• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ワルめーら@Terryのブログ一覧

2015年12月03日 イイね!

夢幻

夢幻眼前に見えている光景は幻なのかもしれない。

ある出来事がある時には好ましく思え、ある時には不快に感じることがある。また、同じ事物をみていても、それに対する評価は、個々人によってまちまちだ。
ならば、客観的に存在しているかのように思える世界と私たちが自明のものとして受容しているものは、私たちのそれぞれが作り出した主観的世界の投影に過ぎないとも思える。










以上のような考えには合致しないのではと思えるほどに世界は完璧に創造されているとも思うけれど、それでも私は世界は個々人の認識により出来上がったものと信じている。

生まれる前の記憶や産湯に浸かっていたときの記憶が私には多少ある。ただ、この世の原理が主観的なものであると、その時に認識していた記憶はない。だから、根源的には主観であろうと客観であろうとどちらでもいいのかもしれない。

幻であろうがリアリティであろうが、この世の様々な出来事を反芻するように味わってみようと思う。

さて、今年も残すところ僅かとなりました。
そろそろ冬タイヤに交換しようと思ってます。タイヤは昨年大活躍したブリザックの17インチ。インチダウンに伴い、ホイールはワンオフ塗装を施した冬仕様のものに交換します。





新雪の上をぐりぐりっと走る感覚が待ち遠しいなあ(^∇^)





Posted at 2015/12/03 17:14:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思索
2015年10月31日 イイね!

感謝 気丈な妻へ

感謝 気丈な妻へここ数ヶ月、環境の変化等でまいっていた時期が続いていました。
それでも、彼女はいつも明るく振る舞ってくれて、私にいつも元気というエネルギーを送ってくれています。

実は彼女にはがん細胞があることが数ヶ月前に発見され、近日手術をします。
身体の一部を切除し、髪の毛も抜けていくのだそうです。
こうした状況は基本的には一般的にはネガティブなものとして捉えられるかと思いますが、そんな中でも、周囲の人々の優しさや思いやりに対して、素直に感謝できる彼女の姿から、私は人間心理の機敏、もっといえば存在の本質を学びました。

それはすなわち、ある状況にあっても、物事の捉え方次第で、それは幸せにもなるし、不幸にもなるというこの世界に生きる人間の原理です。
人間には「~したい」という欲が出てきたときに、同時に不足感も生み出すそうです。
なぜならば、「~したい」という願望の裏には、「~ができていない」という不足の気持ちが同時に表現されているからだそうです。
ですので、「~したい」「~できる」「~したくない」「~できない」といった事柄はコインの裏表のような関係なのだそうです。

彼女の場合、状況をありのままに受容しています。つまり、「~したい」とか「~したくない」という価値判断をいっさい持ち込んでいないため、不足感が生じていないんです。
こうした生き方については私も知識としては知っていました。
釈迦が中庸の精神を説いたのも、判断力を持ち込むことにより、ありのままの自分以外のものを許容することで、不足や渇望の気持ちが湧き出てくることを懸念したためだと思われます。

この世界は自分の想いが映し出される鏡のようなものだといわれることがあります。
その謂いに従うのであれば、彼女の姿勢は私にありのまま・そのままでいいんだよということを教えてくれているとも云えます。

そういうわけで、心から彼女に感謝したいと思います。
ありのままに。

*画像は浜離宮公園。銀座の喧噪からやや離れた場所にある場所で東京湾の隣に位置し、海水を引き込んだ池など、趣向を凝らした仕掛けが施されている庭園です。

Posted at 2015/10/31 07:02:42 | コメント(3) | トラックバック(0) | 思索 | 日記
2015年08月04日 イイね!

物質的豊かさの定義

物質的豊かさの定義区営の運動公園で、ちょこっとバスケのシュートを楽しんだりしたのち、徒歩で二子玉川まで来ました。やはり、身近な繁華街というと二子玉川ですね。




この間、山手線途中下車をして、有名なラブホ街を独りで歩いてみましたが、私にとっては異質過ぎました。まあ、相手がいて、その相手と来るぶんにはいいのでしょうし、私はもともと隅田川の東側の人間で、こういう雰囲気には普通に馴染んでいると思ったのですが、月日が経ちていました。人間は環境によって、価値観も変容するのでしょうか。





さて、徒歩の中途は国分寺崖線沿いの自然に囲まれ、眺望も素晴らしい高級住宅街を通ってきたのですが、結局のところ高級ってなんですかね。
ある価値観が自分にあり、ある出来事や事象に出会ったときに、高級という概念でその街区を判断しているに過ぎないように思えます。
ということをよく学べる場所でもあります。

私は十代の頃は精神主義まっしぐらで(学校生活ではフツーに遊んでいたので、精神の極端さをうまく補填していたのでしょう)、物質的な物事が満たされることをむしろ拒否していました。その不均衡さが解消されたのは、クルマを手に入れたくらいからで、そういう点でもクルマには感謝しているんです。




これは無論一般論ではありません。
私という存在がただ感じただけのことで、普遍性はありません。
そのことを踏まえた上で。

しかし、ある種の渇望というのは、心の中の空虚さを満たすための代替物であるようにも思えます。渇望は満足を知りませんから、ある代替物を手に入れてもすぐに飽きてしまい、さらなる充足へと私たちを誘うことも多い気がいたします。
かくして、私たちは物質的な豊かさの中に内包されている渇望の念が巧妙に隠蔽されていることを忘れてしまう。ゆえに、物質的な豊かさが少しでも欠落すると感じると、不安や憤り、羨望や嫉妬が生じる。

こんなところが人間の苦しみのメカニズムの一つではないでしょうか。知らず知らずのうちに比較をしたり、それに基づいた価値判断でもって、物事や環境、そして、自分の価値まで測定してしまう。

物質的豊かさは肯定しているのです。
ただ、上に述べたように欠落や世間や他者により構築された価値観という物差しでもって、物質的豊かさを求めると、かえって苦しくなるようにも思えます。
物質的豊かさの定義を自分なりの尺度のものに訂正するといいですよね。

毎週バーベキューに行くことにワクワクするのであれば、それを物質的豊かさと定義する。高級なモノを手に入れることが、その人にとっての本当の豊かさかどうかは疑問です。

そんなことを考える今日この頃です。









Posted at 2015/08/04 19:37:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索
2013年06月20日 イイね!

固定的な観念

固定的な観念澁澤龍彦の本を久し振りに読んでみた。
初読のものだったけれど、おかげさまで澁澤のイメージが大幅に変わった。
彼の姿というとどことなく浮世離れしていて、およそ私が住んでいる世界とは異なる世界に住まうというイメージが付いていたけれど、それが見事に剥離され、近所の商店街のスーパーで見掛けそうな感じさえする。そんな親しみやすささえ生じた。
むろん、実際の本人の生活やら振る舞いやらが書籍でのイメージとは異なる姿があったとしてもちっとも不思議ではないけれど、でも澁澤龍彦だからなぁ。

松本清張に関しても実に綿密で粘着質な「昭和史発掘」やら「日本の黒い霧」などがあるかと思いきや、こんなにも通俗的でいいのかと思えるような歴史小説(黒田官兵衛が主人公の作品なのだけれど、アマゾンのレビューだと他作品とのギャップを述べたものが無いのが意外だった)もあった。
もっとも、彼の歴史考察力にはなみなみならぬものがあるが、それら主要作品はとりあえず除外して。
ところで、通俗的なことが悪いわけでもない。私が読んできた清張本の折々とのギャップが著しく、そしてそれが通俗的だなと感じたまでのこと。
高尚だろうと通俗だろうとその価値に優劣はない。

澁澤の初読本に対しても、清張の黒田官兵衛本と似たような感想を抱いた。
こちらはアマゾンでも似たような感想を述べたレビューを散見した。
当人(のイメージ)とは異風なものを、殊に当人(のイメージ)からは想像も付かないような媒体で書いたとき、原稿料の問題で語られることも多い。
澁澤の上記本では、増築費用の捻出のために引き受けた云々という話しも出てくる。まあ、初出が当時のKKブックス(庶民の教養願望を平易な文体・テーマで叶えて売れに売れたシリーズ)だというから、そう邪推されるのもわからなくもない(当時はまだ教養主義が幅を効かせていたのだそうだ)。
そういう面もあると思うんだけれど、やはり澁澤なら澁澤が展開する世界というのは、浮世離れした博覧強記の大天才という枠組み以外にもあるということを示しているのだと思う。
松本清張だって、「点と線」とか邪馬台国論などで、脳みそをフルに推理モードにする場合もあるけれど、時にはクールダウンする場合もあろう(いや、クールダウンというのが相応しいのかどうか)。
ともかく、それは悪いことではない。
その執筆者の可能性・才能の広さにほかならないだろう。

書名を挙げてしまおう。
「快楽主義の哲学」という本は、近頃、活字離れしていた私には読みやすかった。
最近、本を読む気がしなかった。
まあ、それはどうでもいいとして。
澁澤ならではのエロティシズムの路線は崩してはいない。平易な文体にはちょっと意表を突かれるけれども、相変わらずよくもおもしろおかしいことをこれほどまでに知っているものだと関心しながら読みすすめていくという点では変わりがない。サドに関しても当然言及している。なんだか安心。
私自身の認知の幅が広まった。
狭く固定的だった澁澤に対するイメージが、大きく膨らんだ瞬間でもあった。

たまたま澁澤龍彦や松本清張をダシにしてみたけれど、固定的な観念(belief)が人間にはあると思う。
ある人は渋滞がどうしても許せないし、ある人は子供が騒ぐのが許せない、といったことなど。
考えてみれば、これら個々人の観念(価値観)のすべてが社会道徳・倫理的に許容されえないという烙印をおされたもの以外であっても、結構われわれは固定的な観念でもって、物事を解釈していまいか?

あくまで私の個的体験。
お金を卑しきものとする人たちがいる。
だが、資本主義の世の中ではお金はある価値を享受するために重要な役割を果たす。
スーパーで野菜と魚と肉を見つけた。気に入ったからといってそのまま持ち帰ったりはしないだろう。お金を支払うはずだ。
そこで、そういう人たちはお金を稼ぐことに努力する。別にそれが悪いわけではない。
しかし、常に窮乏した不足の感情があるから、日々是、「お金がない」といって不満をもらしたりする。
そして、やがてお金がないことの言い訳として、お金だけが人生のすべてではないと開き直ったりする。
時には金持ちを批判的に見たりする。
かくして、お金をいやしむことで、現状の不満足感を隠蔽しようとしている人が多いような気がしている。

もちろん、お金だけが全てではないけれども、徹底的な共産主義者でもあるまいし、今の時代ではお金は目的でないにせよ、サービスやらモノの獲得やらにおいて重要な手段となっていることは事実だ。
だから、もしお金を無意識の上であれいやしむなら、本来はお金を稼ぐことをやめるべきだろう。
しかし、ある人は、「いや、そうしないと生活できないから」といい、働きお金を得る。しかし、根底に不満があるから、「お金なんて、、」という形でお金に対して否定的な観念を持つ。

豊かさの手段というか、それ以前に「お金があればこうなるのに」という限定された図式しかないから、お金に振り回され、そしてお金が満足に入らないとなると、
お金や金銭状況が良い人に対して批判的になる。
これは視野としては狭いと思う。
そして、固定的な観念を抱いているんだと思う。
それも非常に倒錯した形で。
「お金は欲しい。でもお金がない」
そこで、自我の均衡のために彼らはいう。
「お金だけがすべてではない」

再三いうけれども、お金だけがすべてではないが、上の文脈ではお金への欠落感から生じた結論である。本当はお金を欲している。
その点では首尾一貫していないし、矛盾しているなと私は思う。
そういう思考方法をもちろん許容するけれど、私は別のアプローチをすると思う。

私なりの金銭に対する定義はこうだ。
「私はいつでも好きなときにいつでも好きなことをすることを目的としている。お金はそのための重要なパートナー(手段)の一つである。むろん、お金だけがパートナーではない。でも、パートナーの一人であることには変わりないのだから、大切にしていきたいと思うし、どんどん自分の経験の中にお金が流れ込んでくれば、自分の冒頭に掲げた目的がより一層達成されるのではないかと考えている。もちろん、いろいろな人のいろいろな人の見解があるのは承知しているし、私はそれを認める。でも、私は私のパートナーを大切にしたい。よって、お金も大切にしたい。逆にいえば、お金を介さなくとも、目的を達成できることも多々ある。そのことを踏まえた上で私はお金が大好きなのである」

たまたまお金のことが頭に思い浮かんだので述べたのだけれど、どんな分野のことであれ、手段と目的を明確にしておいたほうがいいのではないかなと私は思う。

澁澤や清張の私が勝手に抱いていたイメージは、特に前者においてはほんの数日前に覆された。でも、私はこれまで実に固定的で柔軟性の無い観念を持っていたのだなと思い知るいい機会となった。
これからは、読書の世界に限っても、より広い視野である筆者からの様々な筆致を堪能することが可能になるであろう。

視野は幅広く持つといいのではないかということと、自分自身が抱いているスコトーマ(固定観念)を解きほぐすことが必要なのではないかということと、その上で
あらゆる価値観や生き様を許容することが結局のところは、いいのではないかなということを常々思っていたので、つらつら書いていたが、あくまで自分への覚書として記したのみ。

人には人の数、時には人の数以上に見解がある。
それを逐一、検討して価値の序列を付けるよりは、すべて対価なものとして尊重したほうが自然だと私は思う。その上で自分自身の好みを心ゆくまで楽しむのはとても素敵なことだと思う。
人間としての自由と幸福を感じるからだ。

Posted at 2013/06/20 05:46:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | その他
2013年06月11日 イイね!

解はないけれど漠然と思うこと

解はないけれど漠然と思うこと三陸のホテルの人とメールのやり取りをしている。
端緒となったのは、まずこちらがウェブで宿泊予約した後に、私に確認したいこと(部屋の場所や来館手段等)についての照会メールが、ホテル側のとあるスタッフ(支配人?担当者?)から送られてきたことだ。
返信に際して、ついでだから聞いてみようと思ったこと(スタンドや食事処の有無・気温や気候状況等)を遠慮なく聞いてみた次第である。
そしてまた件のホテルの人からメールが来るという展開。
そんなわけで結果として、やり取りになっている訳だが。

むろん、サービス業として顧客の質問には返答しなくてはならないのであろうが、その対応は手早く、そして手厚い。
まだ出発はしていないけれども、もうなんだか三陸の地で楽しんでいる自分が完璧にイメージできている。
私見だけれど、旅は既に検討したときから始まっていると思う。
だから、私にとっては一年中のほとんどは旅をしていると言い換えても良いだろう。
私はそういうふうに考えているというだけのお話だけれども。


*長浜より琵琶湖と桜を臨む

さて、これまた面白いことだが、7月に行きたい場所も頭に浮かんできている。
突然インスピレーションが浮かんだ。「あっ、ここなんだな」という具合に。
日頃から直感力を研ぎ澄ますように工夫しているけれど、此度のインスピレーションは、おそらく旅慣れしてきているからこそ、閃いてきたことだろう。
旅に限らず、どんな事柄でも慣れてくると先の先が見えてくる。
球技とか将棋などがその好例ではないかと思う。
「こうしたら、こうなるだろう。その次は、、」
「この方向にこういうボールがきたから、次はこの場所にこういうふうにボールが来る。だから、こういうスイングをする」という具合に先の先のそのまた先の展開がつらつらと浮かんでくる状態に、旅慣れというのは似ているような気がする。
うまく説明ができないが。


*名古屋市街にある美しい公園(白川公園)

もとより、私はクルマを主な移動手段としていろいろな場所に出向いている。
ただ、今年に入ってからは、月ごとに一泊旅(場合によってはそれ以上)をするというテーマを設定し、それを実行することにしている。
どこかに宿泊するという目標を設けてそれをこなしていくことで、自分の中にある旅のポテンシャルとでもいうようなものがどんどん顕れてきているんじゃないかと思う。
つまり、球技や将棋の如く、趣味としての旅なのだけれど(私にとってはライフワークかもしれない)、それなのに神からの啓示が電磁を帯びて脳内に突き刺さったように、「次はここがいいし、次はこちら」というように、自分がうんうん旅の予定を唸るまでもなく、向こう側から勝手に旅の企画を考えてくれるという、実に不思議な感覚を味わっている。
いわば、先の先の展開が読めるのである。
これは科学的な態度とは異なる。
なぜなら、法則性を明らかにしたり、証明することができない。
しかし、そういうこともあるだろうという感覚はかなり多くの人々にも共感し得るだろうし、因果関係では説明できないことを科学的な仮説・実証・証明というアプローチで解明しようとしている科学者も多い。
それはともかくとして。


*銚子犬吠埼下の荒波

旅におけるこうした自分の傾向から敷衍してみると、何事も行動・経験してみることで、だんだんと全体的な大局や流れが見えてくるんだと思う。
それでも感情がゴーサインを出すまでは行動しないようにしようと思う。
この点で私は実は猪突猛進なタイプではない。
ケースバイケースな面はあるけれど、基本的な姿勢としてはそう。

ただ、今までは感情がゴーサインを出すのをひたすら待つだけではなかったのではと思う。
いつも潜在意識内の感情は常に「ゴーサインを待って待機している」という想念に支配されているから、行動に結びつく知恵も編み出されず、「ひたすら待機している」という現実が生み出されてきたのだと思う。
これは自分の人生を俯瞰的に見て、私が勝手にそう思ったことである。
人生といっても幅広いから、私の場合、旅の分野ではどんどん行動を伴うことが実現されていることもあるし、別の分野では一歩踏み出せないという面もある。

感情がゴーサインを出すのを待つ自分の姿勢自体は尊重するけれども(自分の想念が調和してから行動したい)、現実が自分の考えを映し出す鏡だとすれば、行動に向けた感情の在り方というのも見直してみようかなと思う。
行動に向けた感情とは何かという想念を放ち続けていれば、その答えは現実の中で非常に抽象的・象徴的な形で、或いは具体的なインスピレーションや出来事という形で、与えられるだろうと思う。


*開放的な九十九里有料道路

なお、トップ画像は都内にあるイスラム教のモスク。
せっかくなので、アラー(キリスト教でいうヤーヴェ・エホバで実はどちらも同じ唯一絶対神)神の啓示を受けたムハンマドの言行録「ハディース」からのほんの一節を紹介しよう。

“あなたが人々に微笑むことは施し(サダカ)である”

あくせくして四苦八苦していても、実に素晴らしい経験を享受していようと、
微笑むという行為自体はどんな場面で行なうことはできる。
微笑みができないような状況のときは、微笑む状況をほんの少し思い浮かべるだけで良いと思う。
思考が反映されたものが現実だとすれば、微笑めば、現実は微笑みをもって、私たちに応えてくれるのかもしれない。






Posted at 2013/06/11 01:04:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | 日記

プロフィール

「建物そのものがすでに歴史民俗資料になっている気がする😅」
何シテル?   06/18 13:17
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

ハイタッチ!drive

みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/6 >>

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

リンク・クリップ

トライアルC25さんのスズキ スイフトスポーツ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2024/10/16 23:35:54
April 6th,2024 エンジンオイル交換(エレメント○) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2024/07/31 22:58:43
子連れ向きの海水浴場 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2023/05/23 09:42:28

愛車一覧

スバル インプレッサ WRX STI 涙目だけれど笑顔号 (スバル インプレッサ WRX STI)
36万キロエンジンオーバーホール歴無しの全国周遊マシン👍 黄色くラッピングされた給油口 ...
スズキ スイフトスポーツ スズキ スイフトスポーツ
2025年5月26日納車🌸 赤黒2トーンのファイナルエディションです。Dオプを付けま ...
スズキ スイフトスポーツ 鈴木の運動車 (スズキ スイフトスポーツ)
ノーマルのスイフトに加えて、二代目のスイフトスポーツを購入。 5速マニュアルのチャンピオ ...
その他 なんでしょ その他 なんでしょ
令和のクルマも手に入れたので、時計の針を戻して、今度は久し振りに昭和を偲ぼうかとも思って ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation