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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2012年03月24日 イイね!

価値観は相対的なもの 新撰組を通じて思う

価値観は相対的なもの 新撰組を通じて思う夢だったのかな。
「私は新撰組が好きなの」と述べていた女性がさっきまで手元にいたような気がする。
夢だとしても、どうやら私の身近にいる人物のような気もする。しかし、なにぶん夢ゆえに思い出しにくい。
とはいえ、妙に頭に引っかかるので、ブログに新撰組の事柄でもまず書き記してみようかと思う。

幕末の京都を震撼させたとされる新撰組は、清河八郎という策士が幕府に働きかけて、浪人たちをかき集めて京都に上洛しようとする将軍の守護に当たらせようとして組織されたのが先駆けである。当時、浪士組といった。
ところが、清河の策士ぶりはこれら浪人たちが入洛してから発揮される。
なんと、幕府ではなく朝廷を守護するための組織として彼は組織の性格を変えようとする。
この彼の考えに反対したのが、近藤勇や土方歳三などの面々である。
彼らは新撰組を結成した。そして会津の殿様である京都守護職松平容保のお預かり(直参という意味か)として勢威を京洛に増していくのだ。
当初は芹沢鴨という人物がリーダーであったが追い落とされ、近藤がリーダーとなる著名な新撰組が誕生する。

近藤や土方は武州多摩の生まれ(現在の東京都西部)で、当時は幕府の天領(幕府直轄領)であった。江戸に近いせいもあるだろう。自然と幕府への親しみは強かったようである。
だから、当時流行った天皇を尊崇し、外国と条約などを結んだけしからん幕府など蹴落とせとばかりにいきだっていた何千人もの浪士を抹殺した。
新撰組の相手は、尊皇攘夷という天皇を敬い、野蛮な外国人を追い払うという当時の流行の思想に共鳴・影響・引き込まれた連中に対する誅殺であった。
彼らは互いに血で血を争う争闘をした。

結果的に幕府は瓦解し、尊皇攘夷を掲げていた長州や薩摩など(山口県や鹿児島県)を中心とした明治政府ができあがるのだから、新撰組としては非常に立場が弱いだろう。歴史の上では負け組になったわけだから。
なお、土方の地元である東京都日野市ではここ最近、土方歳三を観光の目玉として売りだそうという動きがようやくみえている。しかし、近藤の生まれである調布市ではその動きは一切ない(と私は感じる)。

私はどちらが正しいとか間違えているとかいう判断を持ち込む気はない。
歴史は二分法では割り切れないとするのが私の持論である。
近代化に目覚めた一部の薩摩・長州の人々が構築した明治政府が出来たから、日本は救われたのだという論拠には説得力があるが、逆に幕府も親しかったフランスとくみながら徐々に近代化を進めていたのだ。幕府を中心とした近代化路線の方向もあり得たと思うし、それが功を奏したかもしれない。
ただ、歴史的には幕府は瓦解し、薩長中心の明治政府が発足したというだけだ。

勝海舟が幕府の有能な幕臣であったことは有名だが、他にも小栗上野介・榎本武揚・大久保一翁などなど優秀な人材はたくさん存在した。榎本のようにのちに、明治政府に仕官し、活躍した人物も多い。
私たちが歴史に仮定法を持ち込むときに、「歴史はかくあるべきだった」と考えがちかもしれない。しかし、歴史を構成する社会や人間は実に複雑で錯綜しており、「かくあるべきであった」と単純には規定できないと私は思う。
現在の日本社会についても、景気が悪いだとか高齢化社会で行き詰まりを見せているとか、若者の就職難があるといった要因だけでマイナス的な評価を簡単にくだすことはできないだろう。

価値観は容易に変転する。たとえば、古代ギリシャの偉大な哲学者たちはみな、労働などしなかった。労働は奴隷階級の役割だったのである。
働くことが何よりも大事という風に規定して、それが社会的な常識となるから、苦しむ人たちが出てくるようにも思える。
働くことは楽しいけれど、働かないという選択肢も十分に楽しいのだと大手を振って言える社会に私は住みたい。
勤労という倫理も、マックス=ヴェーバーの著を読むまでもなく、その根源は普遍性を帯びるものではないと思う。
「収入が無ければ生活できない」という論理構造は上記の現代常識に束縛されすぎたもののように思える。
そも、生活とはなんなのか。
本当に収入が無ければ生きられないのか。収入があれば幸せなのか。

新撰組の評価は最近ではあがってきたけれども、いっときは評価としてはかなり悪かったように思える。しかし、時代の変遷に連れて見直されるときがくる。
価値観は永遠不変ではないのだ。
新撰組を思い馳せるに連れ、私はそんなことを考えてみた。
















Posted at 2012/03/24 21:50:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | 旅行/地域
2012年03月14日 イイね!

キャラクター画から話はどんどん流転する

キャラクター画から話はどんどん流転するタイトル画像は私がさらっと描いたもの。なかなか画才があるでしょ?(笑)
千○にいるネズミのキャラではありませんからね(笑)

ところで、こういうキャラクターというのは絵本やアニメ動画(テレビ・ビデオ)などで見ると、とても愛らしかったりする。
或いは、キャラクターによってはかっこいいなと思うものもあるだろう。
様相はぬいぐるみなどのグッズなども同じで、例えばひこにゃんなどは私の大のお気に入りである。
それとリラックマかな。



ここで空想・妄想の世界に羽ばたき、その巨大海原に深く深く入り込んでみよう。
もしも、キャラクターが実際の世界に登場してきて、眼をぱちくりさせながら手と足を軽快に動かして話しかけてきたらと思うと、不気味でもある。
ゆえに、キャラクターというのは正しくファンタジーなのだろうが。
われわれが生きる世界というものが実在で、キャラクターたちが住まう絵本や動画の世界が虚構であるという確かな手応えはある。
あるのだけれど、もしかしたら、キャラクターたちが住む世界がリアルな世界で、いつもわたしたちを観察しながらその虚構っぷりを楽しんでいるのかなという可能性も0パーセントではないような気がする。
そんな想像をしたことが幾度かある。
人間の認識はことごとく主観的であり、個々の人間や個々の人間のなかに潜む感情の数だけ、この世界は存在していると私は考えている。
だから、キャラクターを主観的な存在として仮定してみることにおかしさは感じない。

さて、私がしばし引き合いに出す「胡蝶の夢」の故事は、実在と虚構とではどちらが真でありどちらが偽であるかという価値判断では捉えきれない哲学的問題みたいなものを提起しているような気がする。
ここで、胡蝶の夢についてしばし述べてみたい。

>中国の荘子という人物がある時、自分が蝶になって羽ばたいている夢を見ていました。いいですね。私も羽ばたいてみたいです。
夢の中では自分がよもや荘子であるとは思っておりません。蝶だと思い込んでいます。
目が覚めたあと、はてこれは夢だったかと気づく荘子。しかし、もしかしたら今、荘子として存在していることが夢であって、蝶が荘子の夢を見ているのかもしれないなと感じるというお話です。
このお話が主張したいことは、
形こそ違えど、どちらも同じ自己であることに間違えはない。だから、万物は絶えず変化していても、本質においてはどちらも何にも変わらないのだぞといったことになるようです。

引用 爆睡を終えて(笑) ~胡蝶の夢から考える~


夢の中で蝶であった自分は果たして本当に現実の世界の自分なのであろうか。
或いは、夢と思っていた蝶こそが本来の自分ではないか。
なぜといって、蝶として羽ばたいていたときは、私は寸分の疑いもなく己を蝶と認識していたから。
まあ、そんな風に解釈していいと思う。

しかしである。
ここまで書いてふと思ったのだが、上記に引用したブログ文の結論箇所に違和感を覚える。
人間や動植物が住む世界とキャラクターの世界というものは、根底では同じであるとは、やはり言えないような気がする。
だって、キャラクターも自己であるという認識を私たち(少なくとも、このワタクシ)持ち得ないから。
キャラクターの主観的世界というものはあるかもしれないけれど、それはワタクシの主観的世界と同一であるとは思えないな。
もっとも、自己という言葉の意味も文脈により変動するゆえに、キャラクターの話と胡蝶の夢を比較対照しながら結論を出すようなことは慎む。
言葉は文脈次第で意味合いが変わると私は考えているから。
私が、「クルマ!」と叫んだとする。
ある人は私のクルマ好きを知っているから、何やら特別に魅力的なクルマが走っていたのかなと思うだろうし、ある人は後方からクルマが来ていて危ないと私が注意していると考えるかもしれない。さらに別の人は私のことを阿呆だと思うかもしれない。
三者三様だが、三者ともに「クルマ」という言葉に関しては知っている。
しかし、「クルマ」という言葉に対する受け止め方が異なっている。
似たようなことはかつて哲学者のヴィトゲンシュタインが述べていた。これを言語ゲームと呼ぶらしいが、詳細は割愛しよう。

話を戻そう。
荘子は自己の認識とか本質への追究という次元すらとらわれない自由な心でいるようにという意味合いも込めて、蝶の夢を見たときの経験を述べたのではないかな。
今はそんな気がする。老子と比肩される程の人物だし。
上に述べた自由という言葉は、融通無碍とか自由自在の境地と換言することもできるだろう。さらには、一種の悟り状態とも言えるだろう。
私はそうした境地に好ましさを感じるけれども、同時に自分の欲望や信念をとことん追求したり、掘り下げていきたいなと思う。
前者は恬淡とした感じを受けて爽やかだけれども、私はもっとガツガツと生きてみたいと思う。

以上、キャラクター画の話から、人間深奥に迫る形而上学まで、今回も幅広く融通無碍・自由自在にブログを認めた次第です(笑)


自由自在にネギマを食べたい♪

Posted at 2012/03/14 01:11:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 思索 | その他
2012年02月10日 イイね!

運命とか主体とか

運命とか主体とか平日の深夜ドライブ帰りでどうやら目が冴えてしまったようだ。芋焼酎を飲んでも目は冴えまくっている。そこで、ブログを認めようと考えた。
最近はどうも己の思索に関するブログが多いような気がする。
今回も上に述べたような路線のブログにしよう。

突然だが、人間の幸運・不運というのは確かにあると思う。
しかし、決定的なまでに幸運・不運を規定するのは、自分自身であって、従って、両者いずれの人生を歩むかというのは、主体的に決定できると思う。

ただし、占いの類いは看過できないと思う。
ある程度伝統のある占いというのは、統計学的な所作等に基づいて、運勢を割り出したものであり、私はそれは単なる迷信だとして無視できないと思う。
私の叔母が占いをしていて、これが割合と当たることに驚いたことがある。
ある人は、それは占いの分析の結果に基づいて現実を判断してしまうから当たったようにみえるという。
ただ、私自身はある人がいうような事柄以上に人生経験において占いによる鑑定結果が当たってしまったという主観的な経験があるゆえに、殊更に占いを迷信とは言えないのだ。
しかし、私は冒頭で幸運や不運といった要素は自分自身で主体的に決定できると述べた。
占いという未来を類型化してしまうものを信じることと、自分自身の未来を主体的に切り開くと考えることとは矛盾している。
この矛盾をどのように止揚すべきか。

実は私はこの点で判断停止(エポケー)をしている。
論理的な結論が出ないからだ。
敢えて感覚的にいうならば、自分自身で未来を切り開けると確信する要素というのが私自身には備わっていて、占いによってもそうした己の資質というのが浮き彫りにされてくるのではないかと思う。
そして、私は占いを指針にしつつも、自分自身で未来を切り開けるという信念をとにかく信奉しようと考えている。
これが私の姿勢であり、文句のあるヤツは東急田園都市線の長津田車庫まで行ってきてから、私に述べて欲しい。

ハイ、私はその昔、寝過ごして長津田車庫まで連れていかれ、車掌さんに発見されて、特別に長津田駅まで車両を引き戻してもらい、運転席の扉から長津田駅のプラットホームに降りた経験があります(笑)
実はこのことを述べたかっただけだったのかもしれないな~(^^;
Posted at 2012/02/10 05:18:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思索 | その他
2012年02月08日 イイね!

「なぜだろう」がわからない

「なぜだろう」がわからない昨日、神保町の三省堂書店本店に行ったときにひしひしと感じたのですが、内田樹さんって売れっ子ですね。確かに読みやすいですし、あらゆる人々の好奇心を駆り立てる筆力があります。
私は氏がまだそれほど認知度がないときに著書を購入したことがあります。
『寝ながら学べる構造主義』という書籍で、平成14年発行されたもので、同年に購入しました。
構造主義を物凄く適当・単純に言えば、近代思想・哲学の一潮流とでもいえるのでしょうかね。

私には変な嗅覚があり、さして売れてない著者の本を購入するとその数年後にその著者がブレイクするという例がかなりあります。
養老孟司氏もそうですし、池田晶子氏(故人になりました)もそうです。
他にも枚挙に暇がありません。
自慢しているつもりもなく、自慢をしてお金でも入るのなら大いに自慢をしますが、以上のような個人的経験に基づいた話を通じて、何かを発見できないかなと思い、冒頭のエピソードを挿入しました。

私は流行に関心が無いんです。流行という現象については肯定も否定もしませんが、昔からそうなんです。書籍を選ぶときも、売れ筋本を読むというよりは、自分が読もうと考えた本を読むタイプでした。今もそうですけれど。
別段に社会の一大潮流に反抗する気もないけれども、進んでその潮流に乗ろうとも思わない。そんな感じで表現すれば良いでしょうかね。

このことを、自動車という対象に当てはめてみます。
私はどちらかといえば、旧いクルマを好みます。
論理的にその理由を説明することは今のところできません。
新しい技術も高く評価しますし、骨董的嗜好が強くあるわけでもありません。
ただなんとなく、80年代辺りのクルマが好きなんです。
その理由はノスタルジーにあるのかもしれないなと考えることもあるのですが、
果たしてどうなのでしょう。
80年代に幼少期を過ごした私ですが、私と同世代の人間であっても、自動車の趣味・嗜好は異なります(ただ、大きくは異ならないのが面白いところです)。

まあ、私という人間はやや旧い自動車が好きな人間なんだなと単純に規定する他ないのですが、そうなると冒頭のエピソードが活きてきません。隘路に嵌りましたね。

自分自身がいかなる価値観を保持しているかということは自分自身でわかります。
しかし、「なぜ」そうした価値観を保持しているのかということが私にはわからない。
この点に問題があるような気がします。
ただ、私が著者に対する独特の嗅覚を持っているとすれば、今の私みたいな感覚というのは案外と社会的に受容されうる要素を持っているという風にも言えるかもしれません。

んっ、収拾が付かなくなってきたので、芋焼酎の晩酌に戻ります。

Posted at 2012/02/08 23:57:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | 思索 | 日記
2012年01月27日 イイね!

自力と他力との中庸

自力と他力との中庸私は自分の力で何かを成し遂げているという自力の立場と他者のお陰で何かを成し遂げているという他力の立場の折衷を好みます。
つまり、自力でできることもあるでしょうし、他力でできることもある。
人間がこうもたくさん存在して、それぞれがユニークな存在なのはお互いが刺激し合って、自分自身を高め合う目的で生きているのかなとも考えたことがあります。

私にとってありがたい教義が我が日本にはあります。世界で一番ラクな教義と言えるかもしれません。
「絶対他力」というもので、自力を一切必要としない教義が日本仏教のある宗派にはあるのです。
有名な浄土真宗で、開祖親鸞曰く、
「煩悩を抱えても、なんだろうが念仏を唱えれば、阿弥陀如来がいる極楽浄土に行くことが出来る。そして、そこで仏になることができる」
さらに親鸞は続けます。
「念仏を唱えるのは自分ではなく、阿弥陀如来の計らいによって、自然に念仏を唱えるようになっているのだ。なにも心配することはない」
日本では珍しい救済の思想ですね。私はそんな親鸞が大好きです。
修行も必要ない。ただひたすら救済される。
息が詰まりそうになったときに、親鸞上人の教えを思い出すとすごく落ち着きます。
エロくて富を追い求め続ける自分にとっては救いでもアリマス(マテ)
悪人が救われるのは当然であるという「悪人正機説」の誤読ですな(笑)

ただ、自力という面も私は積極的に肯定したいですね。
真宗的な思考であれば、自分はもう救われていると考える点で大いに救いがあるのですが、私としては阿弥陀如来の法力以外の自分自身に備わる大いなる力を信じたいし、活用したいと思うのです。
ただ、厳しい修行や断食をして解脱するというのは少し違うと思うんです。普通にクルマに乗って、うまい飯を食べながら、命を全うする。そんな平凡とみえる生き方にこそ人間の生きる目的がむしろあるとも考えているんです。
「華厳経」という経典は、この大宇宙も私という存在も同時に仏であるという、実に高度な形而上哲学を構築しました。森羅万象あらゆるものが仏であるがゆえに、私という存在は宇宙とも同義とも言えますし、その逆も言えるという壮大な思想体系です。
「あらゆるところに仏性宿る」的な発想ともいえますが、私はこの辺りをスタートとしたいですね。
そして、仏性を輝かせるのは自分自身の意思なのだということを意識したいです。

さて、個々人の自発的意志の尊重となると、アメリカンスピリチュアルの世界がしっくりきます。
アメリカ人は「私」と「信仰」の狭間に揺れてきましたから、個人の主体性について、実によく考えるんですね。それとアメリカの場合、古さびた歴史がないので、現世肯定主義的傾向が強いのが特徴です。
例えば、富や健康、成功を大いに尊びます。特にビジネス上の成功には熱心ですね。
私はこうした考えが好きで、ゆえにアメリカの思潮が好きなのです。
アメリカは確かに世界の田舎ですが、田舎には田舎の良さがあると思っています。
いつまでも成長を続けようという進歩主義的な発想も、保守陣営からは批評されるかもしれませんが、私は肯定したいです。
同時に親鸞的にもう既に救われているんだということを達観してみたいとも思います。

世界には様々な宗教的・思想的見解があり、そのどれもが私には腑に落ちる箇所がたくさんあります。
その結果として、自力と他力の中庸など、バランスが重要なのだなと私は思い至るようになりました。
皆さんは今現在生きていて、何を感じますか?どうしたいですか?現状に満足ですか?もっと何かできることがあると思われていますか?


















Posted at 2012/01/27 20:20:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | 思索 | 暮らし/家族

プロフィール

「建物そのものがすでに歴史民俗資料になっている気がする😅」
何シテル?   06/18 13:17
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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