在というよりは、大きな宇宙という樹木の枝の一つなのかなという気がします。逆に私自身は大きな宇宙であるという風にも考えます。どちらが主でどちらが従というわけでもなく、形状こそ異なれ、お互いに繋がりを持ちながら、生きているのだなというふうに考えています。
心理学者ユングの集合的無意識とか、ガイア仮説(地球は生命体であるとする考え)などに共感を覚えます。
こういう心境にいる私の場合、アイデンティティの問題については思い馳せることはあまりないかなと思います。なぜなら、自分はすでに生かされているわけだし、他の生命体も同様。そして、他の生命体も自分も元を辿れば同じ。
そう考えれば、哲学的な思索に入る必要もなくなるわけです。
ただ、こうした価値観を念頭に置きながらも、自分ってなんだろうと考えることはよくあるんです。結局のところあらゆるものと繋がっているんだなと思いつつも、さて、ではそんなことを考えている自分って何なのだろうといったことです。
「自分とは○○である」と公式のようにきちんと定義できるようなものじゃないと思うんです。
「自分とは○○である」という公式がそれこそ無限にあるのが自分ではないかと思うんです。
酒をしこたま飲んでいるときも自分ですし、自動車を運転しているときも自分。そして、いまみたいに自分とは何かと問いかけている自分も自分なんです。そう思います。
ひとまず今はそうした無数の自分を肯定的に受け止めてあげたいですね。
そんなことを考えています。
閑話休題。
写真の風景いいでしょう。先月初頭に妻と伊豆に旅行したときに撮影したもの。
駿河湾に面した土肥の街が雲下にみえる非常に幻想的な光景。
この日は快晴で気温も25度近くありました。
写真を見れば、それだけで肯定的な記憶が頭に残る。同様にあらゆる自分を肯定的に受け入れてあげて、自分自身を今以上に高めたいものです。
Posted at 2010/04/12 15:06:34 | |
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