2012年01月19日
普通ならば命を落としているはずの場面で、まったくの無傷で五体満足でいたという幸運児がいました。
実は何を隠そう、私自身のことを述べているのですが、この僥倖さはどこから去来するのでしょうか。
私は特段に宗教を信奉したりはしないのですが(宗教的な発想は必要だと思っています。特定の宗教に帰依していないだけです)、神や守護霊といった存在の実在を信じており、私の幸運さは、これら目に見えない存在の恩寵であると考えるようになりました。幼年期から私はそうした存在を強く信じていました。
檀那寺は真言宗ですが、仏教に深く帰依したとかいうわけではなく、なんとなく目に見えない存在を信じていたのですね。
余談ですが、お寺に行ったときなどはよく、お経を唱えている坊さんは、本当に人智を超えた存在とコネクトするような法力を備えているのだろうかなんて具合にシニカルに眺めていました。
葬式では坊さんの禿頭が激しく光ったときに、その様が滑稽で笑いをこらえるのに必死でした。
まあ、そんな人間なんです。
さて、目に見えない存在を信じつつも、気にくわないことがあったり、悲しい出来事があったりすると、真に勝手なもので、神や守護霊などクソ喰らえなんて思ったりもしていました。
これら見えない存在に対する評価が大いにぐらついていたわけです。
一時は唯物論者になったこともあります。
結局、そういう具合に感情の波がばらついていると不安定な足場でしか生きることができず、幸せにはなれないのではないかと思うようになりました。
今でも、苦痛なことや嫌なことは起こります。
しかし、私は何よりも感情の波が負のスパイラルに向けて動くことの不合理を感じているために、できる限り「いい気分」でいようと努めています。
つまり、軸足がばらつかなくなった。
そのお陰で苦痛や嫌と思うことへの感度が鈍磨してきたように思えます。
この心境に至るまでに20年以上の月日は経ったように思えます。
何せ、ガキの頃からませたことを考えていたのですから。
閑話休題。
私は即死するような事態において助かったくらいの人間ですから、割合と生きることには自信があるのです。
そういうことが基盤となっているのでしょう。
たとえば、「MRIの結果がこうこうだったから、いよいよ手術しなくちゃいけない」という具合に考える思考には懐疑的です。
ただ、自分であれこれ思索した上で決断したことならばそれでも良いと思うのです。
手術が適当だと思えばしたほうがよい。
しかし、自分の湧き上がる感情以外の理由で、自分の未来を決めるのはどんなものかなという風にも思えます。
あまりにも依存的ではないかと思うのです。
「お医者さんに言われたから○○だ」といった風に。
私ならば、医者の見解は尊重しつつも最終的には自分で決めます。
あくまでも自律的に物事を決めていくつもりです。
もっともっと自分が本当に意図していることを深く掘り下げて考えてみたらいいのになと思うことが周囲を見ていて多々あります。
しかし、私にとっては依存的にしか見えない生き方も、その人が選択した生き方ですから、やはり、私はその人の考え方を尊重します。
なお、医療の話題を持ってきたのは、いま私の周囲に関係している事柄だからです。医療や従事者に対する批判の念はまったくありません。
Posted at 2012/01/19 06:21:01 | |
トラックバック(0) |
思索 | その他
2012年01月11日
R34スカイラインの車体に、名車R30を彷彿させる懐かしの赤黒ツートンのクルマを纏わせていることで有名なけんさんのブログに先日コメントを入れさせていただきました。
先だっての定例会(男女四人冬物語)もそうですが、密にお世話になっております。お互いに自宅も近いために、温泉などをご一緒させていただくこともかなりあります。
さて、けんさんのブログに対する私のコメントへのご返答を拝見して、今の自分にとって大切なことが書かれているなと思ったので、ここに引用させていただきます。
けんさんは私のコメントに対する返答として書いたまでだとは思うのですが、私自身が考えていることの深奥までずばり切り込んでくださったなと意識が私自身には強くあります。そのような受け止め方をいたしました。あくまで私流の解釈ですね。
これは今に始まったことではなく、けんさんのご返答には何かしら自分自身が考えている事柄が解答のようにして帰ってくることが多く、非常に不思議に思っておりました。
以下、太字箇所はけんさんのご返答部分の一部引用。
>***そんなことを挙げたらきりがありません***
要は、何を必要として、何処を目指しているのか!
はっきりとした考えを持たないと、駄目だと言うことです!
『ブレてはいけないのです』(^^)ノ
私は常々、ブレのない信念を持とうとしています。
しかし、白状してしまえば、私には強い明確な信念というのは、少なくとも顕在意識の上ではあまりなく、といって何かしらの信念を意識化することが大切だという風に考えていました。意識が分裂していたわけです。
このご返答を拝見して、かなり衝撃を受けました。
言語化するのは難しいですが、直感的に何かが了解できたように思えました。
人間は常に信念を持ち、自分自身を高めると共に、他人との関係を深めてお互いを高め合うことが本質的な存在理由だと考えております。
信念というのは、いわば誰にも束縛されない自由な価値ですね。
だから、私は自由を重んじるのです。そして自由であることは喜びにも繋がると考えています。そして、それは明るくていい気分をもたらすことでしょう。
そういう具合に考えています。
はっきりした考え、即ち、信念の大切さを改めて認識いたしました。
ここでお礼を申し上げたいと思います。
Posted at 2012/01/11 23:30:09 | |
トラックバック(0) |
思索 | その他
2012年01月10日
私はよく書店に立ち寄るのですが、最近「長財布」がプチブームになっているような気がします。一昨年に私は以下のタイトルの書籍に関する簡単な感想を述べました。
『稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?』
爾来、この書籍は平台に置かれている(表紙を上にして陳列すること)ケースが多く、従って売れているということがわかります。
余談ですが、未だにPVの多いブログです。
私は著者の思想に共鳴しながらも、長財布は購入しませんでした。
昨年に購入した『長財布のヒミツ』という書籍は、かなり得心のいく説明で長財布の効用が簡潔に記述されていたのですが、「長財布を使用すればお金持ちになる」ということを主張しているわけではなく、私もそう思うので、新しい財布はもう少し先にしようと思っていました。

しかしながら、用向きがあって三越に立ち寄ったときにふと長財布(タイトル画像参照)が目に留まり、これは買ったほうがいいなというインスピレーションが働きました。不思議な心理作用です。
ともあれ、そういう訳で、長財布を購入したというわけです。
仮にお金というものを擬人化してみた場合、やはり心地良い空間に集まりたいと考えると思うんです。ゴミだらけの散逸した財布にはできれば入りたくないはずでしょう。
モノ言わぬお金ですが、どうもお金に対する扱い方がお金との縁の濃淡を決めているのではないかと思うことが非常に多かったのです。
もともと、財布は数年に一度は買い換えるのが良いと考えているので、ここいらで新しい財布を購入しようとは考えていました。
ですので、タイミングとしてはばっちりです。
お金自体はモノ(material)ですが、お金を通じて、様々な楽しみや喜びが実現できるのは紛れもない事実です。
ゆえに、私はお金を愛しています。卑しむという気分は毛頭ありません。
だから、どうすればより愛することができ、また愛されることができるかについても考えています。
長財布購入はお金とのさらなる関係良好の第一歩です。
そしてそれは人間を愛し、愛されることと根源においては変わらないのだと思います。
みんカラに合わせた形でいえば、愛車を愛することと同義です。
それゆえに愛車から様々な良きことが享受される。
物質にも愛という媒介を通じた関係性が構築されうると私は確信しております。
Posted at 2012/01/10 21:21:34 | |
トラックバック(0) |
思索 | その他
2011年10月30日

承前。
https://minkara.carview.co.jp/userid/730895/blog/24302934/
以下は夢であることを基本的前提とする。
いや、というか夢そのものなのだが、「胡蝶の夢」の視座に立てば、はてこれは夢なのか現実なのかという気がしてくるのである。
とある夜のことである。
どういうわけか路面電車との併用車線を走っていて、上手い具合に路面電車の後ろにくっついて走っていた。すると、海岸線が見えてきて、灯りもともされていない真っ暗な海岸まで歩いていた。まったく真っ暗ではなく、オレンジ色の灯火が僅かに遠景に灯されている。
海岸の近くには切り立った崖があって頂上まで登った。頂上はフェンスで囲いがされていたが、構わずにフェンスを乗り越えると、そこは得も云われないほどに美しい大海原が展開される素晴らしい光景が展開されていた。
私は姿勢を反って、通常見える景色とは真逆からこの光景を眺めていた。
曇りがかったガラスの中の空間は、上に述べた海岸線に近い。
そこで、私は安らぎや落ち着き、いや、言葉では名状しがたい何かを感得したような気がした。
この感覚をどうやって言葉で表現すれば良いのだろうか。
私は先ほどとは別の海岸沿いに来ており、狭い空間の中でよく眠れたものだと感心していた。
やがて、朝になり徐々に暖かくなり、外へ出てみると実に素晴らしい海と空と山が一望できた。
そこで、私は海岸線に沿ってひたすら走ることにした。
漁り火ラーメンの味がする不思議な吸着物に触れながら、私は南国的な佇まいを見せる街を見ていた。そして、ひとしきりその南国的な明るい海を見ながら、やがて気分が変わったかのように山がちの地域に入った。
山岳地帯では割合とストイックなまでに無口であり、その理由はわからない。ただし、富士山がくっきり眺められたときに私は自分の僥倖を感じた。
そのあとはずっとずっと坂道を転がり落ちていた。
そして、私は何かの表情に好意を感じていた。この何かとはなんだったのだろう。
その何かはしばらく私の隣にいて、やがて不思議な吸着物に変化しながら、立ち去っていった。
その吸着物というのは、自分にとって明らかに快であり、元気をくれるものであった。
こんな感じの夢を見たので記しておく。
なお、画像はイメージ。釣り人についての記憶は皆無である。いや、何となく覚えているような気もするが。

Posted at 2011/10/30 21:18:20 | |
トラックバック(0) |
思索 | 日記
2011年10月27日

実に妙な夢を見たので、覚えている部分だけ紹介しよう。
面白い夢分析でもできるのだろうかという期待なども込めつつ。
明るい光を放つ物体が二つ停車していて、私は何枚も写真に撮った。理由は分からない。
二つの物体は、やおら動き始め、やがて闇の世界に入る。
闇の世界には篝火が焚かれてあり、古格ある建物の周囲は、橙色の照明に彩られていた。静謐そのものであった。
建物の中も件の橙色が暗い闇を仄かに照らしており、さらには、どういうわけだか湯治場があった。
茶色い塩っ気のする温泉に浸かりながら、縄文時代の世界がいまここに蘇ってきたような気がした。
縄文時代の土器や勾玉を思い出した。とても懐かしい気がした。
私はとても気分よく感じた。
縄文の夢から覚めると、座敷に座っていた。すると、間もなくいい香りのする女性が現れた。私は彼女に座布団を勧めた。彼女は私と対面に座った。
障子を壁に佇む彼女の姿がとても魅力的だった。
彼女は私が愛用している黒い手帳に自分の名前などを記していたりした。
それはとても愛らしいものであるように感じた。
名前以外にも、青い文字の色で彼女は何事かを記していた。
無機質で徹底的な工場群だけが周囲を包む。私は夜中にそんな空間を疾走している。私自身が光の一つだったように思える。
そして、少し後ろからひたひたと白に近い光が見えていて、私にぴたりと付いてきていたのがわかった。冒頭に停車していた二つの光が、今はいきいきと動いている。
黒い世界の中で。
なお、工場群に照射された明かりの折々は機能美を超えた人間の感情を揺さぶるような美しさを保っていた。
やがて、煌々と橙色の光が周囲を包み、先ほどの女性が再び現れた。
私は彼女の指の細さをじっくり観察しており、そっと握ってみた。とても白い指であった。
直に、私は彼女の舌の感触を味わった気がして、そしてそんなことを感じているうちに、私たちはとても狭い空間に折り重なって寝ていた。
最初は不調和だったのに、だんだんと調和していくような心持ちがした。
そして、そのまま一つの存在として溶け合っていく感じがして、そう思うといつの間にか眠っていた。
夜が明けた。
水色に覆われた秋空が一面に広がるなか、私は彼女の舌の感触と目線の魅惑に感情のすべてを委ねてしようと思った。
それでいいのではないだろうかと思った。
やがて、物体となった二つの光は連隊を組み、続いて、この二つの物体は互い違いとなった。私はそのうちの一つの物体と共にいることを確実に意識し、そこに至って初めて眼が醒めた。
こんな感じの夢を見た。
しかし、もしかしたら、その夢こそが現実で、いまこうして生きている自分がいると信じている世界が夢であるような気もする。
中国の賢人である荘子はある日、蝶々になって羽ばたく夢を見た。
やがて、眼を覚ましたが、荘子はふと考えた。
蝶になっていたときの自分は疑いもなく、自分は蝶だと認識していた。
もしかしたら、蝶がこの荘子である私という存在についての夢を見ているのかもしれない。
これを「胡蝶の夢」と古来よりいう。
私が見た妙な夢は胡蝶の夢のエピソードを思い出させる何かを持っている。
何が現実で何が幻想かという境界線の問題。
相対性の問題。
いや、そういうことを考えている理性ではなく、すべてを感情に委ねてみてはどうかという神からの誘いの声。
こうした声も私には聞こえてくる。

Posted at 2011/10/27 22:50:41 | |
トラックバック(0) |
思索 | その他