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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2014年02月22日 イイね!

本能寺の変についての興味・関心

本能寺の変についての興味・関心
昔からずっと疑問に思ってきたことがあって、なぜ『本能寺の変』は明智光秀単独犯行説が定説になっているのだろうということだった。
長年の主君への恨みとか、天下取りの野望が謀反の動機になってきたということが長年言われてきた(そういう面があったかもしれないが、後世に本能寺の変を扱う劇などにより、そうした考えが人口に膾炙したのだと思う)。
もっとも、最近では彼に密かに協力した人たちがいるという説も支持を集めているが。
朝廷・公家・茶人・元足利将軍・四国土佐の長曽我部氏、豊臣秀吉などなど。
ちなみに、私は単独犯行説をとらない。協力者はいたと思う。

一ヶ月くらい前に読んだ『本能寺の変 431年目の真実』には大いに納得できる点があった。因みに、著者はかの明智光秀と同族で、明智憲三郎という。
本書の内容は詳らかにはしないけれど、徳川家康も大いに絡んだということだ。秀吉も黒い面を持っている(これだけでも大いに内容を明らかにしているような気もするけれど・笑)。
さて、彼の論旨に従えば、天海が明智光秀であるという長らく語られてきたことや、光秀の重臣の娘の春日局の重用、二代将軍秀忠の息子家光の名付けの意味といったことが了解できる。また、細川家への厚遇などの謎も説明できる。
ただ、光秀が謀反を決行できるに至った動機については弱いような気がした。
家康が一枚かんだという説はもっと前から唱えられていて、図書館で読んだことがある。

光秀の謀反が成功したのは信長の油断だけではないだろう。
これについては本書以外でも述べられている著書がある。例えば、『本能寺の変「本当の謎』などがそう。
光秀は合法的に公然と信長の宿所である本能寺に行くことができたのだ。
だからこそ、信長の宿営所のすぐ近くにいた信忠の事変への対応が遅れたし、逆に光秀は信忠軍を同時に攻めるということをしなかった。



なお、信長は未曾有の改革主義者だった。だから、歴史の表舞台にも出ていない集団との結びつきも薄かったのではないかと思う。伊賀忍者への弾圧などがそれを示唆しているようにも思える。
信長の革新は必要だったと思う。しかし、改革主義者はその先時代性のために、やがて秩序と調和を志向し出した社会にとっては煙たい存在にもなり得る。
そういうわけで、本能寺の変というのは歴史的必然だったかもしれなく、私がこの事変に興味を抱くのも、そうした一事件に留まらない、大きな歴史としての必然性をこの事変に感じるからかもしれない。
Posted at 2014/02/22 09:15:02 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | ビジネス/学習
2013年03月16日 イイね!

家康が静岡にとどまった謎・辰巳の意味・大黒の謂れとは?

家康が静岡にとどまった謎・辰巳の意味・大黒の謂れとは?徳川家康はもともとは三河岡崎の小領主で、徐々に勢力を広げて、遠江や駿河など、今の静岡県の大多数を領有するに至った。織田信長と同盟を結びつつ、着実に力を蓄えていたけれども、本能寺の変で織田信長が倒れたあとは、豊臣秀吉の電光石火の政略の妙で、彼に先に天下取りを譲る形になった。後手に回ったともいえる。もっとも家康に当時天下取りの意志があったかどうかは微妙である。
とはいえ、家康は小牧・長久手の戦で秀吉軍を個別的戦闘で破っているし、秀吉も大いに家康の力を恐れた。
そのためであろう。
豊臣秀吉が北条早雲を開祖とする後北条氏の本拠である小田原城を制圧し、いよいよ天下をとると、家康は東海地方に領有していた領土をそっくり召し上げられ、代わりに後北条氏の勢力圏であった関東地方の大部分を与えられたのであった。
家康は唯々諾々とこの処置に従い、しかも小田原ではなく、当時は片田舎であった江戸を根拠地にすることに決め、盛んに街づくりをはじめた。
もしも、秀吉のこの処置が無ければ、或いは今頃日本の首都は駿府(静岡市)や浜松だったかもしれない。現に家康が天下を取り、悠々自適で隠居した後は、江戸は二代将軍の秀忠に委ね、彼は駿府に居を構えるようになった。
家康は東国に地盤があったから、旧敵国がたくさんいる西日本への備えとして駿府に自ら赴いたともいえるだろうが、それならば、駿府でなくとも浜松でも良かったようにも思える。どんな深慮遠謀があったのかは窺いしれないが、ともかくも大御所と呼ばれたご隠居家康は駿府を終の棲家とした。
実はその駿府(静岡市)に来ている。
ゆえに、書き出しを家康の関東への領地天封から駿河駿府での隠居生活という話題を持ってきたのである。たしかに、浜風も無く実に温暖な地ではあるが、なぜに駿府で隠居を始めたのだろうという疑問が湧く。
駿河の国の国府ゆえ、街は既に大きく発展していたから、華やぎはあっただろう。が、家康は派手好みではなかったとされている。ただ、商業経済に対する理解はあったと思われる。
だいたい、江戸幕府が鎖国を始めたのは家康が亡くなってから遥か後のことで、家康はむしろ海外との貿易を推し進めていた。
それはともかく、駿府に住んだ謎につき。
或いは江戸から南西の方向(裏鬼門)の方角にあたるため、ここを大いに重視したのだろうか。
久能山東照宮に遺骨を入れるように命じ、自ら権現(つまり神だ)として徳川体制を護ることを遺言したのだから、江戸との方位関係とそれに基づいた江戸守護・西国への防衛を考えていた節は非常に高いといえる。
また、彼の生まれ故郷の岡崎、駿府久能山東照宮、その近くにそびえる富士山(不死山)、江戸や日光との距離関係を鑑みると、非常に面白いことが浮き彫りにされるのだが、既にわかりやすい説明があったので、興味のある方は以下を参照されたし。
完璧な説明だろう。
天界僧上の家康晩年における権力は大変なものだったという。
家康神格化と神である東照大権現家康による護国思想に宗教的合理性を与えた功績は大だろう。
なお、東照大権現の「東照」はまさに東を照らすという意味であり、天照という日本の中心的神をも意識したように思われる。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114491381

江戸をやや著名にしたのは、室町時代の太田道灌だが、江戸時代に既に百万を超える当時世界一の人口を誇ったという江戸の基礎を作ったのは、やはり家康だろう。
ゆえに、我がクルマも東京にいる以上は、もっぱら舗道を走ることがほとんどなのである(牽強付会かな)。それにしてもいやはや、微妙な車高でしょう。



昨晩は首都高をクルージングしてきた。
ことにレインボーブリッジに程近く休憩に便利で眺望も良い辰巳パーキングの「たつみ」は、もろに江戸に関連している名称である。



昔は十二支を等分して、時間や方位を呼称していた。ちょうど、辰と巳が位置する方角が南東であった。現在の辰巳はまさに旧江戸城(皇居)から南東の位置にあり、ゆえに辰巳と称する。
ここへ来て、このようなことしみじみと考えたことはないけれど(笑)




大黒の由来は、七福神の大黒天から来たものだろうか。
大黒PA一帯は埠頭ゆえに、モダンで新しい横浜でもさらに新しい部類に入る(幕末まで横浜は横浜村という寒村だったそうだ。むしろ、東海道の宿場町があった現在の神奈川区に当たる神奈川のほうが発展していた)。
しかしながら、陸側鶴見区に大黒町という街はあり、こちらはさすがにハマの古参選手という観であろう。また、鶴見という名は源頼朝が名づけたともいわれ、そうなると相当に古い。
辰巳同様に、大黒にいながら、大黒の地名の由来についてあれこれ考えていたわけではないけれど、
インドのシバ神の化身マハーカーラが日本に伝わってくるまえに、早々といでたちを変え、日本に到来したときには、出雲の大国主神と習合し、大黒天とされ、やがては福の神(だから七福神のメンバーなのである)になったという辺りが面白い。
おそらくは大黒天から名づけられた大黒町に埠頭が出来て、ベイブリッジや大黒PAが出来て、いま賑やいでいるということに、面白みを感じなくもない。

Posted at 2013/03/16 02:55:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2012年09月06日 イイね!

本能寺の変のときに信長が「是非もなし」とツイートした謎

本能寺の変のときに信長が「是非もなし」とツイートした謎まだまだ未明の時分ながら、鳴り響くめざましの音に起こされたので、早起きは三文の得ということで、起きてこうして文章を認めています。

さて、皆さんは、信長が本能寺の変の勃発のときに明智光秀が謀反を起こしていたことを知り、「是非もなし」(仕方がない)と言いながら、火炎の中の帰らぬ人となったことは当然ご存知のことと思います。

しかし、信長の今までの数々の履歴を参照すると、いかに途方もない大軍に囲まれていたとはいえ、信長は是が非でも窮地を脱して、再起を図ると思うのです。
例えば、浅井の裏切りにより命からがら逃げ出した金ケ崎の場面などそうですね。
あっさりと家康を置いてけぼりにしてしまい、逃げてしまう。
まあ、こういう判断力の秀逸さが(信長が生き残り、陣頭に残れば斜陽の浅井や朝倉を倒すことは容易でしょうから)、英雄たる資質の一つなのでしょうから。
しかしながら、本能寺の変の際にはそうしたことは一切しなかった。
もう「仕方がない」といって観念してしまっているのですね。
私には信長の性格から勘案すると、ちょっと不思議なことのように思えます。
八方塞がりであったとしても、「光秀、この野郎、俺に不忠を働くか、貴様」と怒髪天を抜くごとく怒り(ちょっとは怒ったのかもしれませんが・笑)、そして自分が置かれている状況(多勢に無勢)を考えて冷静に行動したと思うんです。

明智光秀の1万3千の大軍が本能寺を囲むとなれば、観念するほかないとも言えるでしょうが、ここで明智光秀の軍勢というものに注目を払ってみたいと思います。

まず、1万3千の兵隊の規模が想像できるでしょうか。
私にはよくできません(爆)
しかし大軍勢であることは間違えありません。わが街(一丁目から合わせても明智勢には届かないかな・笑)
の人口よりも多いと考えればこれは凄まじい人数です。

ここで、わが街の人たちが、例えばまとまって行進している様を浮かべてみます。
片側三車線の大通りを塞いで行進したとしても、ものすごい長蛇の列になるのではないでしょうか。
まして、光秀の軍勢の場合、軍勢ですから徒歩の足軽などのほかに騎乗の兵隊もいるはず。

さらに、この時代の道路状況は現代とは異なり、道は狭く幹線道路でも整備状態は決してよくなかったそうです。
片側三車線程度の広さの道路というのはまずありえないと考えてよいでしょう。
また、雨により道がぬかるんだりするのは茶飯事。舗装がされていないのですから。

こんなことを考えると、京都の本能寺に襲撃を仕掛けるには京都の街を破壊しながらどんどん進撃するほかないと思うんです。
すると、当然信長はそれに気づきます。というか、これだけの大軍勢が長路行軍しているのですから、物見の一人や二人が信長に光秀軍のことを報告したはずなんです。
しかし、光秀軍は京都の街を破壊することなく、完璧なまでに本能寺を包囲し、信長を弑すことに成功しました。
この光秀の行軍に誰も気がつかなかったのでしょうか。誰もが見て見ぬふりをしていたのでしょうか。
ものすごく不思議です。

「本能寺の変」本当の謎(並木書房刊・円堂晃著)

上記書がそんな私の疑問に見事に答えてくれました。それは意外といえば意外な顛末なのですが、実に合理的な見解ですし、1万3千の大軍勢が本能寺だけを囲み(その後、信長の長男が守る二条城も襲撃します)、警戒心の強い信長を完璧に包囲したことに対する理由が、得心できます。
事件そのものを眺めるという著者の視座が見事に生かされています。

本能寺の変に関しては、私たちは共謀者の存在など、事件以外の要因を追求するあまり、光秀の大軍勢が見事に本能寺を囲み、信長を弑したという「困難な」事柄に対する説明ができなかった。いや、それすら意識していなかったのかもしれません。

私は少なくとも、本能寺の変が成功した理由については、著者の論に賛同します。
その他、なぜに信長がこういう状況に巻き込まれるに至ったかという状況については、今のところ判断然ねるのですが、著者の説明には説得力がありますね。

全国一万三千の本能寺の変考察ファンの皆さま(マテ)
の中には本著の見解を既にご存知の方もおられるでしょう。
しかし、本著の見解は本能寺の変を論ずる際の多数にはなっていませんよね。
といって、本著がトンデモ本であるとは思えないのです。
非常に合理的に導き出された論拠がある。
少なくとも私はモヤモヤしていたものが一挙に晴れた感じで、読了後は勇んでテニスとドライブに行ってきたくらいです(笑)

おっと、タイトルに関する回答をここで示すと、本著の内容のネタばらしにもなるので控えておきます。
ただ、「是非もなし」と思わず述べてしまうほどの状況で本能寺の変が遂行されたということが本著では記されています。ですので、これは本著に興味を抱いた方に対するある種のヒントです。
ネタばらしができないのは、「是非もなし」ですよね(笑)
Posted at 2012/09/06 05:03:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 趣味
2012年08月28日 イイね!

ナナジュウネンダイノニッポン

ナナジュウネンダイノニッポン
資料的な価値は抜群だと思うのですが、如何でしょう。
よくぞ70年代の庶民の日常をカラー映像で記録していたものだ。



なんだか両親の若かりし頃の顔が蘇ってくるかのようです。
母親と一緒にバスに乗って、運賃表を見ていたのを覚えています。
当時はバスの初乗りが90円だった記憶があります。
デジタルではなくアナログ表記の運賃表でした。

もう一つ述べるならば、この映像に出てくるクルマがおしなべて懐かしいですね。
今現在もやがて時を隔てて、いま70年代に対して思い馳せるように懐かしく思う日が来るのでしょう。
Posted at 2012/08/28 09:25:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 音楽/映画/テレビ
2011年07月30日 イイね!

誰が信長を殺したか? ~本能寺の変は突発的な犯行なのか~

誰が信長を殺したか? ~本能寺の変は突発的な犯行なのか~
1582年に本能寺にて無念の死を遂げた信長を虐げた明智光秀の犯行の黒幕について考えています。
様々な書籍を紐解いてみても、今のところは光秀突発犯行説という線が濃いかなと思っています。

しかし、もしかしたら天皇家の関与があったかもしれないとも思っています。
資料に明確に残ってはいないけれども、天皇家とて信長の伸長に対して快く思っていなかったはず。おそらく、本能寺の変が無ければ、信長は天皇を超越した神として君臨していたでしょう。近年、採掘が進んでいる安土城趾の構造予想図などを見ていると、そのような感じます。
信長は絶対君主的な超越者として「神」を目指していたことは確かなような気がします。
天皇という権威すら超越した存在を志向していたように思えるのです。それはとても革新的なことでしたが。
もっとも、神になるという思想は家康において完全に根付きましたね。東照大権現という神様に家康は死後になりました。江戸時代の間は、家康は神として君臨していたのです。皇室の氏神が天照(アマテラス)ですよね。関東の地から神として君臨するから、東照と見なすこともできるでしょう。
それが統治の上でも役立ちました。江戸幕府が極めて優れた統治機関だったことの一つには、家康の神格化もあると私は考えます。

さて、朝廷黒幕説に話を戻しましょう。
天皇家に極めて近い細川家に仕えていた明智光秀という存在がここで浮き彫りにされてくるのですね。
信長というのは非常に用心深い人物で、万が一のことがあってもなりふり構わず一人でも逃亡してしまうある種の勇気を持った英雄でした。それがなぜこんなにも無防備な状態で、しかも逃げることすら叶わなくなったのか。
この点が不思議なのですね。
皆さんはどう思われますか。

私は秀吉が怪しいと考えていました。
本能寺の変以後の対応があまりにも素早すぎると考えていたからです。
その可能性は未だ捨て切れていませんが(安国寺恵瓊の存在も気になります)、





Posted at 2011/07/30 00:19:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域

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「馴染みのたこ焼き屋で談笑したのち、立川の市街地からかなり外れた箇所にある西武立川駅来訪。堤王国の残滓を堪能するために。なんでこんなに閑散とした場所が立川駅なのだろう?
絶版間近のチャンピオンイエロー4(スイスポ用語ですね)電車がまだまだ走っていたのは嬉しいところ。」
何シテル?   10/07 10:09
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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