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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2011年04月08日 イイね!

いざ鎌倉 高徳院大仏編 ~実は謎めいた鎌倉大仏~

いざ鎌倉 高徳院大仏編 ~実は謎めいた鎌倉大仏~
鎌倉の名刹長谷寺のほぼ真向かい辺りの位置に高徳院はある。
長谷寺を探訪したあとに、当所に立ち寄った次第である。
いざ鎌倉 長谷寺編

境内はほかの鎌倉の著名な寺に比べると狭く、地味な印象を受ける。
ただし、観光客はひっきりなしに訪れるのは、言わずと知れた鎌倉の大仏
が鎮座されているからである。

大仏を建立する理由として、
1)仏道による加護を求める
2)仏道への崇敬の心
3)巨大建造仏を造成することによる権力の誇示
などが考えられるかもしれないが、
私は日本の大仏というのは、
4)怨霊封じのために大仏の偉大な力を使う
という要素も多いように思える。

奈良の東大寺では莫大な国費を消費して、世界に冠たる大仏殿を造営したが、
時の帝の聖武天皇がよほどの浪費好きであったという話は聞かないし、相次ぐ天災や飢饉を逃れるために仏法にすがったのだろう。
ただし、日本の場合、天災や飢餓は不慮の死を遂げたものが祟りを起こすことによって生じると信じられていたことにも留意したい。

平安期に菅原道真が大宰府に左遷され、やがて不慮の死を遂げたのち、京洛では要人の死や落雷など数々の悲劇が起こり、人々はこれを道真の祟りであるとした。したがって、道真を神として祀ることで、逆に私たちに益することをしてもらおう(こうした発想を御霊信仰という。祟りを起こしている死人を厚く敬えば、
その死人は逆に私たちを加護してくれるという日本固有の発想である)と考えたのであろう。

さて、聖武天皇の場合は古来の神道ではなく、当時は真新しかった仏教に救済を求めていたように思える。仏道への篤心も高かっただろうが、この時代の仏教は学者である僧侶が務めるような国家による仏教で、後の世のように念仏を唱えれば救われるだとか、禅による解脱といったことはまだまだ生まれていない。
(ちなみに念仏を唱えれば救われるという発想は日本仏教独自のものである)
もちろん、聖武天皇は当時の人間として、怨霊の存在にもおびえていただろう。ゆえに、東大寺の巨大な大仏殿を造ったのであろうというのが推論の一つとして考えられる。

この考えを補足するものとしては、その後奈良の大仏があっけなく捨てられ、都が平安京に移ってしまうことである。
当時、力をつけてきた奈良の寺社勢力の影響を逃れるためという説明もあるが、
それならば、なぜ平安京以前に築営された長岡京はあっけなく捨てられたのか。
確かに、平城京以前では遷都は頻繁にあり、首都という発想におよそ乏しかった。だから、平城京はいささか長命したけれども、やはり御座所を遷すという発想
が残っていて、それゆえに長岡京や平安京に移動したと考えられなくもない。
ただし、平安京に遷都してからはご存知のとおり千年以上のこの国の都であった。
とするとやはり疑問は残る。
平城京(大仏)はなぜかくもあっさり捨てられたのだろう。
たとえば、聖武天皇が秦の始皇帝のような独裁者であり、それを革命により殲滅する。こういう原理に基づくならば、聖武天皇の権力の象徴とも解釈できる大仏殿が見捨てられるということも考えられるが、日本の歴史では大掛かりな政権交代はない。諸外国であれば、大仏どころか平城京自体にも火をつけて滅ぼしていたことであろうが、聖武天皇崩御ののちもしばらく平城京は天皇がまします都だったのだ。

だから、やはり大仏建立というのは聖武天皇の純粋な宗教心の発露による仏法を利用しての国家鎮護であり、加えて祟り封じのための宗教装置だったと考えるのが今のところ適切だと思う。

さて、前置きが長くなったが鎌倉の大仏についてはこの怨霊思想というものが当てはまるのかどうか実は疑問である。
鎌倉大仏の創建自体も謎めいた部分が多いのだが、まず鎌倉時代の実質的な政権担当者は幕府(武士)である。
そもそも武士というのは怨霊という思想に関しては天皇や公家に比べると薄い。
なぜならば、戦闘行為で殺生を行うのが常で、怨霊を怖がっていては武士という存在自体成立しない。
また、天皇や公家において特に怨霊思想が膾炙していたとすれば、東国では怨霊に対する恐怖というのは若干薄れるのではないかとも思う。
ただ、鎌倉幕府の創健者の源頼朝は源氏という名門の御曹司であり、京都の文化も味わってきた(その後、平家の隆盛とともに、実に長い時間を伊豆の離れ小島で過ごすことになるわけだが)。
ゆえに、頼朝には怨霊に関する恐怖はあったかもしれず、彼の異常なほどの信心深さ(毎日、読経を欠かさなかったという)は、もしかしたら怨霊への恐怖かもしれない。

ただし、言い伝えによれば、頼朝が死去して北条執権体制が確立されてから鎌倉の大仏は創建されたのだから、頼朝の意思が鎌倉の大仏に反映されているかどうかは疑問である。それではなんのために大きな大仏を作ったのだろう。
鎌倉の大仏は何度も倒壊している。その都度、再建されてきた。
京都(朝廷)に対する対抗心からであろうか。

もともと鎌倉の大仏には東大寺と同様、大仏を覆う屋根が被さっていたが、度重なる倒壊でついに屋根は再建されることなく、今日に至っている。
上屋がなくとも、確かに大仏そのものは鎮座していると考えれば、いかにも武士らしい合理精神の発露とも考えられなくないが、今もって、鎌倉の大仏が建立された理由を明確にあぶりだすことができないでいる。

実は非常に謎めいているのが鎌倉の大仏なのであった。
機会があれば拝観されたい。









Posted at 2011/04/08 18:28:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2011年03月27日 イイね!

いざ鎌倉 長谷寺編

いざ鎌倉 長谷寺編「いざ鎌倉」と勇ましい気概をもって、一路鎌倉を目指したわけでもなく、代々木で朝食を摂りながら、ゆっくりと古都を目指した。
鎌倉という街は学生時代に夜な夜なドライブにて訪問したことはあるが(峠があるゆえに)、思えば、古都を偲ぶといった風雅なことはしばらくしていないことに気づいた。
そこで、震災後になり、ようやく落ち着きを取り戻した記念に、鎌倉に向かったのである。走行距離も震災後の二回の走行ではいずれも五キロくらいだったので、鎌倉に向かうだけで、その十倍以上は走行したことになった。

さて、今回のブログは長谷寺編ということで、長谷寺に焦点を絞ろう。いや、いつもどおり脱線することは想定しているが、一応の目安として。

長谷寺は鎌倉でも著名なお寺で、市街地からやや離れた地にありながらも、観光客で賑わっている。大仏が鎮座している高徳院に近いことも大きいだろう。


折々の自然に彩られている素晴らしい寺院である

創建は奈良の長谷寺と同様、徳道上人・藤原房前(ふささき)(!)といわれている。
平城京に都があった時代(奈良時代)であり、相当に歴史は古い。
ところで、なぜ、当時ヤマト(奈良)からみて僻遠の地にあった鎌倉に長谷寺が建立されたのかは謎である。鎌倉というか東国一般は九州や近畿に比べれば、
本当に僻遠の地だった(近年はそれに異を唱える説も出始めてはいる)。



一応の説明はある。
721年に徳道上人の本願により、一本の楠の霊木から刻まれた二体の観音像のうち、一体を大和の長谷寺の本尊とし、残る一体を開眼供養の導師を務めた行基(!)により、海中に投じられたという。
それが、相模の国に流れ着き、尊像を鎌倉に遷座したということになっている。
近畿地方から相模まで木が流れ着くものなのだろうか。

さて、藤原房前が気になる。
645年の乙巳(いっし)の変において、天智天皇となる中大兄皇子とともに、蘇我入鹿を殺害したクーデター(どちらかといえば、その後の天智天皇の改革といわれている「大化の改新」の名で有名だろう)にて歴史上に登場する中臣鎌足(藤原鎌足)の孫にあたるのである。
鎌足自身も実のところ出自が定かでない人物で、中臣一族は東国出身であったとも言われているし、鎌足は朝鮮に当時あった百済の皇太子であったのではという説さえある。
その孫の房前が、東国の鎌倉にて長谷寺創建に関わったというのは非常に興味深いことである。
また、行基に関しては、彼は奈良の東大寺の大仏創建でも力を発揮した私度僧であった。つまり、国家公認の僧侶ではなかった。奈良時代では、僧侶は国家の公認する国家資格であり、行基のような僧侶は本来は認められていない。
しかしながら、長谷寺に関わらず、行基は実に各地のさまざまな寺の創建に際して名前が出てくる。彼は一体何者なのだろうか。

こうした古代のロマンに浸るのも楽しいが、あくまで長谷寺境内は
風景明媚で静やかな土地である。
鳥が池に佇むのどかな風景は、後背に迫る山とのコントラストを通じて、さらに美しく縁取られているかのようである。



この長谷寺は山裾がちょうど山門(入り口)になっていて、本堂に向かうためには階段を使わなければならない。その階段中腹にあるのが、地蔵菩薩の大群である。地蔵菩薩とは、もともと極楽浄土(阿弥陀如来が住んでいるところ)の仏たちの元で、自身も菩薩となって、私たちを見守ってくれる存在で、道に迷った衆生を助ける存在であるとともに、子どもを救ったり、早世した子どもが無事に極楽浄土に辿り着けるように手助けするとも言われている。



ちなみに、右手に持っている杖を錫杖(しゃくじょう)といい、山野をめぐるときにこれを突くことで、毒蛇や害虫から身を守るという。
なお、長谷寺の十一面観世音は錫杖を持っている点で独特である。
また、左手に持っているのが、宝珠(ほうじゅ)といい、災難を除き、願いをかなえる力をもつ珠とされている。
地蔵さんならば、皆さまのご近所に一体はあるだろうから、今度観察してみると面白いかもしれません。
なお、このたくさんの地蔵菩薩は千体地蔵といい、この世に生まれることのできなかった子どもたちのために供えられているとのこと。

さて、さらに階段を登ると、いよいよ本堂(観音堂)や阿弥陀堂が見える。
以前のブログにも記したが、阿弥陀如来とは、もともとわれわれと同じく解脱をしていない俗人であった。阿弥陀が修行している際に、48の誓いをたてたといわれ、その18番目の願いが、念仏をする人々を必ず救済するということであった。
ゆえに、われわれはいまでも「十八番(おはこ)」という言葉を使ったりするが、由来は阿弥陀の誓いにあるのだろう。
他者を救済するという思想はもともとの釈迦仏教にはなく、阿弥陀の18番目の近いはそういう意味で、仏教の教えにコペルニクス的な転回を与えた。
もっとも今でも釈迦の当時に近い個人単位での解脱を目指す一群も強く上座部仏教と呼ばれており、東南アジアで盛んである。また、解脱の道は一部に限られているとする宗派もある。
対して、大乗仏教と呼ばれる仏教思想は、人は誰でも解脱して仏になれるということを核としており、念仏を唱えることで極楽浄土に行けるという発想は大乗仏教的な考えに由来している。念仏称名が極楽浄土につながる発想は日本独自のものであるが。
なお、浄土とは仏が住まう場所であり、実にたくさんの浄土があるが、阿弥陀如来の住む浄土のことを、極楽浄土という。このことは先に触れた。
長谷寺にある阿弥陀如来像は源頼朝(鎌倉幕府創設者)が42歳のときの厄除けの際に建立したとされており、厄除阿弥陀とも言われている。

本殿に歩を進める。
高さ9.18メートルもある巨大な十一面観世音菩薩が長谷寺のランドマークだろうか。その黄金色に光った高貴な姿に手を合わせる老婆もいた。
写真撮影は禁止ということだったので(厄除阿弥陀もそうだった)、手元のボールペンでラフにスケッチしてみた。実際はもっとふっくらとしていて、富貴の相である。また、威厳に満ちており、スケッチにあるようににやけてはいない。



さて、十一面観世音菩薩という珍しい名前の由来だが、尊顔の上に十一の顔がひっついていることから名づけられている。
十一とは「たくさん」を意味する。なぜなら、指先で数えられるのは十まで。十一までは再び指を折らねばならない。そこで象徴的に十一をたくさんあるという意味で用いるようになった。
なぜ、そんなに顔が必要かといえば、いろいろな方角を見渡すことができるからである。視野を広げて、いろいろな人々の願いを聴くためにこれだけの顔を持っているのだ。
なお、観世音菩薩の観音とは、皆の願いや思いの声(音)を自在に観る(聞く)ことができるから、観音というのである。
ところで、観音扉という言葉があるが、あれはなぜにそう呼ぶのだろう。
それはともかくとして、長谷寺の十一面観世音菩薩は地蔵菩薩が持つ錫杖をも持っているため(先述したが)、地蔵菩薩の力も兼ね備えているということになる。

さて、本堂まで登りきると相当の高台にいたることが理解できる。
眼前に鎌倉の家並みが見え、そう遠くない位置に相模湾が見える。実に眺望が優れた場所なのである。



さらに、もう一踏ん張り登ると眺望はさらによくなる。鎌倉と外部を隔てる山の頂に非常に近い場所に至る。鎌倉に来たならば、高台まで来なければ。
そう思うひとときである。



ここで再び、観音について考えてみたい。
これまた撮影禁止の秘宝なのだが、観音三十三応現身立身像という数十個(三十三あるのかどうかは確認できていない)もある像が一斉に立ち並んでいる。鬼の形相をした像もいれば、貴人のようないでたちをした像もいれば、いかにも仏らしい姿をした像もおり、これらが並ぶさまはさながら兵馬俑(始皇帝の墓から発見された馬や兵士を模した大量の人形群)を彷彿させるが、思想的にはこちらが断然優れていると思う。
これらの像は実は皆、観音菩薩の姿なのである。
観音菩薩は天上界・人間界・地獄界・餓鬼界・畜生界など、その世界に合わせた姿をして、そこにいるものどもを救済すると言われている。まさに変幻自在の存在であり、「あの人は観音様のようだ」と人が言うとき、人は無意識に観音を意識しているのみならず、観音の変身した姿そのものを観ているからこそ、こうした表現が口に出るのであろう。

長谷寺にはまだまだ見所があるが、ひとまず冒頭の鳥が池に佇む山門まで降りることにする。岩窟がある。



弁天窟と呼ばれ、岩窟内に弁天を模した石像や弁天に奉仕する童子が鎮座している。身をかがめながら岩窟奥に進むと、そこらじゅうに小さな弁天像が置いてあり、ジオラマでも見ているような気分になる。
なお、弁天(弁財天)とはもともとはインドの神であった。
弁財天を含む、七福神は恵比寿以外はすべてインド(弁財天・毘沙門天・大黒天)と中国(布袋尊・寿老人・福禄寿)が発祥であり、現在のように福神を参拝するようになったのは江戸時代になってからのことである。
長谷寺には大黒天の像も置いてあるが、日本に伝来した頃は今とは異なり怖い顔をしていたという。
それが出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)と同体であるとする考えがいつのまにやら広まり、いつのまにやら福をもたらす極めて親しみやすい神となった。
大国主命については、出雲大社に祀られた存在でヤマトに滅ぼされた出雲族の主ではなかったかとも言われているが(いわゆる「国譲りの神話」としてほのかに伝えられている)、今はさておく。

弁天である。さまざまなご利益があり、これは現世利益が盛んだった江戸時代の影響と見られるが、特徴的なのが、芸事や財宝に関する神様として認知されたことであろう。だから手に楽器を抱えているのだと思われる。
財宝に関する神様だから、銭を水(それは日本では穢れを落とす清浄な空間である)に入れるような慣習も生まれたのだろう。それならば、同じく財宝(と長寿)を扱う福禄寿については、銭を水に浸す習慣が無いのはなぜだろうという話にもなるのだが。

なお、長谷寺近くの御霊神社にて福禄寿は祀られている。
ここでは御霊という言葉に注目していただきたい。
日本は古来より怨霊という死者の祟りを恐れた。その恐れの克服としてついに平安時代に、怨霊をきちんと祀れば逆に人間を救ってくれるという思想が発達した。これを御霊(ごりょう)信仰という。
京都の御霊神社が有名だろう。
それが、なぜに福禄寿と結びついているのかはわからないが、日本という国はこのように謎に満ち溢れていて、楽しい国だなとつくづく思う。
いい意味で、いろいろなものを取り入れ、改変してきたために、もともとはなんだったのかがわからなくなってきている。
ゆえにこそ、謎解きとしてはこの上なく面白い風土なのだ。
もっとも、和を尊んだり、言葉が現実化する(言霊)を信じるという点で、現代日本人は今でも万古不変の思想(宗教)を保持しているとも考えているが。

時代を遡る。
江戸時代では、流行神(はやりがみ)と呼ばれ、流行のようにどこぞやに何々のご利益があると聞けば、皆が競って、それを拝んだ時代であった。こうした残滓が今にも残っている。
なお、鎌倉の隣の藤沢市に位置する江ノ島神社が弁財天を祀る社としては有名である。
江戸期以前も日本の思想風土はごたまぜを許容する文化であったが(たとえば、日本古来の神道と仏教を合体させた神仏習合など)、江戸期になり庶民の欲求が俗世的になり、ますますごたまぜになり、高度な形而学を持つキリスト教などの宗教に比べ、自分たちには宗教がないと考えてしまう傾向が加速化したように思える。ただ、無宗教と呼ぶことにためらいを感じるのは、以上に述べた事情ゆえであろう。

長谷寺は単純に景色を楽しむだけで満足できる素晴らしい場所だが、仏教にせよなんにせよ、歴史的知識を多少持っているとさらに楽しさが倍増するであろう。
そして、十一個の顔を備えた奇妙な観音の姿の意味合いなどもわかるようになり、その意味付けの合理的説明の見事さに驚嘆する場合もあるだろう。
私自身は日本の宗教というものについてよく知らなかった。ほんの二年ほどのことである。元来、寺社が好きだったわけではない。
ところが、宗教について学んでいくうちに、寺社に行くのが楽しみになった。
ついでに宗教という人々を魅了する価値観を生み出す社会に興味を持ち、社会の連続体である歴史にも興味を持つようになった。
正直に言えば、鎌倉は自動車のドライブとしては適地とは言いがたい。
鎌倉市街に入る道が限られており、市内の駐車場は東京ばりに高い。
ただ、それでもドライブする価値があると思えるようになったのは、自分自身の上に述べた関心のあり方によるものであり、その点、私は非常に恵まれている。
地蔵菩薩や阿弥陀如来、観世音菩薩たちに加護されているのかもしれない。
少なくともそういう風に考えることで、私は過去から蓄積されてきた人間の思想という智恵とつながることができると思っている。
Posted at 2011/03/27 01:39:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | クルマ
2011年03月20日 イイね!

春散策 梅・菜・桜花鑑賞ほか日蓮寺院や鍋島家邸の残滓から進める歴史小話など 

春散策 梅・菜・桜花鑑賞ほか日蓮寺院や鍋島家邸の残滓から進める歴史小話など 過日、妻とぶらぶらと散策してきた。
非常に喜ばしいことに、この連休中は非常に暖かく、コートを脱いで散策するほどであった。
下記リンクに散策先で撮影したもののうち、特に春を象徴する梅や桜などの花々の写真を中心に収めておいたので、ご参照あれ。

芽吹いて咲いた 待ち焦がれた春
http://www.myalbum.jp/pc2/album/Albm_Dspy.aspx?albumID=8cba0fcb826d


さて、まずは画像をご覧いただき、一抹の癒しとなればなどとも考えたのだが、
せっかくなので、補足的に文章も書き記す。
ただし、主題をなるべく絞ってお話する。ただし、表現に面白みをつけるために、
余話も挟む。

まずは、散策の折に立ち寄った日蓮宗の寺院について、若干の説明をしよう。
日蓮宗の熱心な信徒だった宮沢賢治の「アメニモマケズ・・」の有名な詩文などが境内に掲示されている。また江戸時代の町人の学問と呼ばれた心学を学んだ人間のお墓などもある。大きな松の木が正門近くに鎮座している心強い寺院で、日蓮上人の力強い生きざまと似ているような気がして、面白い。

明鏡止水の境地か

また、「南無妙法蓮華経」と記述されている巨大な記念塔(日蓮生誕800年を記念して建立されたもの)などが、いかにも日蓮宗らしい。
ちなみに、もう一つ立ち寄った寺院は禅宗のお寺である。鴨が泳いでいる池の写真がそれにあたる。

日蓮宗というのは、法華宗ともいい、おおまかにいえば「法華経」の教えを尊ぶ(この点は天台宗も同様。天台宗は「天台法華宗」という)。
いや、というより法華経の教えを唯一のものとする。さらに、日蓮という強烈な個性への信心を基盤としている点で、やや日本離れしているかもしれない。信仰が他の異質なものと混合され、なんとなくあいまいになることもなく、思想が生のままに純化されている。ユダヤ教などの一神教的な雰囲気に近いものを感じさせる。
そうそう。この法華経(「妙法蓮華経」)に帰依する(「南無」)から、日蓮宗徒は「南無妙法蓮華経」と唱えるのである。
因みに、阿弥陀如来に対する念仏を唱えるだけで、善人や悪人を問わず往生するとしたのが、親鸞の開いた浄土真宗であり、こちらでは念仏の言葉として「南無阿弥陀仏」と唱える。京都の東西本願寺で有名な日本仏教最大の宗派である。
マメ知識として覚えていただければと思う。

さて、このお寺の面白い点(歴史的観点から見て興味深い点)を今一つ。
リンク先の左手奥の木造和式建物がそれにあたる。

木造和式建物

実は大変由緒がある建物なのである。
もともとは東京の麻布にあった旧鍋島家邸にあった建物である。
明治37年に築造されたもので、当地には対象2年に移管されたという。
長らく庫裡として利用されていたが、平成7年以降は客殿として利用されている。
そう、貴重な明治の建物であるばかりか、未だに現役なのである。

より往時の事柄を想像できるような話をすれば、
華族鍋島家(江戸時代の「藩」が崩壊してからは、大名家は「華族」と呼ばれるようになった)では、この和風の佇まいのままで、天井の高い大広間に椅子とテーブルをしつらえ、洋式の接待をしていたという。
その辺りが、いかにも文明開化後の近代日本という感がして面白い。
鹿鳴館の饗宴ほどどぎまぎした感は受けないが。

鍋島藩とは肥前(今の長崎や佐賀)の大部分を収めていた藩で、長崎にて英国船が乱入し、なすすべもなかったフェートン号事件のとき以来、この藩は日本でもっともはやく近代化を目指した。
近代化は主に軍需に向けられており、当時有数の性能を誇るとされていたアームストロング砲なども自前で生産するようになった。
また、西洋の学問を大いに推奨し、落第したものに対しては石高(つまり財産)を大幅に削るなどの凄まじいまでのスパルタ教育を藩内に施した。
この肥前出身で今の早稲田大学の創設者の大隈重信などは肥前藩の優秀な人物であったが、そうとうこのときの様子を愚痴っていたようである。

なお、これらの政策を実行したのが鍋島閑叟(直正)という大名(殿様)であり、薩摩や長州などの官軍が幕府軍に大勝したのは、この肥前鍋島藩の最新軍事技術によるものとされている。
たとえば、上野の彰義隊との闘いでも、アームストロング砲は大いに威力を発揮され、これが官軍大勝利の帰趨を決めたとも言われている。
もちろん、長州の大村益次郎の指揮によるところも大きい。
大村はもともと町医者であったが、幕末の長州(いまの山口県)は、身分を問わずに人材を登用するという風潮があった。伊藤博文や山県有朋なども身分としては低かった。この点で、長州というのは脱封建的だったのである。その理由となるものについてはいくつか考えられるが今は割愛する。ひとまず、関ヶ原の戦いと馬関戦争での敗北が大きいのではとだけ申しておく。

といった事共を深く思案して散策したわけではなく、途中で無人野菜販売所で大きな蕪を買ったり、梅や菜の花、桜を鑑賞したりと、どちらかといえば、ほのぼのとした散策であり、春の訪れを楽しむというたぐいのものであった。
ただ、歴史なら歴史に関する知識が多少なりともあれば、散策の深み、いや、そこまで難しく言わなくとも、楽しさが高まるのだなということがよくわかった、非常に充実した散策であった。



Posted at 2011/03/20 19:24:51 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2011年02月23日 イイね!

歴史

歴史ペリーが黒船で来航したという事実はほとんどの人が知っている。
けれども、そのほとんどの人は、ペリーの来航が突然のことであったと思っている。
ところが事実は異なる。
これ以前から、アメリカ合衆国は日本人漂流民を搭載し民間船で来航したり、強硬的な手段ではない浦賀への入港を行っている。
ところが、当時の幕府は民間船を打ち払おうとし(大砲技術がお粗末であったため、打ち落とすことができなかった)、その後の使節に関してもきわめて傲慢に交渉を拒絶している。

歴史というものが、何やら唐突に見えるというのは幻想であって、黒船来航にしても必ず伏線がある。民間船での来航では攻撃され、その後の平和裏な交渉も不調に終わった。ゆえに、ペリーの浦賀来航が政策として実現されたのだ。
また、アメリカがなぜ鎖国している日本と交渉しようとしていたかということについても考えることが必要だろう。たとえば、イギリスが交渉を求めてきたとすれば、開国しても、おそらくアヘン戦争のような展開になっていたのではないかと思う。
アメリカとイギリスの違いは何か?
こういうところを考えるのが歴史を考察し、様々な事象を有機的に結び付けるのに必要な作業だと思う。

また、幕府のにべもない対応についても、幕府なりの思想的見解があったということも勘案しなくてはならない。この時代、国学や朱子学の隆盛により、尊皇攘夷の思想が高まっていた。夷である外国と交わることはそれだけでけがらわしいのである。
このような思想がかなり受け入れられたし、面白いことに尊王攘夷思想が結果として、明治維新実現に結びついたという点についても思い馳せるとよいかもしれない。ヒントは尊王主義にある。

人間社会のあらゆる出来事は「Aである」とか「これはBだからCなのだ」という具合に簡単に決められるものではなく、複合的な要因により生じる。
この複合的な要因のひとつひとつを研ぎほぐしていくのが、歴史の面白さでもあろう。
そして、歴史を知る者は、事象の複合性を知っているがゆえに、そう簡単にメディアのニュースなどに接して、金太郎飴のような個性のかけらもないような批評などをしないのである。
歴史というのは過去のことを回想して楽しむだけの用途ではなく、深く人間社会や存在の本質をじっくりと見極める姿勢を養う上でも役立つものだと思う。

Posted at 2011/02/23 19:15:49 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 趣味
2011年02月02日 イイね!

崇徳の祟り ~歴史をみるときに考えさせられるもの~

崇徳の祟り ~歴史をみるときに考えさせられるもの~
歴史というものはとても不思議なもの。
過去からの連続によって、私たちは生きている。
だから、ごくごく形式論理的にいえば、過去を辿っていけば、歴史という過去の空間のことは全てわかるはずだ。
しかし、実際に歴史はそんな単純な因果律で動いてはいないし、歴史に対する解釈も時代・地域・個人によって様々だ。
この点、数学のように万人に共通して納得される「解」がないのが、歴史の難しさでもあり、また、面白さでもある。
もっとも、数学にしてもパラダイムシフトという形で、既存の学問体系があっという間にひっくり返されることがあるのだが。
たとえば、非ユークリッド幾何学によって、絶対に交わることのない二つの平行線は交わっていてもおかしくないとされた。
これは空間のゆがみとも関連する難しい問題なので、私はスルー。
ともあれ、本当に俄かに実感できないのだが、自然科学においても絶対的な基準というものは無くなりつつあるのが現状だ。

歴史学は証明行為がしにくい学問だし、論証したとしても新たな遺跡や文献の発見等で、説は容易に覆される。
それでは時代を遡った古代の歴史となると、これはもうほとんど推理の世界といっても過言ではなかろう。
古代史学に通暁されているジムニー魂さんのブログを拝見して、その感を強めた。

もっとも知識が多ければ推量もしやすくなるし、いかに古代という遥か昔のことであっても、何がしかの歴史的事実を掬い取れることは確かだろう。
平城京は確かに奈良にあったのだろう。奈良の大仏は聖武天皇の発願により、
造営されたのであろう。
しかし、なぜ聖武天皇は大仏を造ろうとしたのだろうか。
彼が敬虔な仏教徒だったのかもしれない。
それも一つの回答だろう。彼の時世にはごくごく権力者のうちのものであったけれども、仏教は普及していた。
でも、奈良時代頃には既に存在していたとされる怨霊信仰というものを知っていれば見方はまた変わる。

怨霊信仰といえば菅原道真が有名だろう。不慮の死を遂げたものが祟りを起こすという考え方だ。聖武天皇が怨霊を封じ込めるために大仏を利用したと考えれば、それだけ視座が増す。
 
崇徳上皇という悲劇の上皇がいた。
日本史の教科書で有名な保元の乱で敗れた上皇である。
以上おしまい。
でもいいのだけれど、崇徳上皇はその後どうなったかを知ると、より視座が深く広くなる。
崇徳は讃岐の国に流された。そこで後鳥羽は仏教に傾倒し、写本を書いて京のお寺に納めて欲しいと述べたという。
ところが、保元の乱の勝者の後白河天皇は、「この写本には、呪いがかけられているんじゃないのか」と疑い、写本を付き返した。
激昂した崇徳は、舌を噛み切って写本に

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
(つまり、天皇中心の国家体制よ、ぶっ壊れてしまえという呪詛の言葉である。この呪詛は武家政権が成立したことで達成されたと言える)

「この経を魔道に回向(えこう)す」
(自分の書いた経を仏ではなく、魔にささげたのである。何たる執念)

と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、そして、生きたままに天狗になったとされている。
話はこれで終わらない。
実は明治天皇や昭和天皇までもが、崇徳上皇の墓を詣でて慰霊している。
まだまだ怨霊に対する鎮魂が行われているのだ。
私たちも、不慮の死を遂げた人が化けて禍を起こすことに生理的な恐怖心を感じたことはないだろうか。
これは、日本独自の怨霊信仰がいまだに残っているためであると私は考えている。

崇徳上皇の話が長くなった。
歴史とは無数にある過去の集合体であり、ごくごく一面的な見方だけでは、過去の世界の息吹に触れることは難しいだろう。
マルクス主義史観のように、原始共産制が封建制になり、やがてブルジョワジー支配の社会が訪れる(最終的にはプロレタリアートたる労働者独裁の共産主義社会が実現するというのがいわゆる発展段階説)というように直線的に発展するほど、単純なモデルではないと私は思う。

崇徳の呪いがごくごく現代まで残されていたことだけでも、私たちのほとんどは知らない。しかし、その呪いという事柄を忘却してしまえば、聖武天皇がなぜ大仏を建立したのかについて深い考察は得られない。
菅原道真は不慮の死を遂げて祟りを起こしたなんて、昔は大変だったんだねと感に入るだけで終わる。
まあ、別にそれでも構わないし、確かに怨霊に対する怖れは昔に比べればほとんど私たちは持っていないことは事実だ。
だが、崇徳の祟りが現代までに皇室に影響を与えているというちょっとした事実を知るだけで、過去という歴史を見る視座が大きく変わる。

だから、歴史を学びたい人は自分自身が自明だと思っていることについて、深く洞察してみることが必要だろう。
たとえば、われわれはなぜ、お寺を詣で、神社に参拝するのだろう。クリスマスを祝うのだろう。
我々は無宗教で節操がないのだろうか?
そうではないと思う。
そうではない論拠を見つけるには、歴史という世界に対して深い洞察を持って臨むことだと思う。
Posted at 2011/02/02 19:00:33 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 趣味

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「馴染みのたこ焼き屋で談笑したのち、立川の市街地からかなり外れた箇所にある西武立川駅来訪。堤王国の残滓を堪能するために。なんでこんなに閑散とした場所が立川駅なのだろう?
絶版間近のチャンピオンイエロー4(スイスポ用語ですね)電車がまだまだ走っていたのは嬉しいところ。」
何シテル?   10/07 10:09
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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