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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2010年12月19日 イイね!

太子戦勝祈願

太子戦勝祈願天平より遥か昔の飛鳥の御世、厩戸皇子という聡明な皇族がいた。いわゆる聖徳太子である。

江戸半ばまでの大阪は湿地帯で、人家がまばらだったという。たしかに、古代に難波に都を置いた例もあるし、秀吉は大阪(大坂)を首邑とした。
だが、特に河内付近は湿地がひどく、ようやく江戸期の大感慨により、沃野となった。

そんな湿地で囲まれたと思わしき、難波(大阪)に四天王寺というお寺を建立したのが、聖徳太子だ。
四天王寺一帯は上町台地という高台にあり、土壌が良質だったのではと思う。

当時は、仏教が伝来してすぐの頃で、舶来の仏教を信奉する太子は、一族である渡来系蘇我氏の影響を受けたことだろう。
日本の人民を統一する原理として「和」の思想を生み出したのも、彼が古来日本を渡来人的な視座から、相対的に見ることができたからではないかと思われる。

ともかく、戦勝祈願をした太子は見事に排仏派の物部氏を倒した。
以後、仏教は我が国に広く伝わり、定着する。

太子の実在には否定的な見解もある。しかし、我が国には至るところに太子を祀る太子信仰がある。
これは間違いない。
Posted at 2010/12/19 17:26:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2010年11月10日 イイね!

天然の良港はどこにあった?

天然の良港はどこにあった?関祐二さんの「消えた出雲と継体天皇の謎」という、古代史の謎に迫る刺激的な本を少しづつ読み進めています。

首肯できる箇所が多く、なるほどと感心しきりなのですが、一点だけ疑問に思ったことがあります(最後まで読了していませんが、悪しからず)。

氏は奈良のヤマト朝廷とともに、出雲・丹後・越(北陸三県のこと。しかし、福井県西部にあたる若狭は含まれないようです)という日本海側地域に、大陸や半島と程近い地勢的有利さも加わり、一大勢力圏があったと述べています。私もそう思います。
史書で有名な国譲りの神話がなぜ書かれなければならなかったか。
正統性確保のための神話の作成において、出雲(日本海側)が無視し得ないほどにヤマトと拮抗するだけの勢力があったためでしょう。
従って、史書記述の際にも出雲の存在を完全には無視できなかったのでしょう。ゆえに、少なくとも出雲に大勢力があったと私は考えます。

ただ、それとは別次元の疑問があります。
上述の出雲や丹後、越の日本海側諸国には、大陸からの舟を大規模に迎え入れるに適した天然の良港が多数あったのだろうかという疑問です。
大陸や半島からの海上経由の文化伝播なしには、さすがにヤマトに拮抗する勢力が構築されたとは想定しにくいですね。
大陸や半島からの受け皿として、舟を迎え入れる港がかかせないと思うのですが、瀬戸内に比べると、港湾や入り江が少なく、大規模な交流が可能だったのだろうかなとも思います。

日本海側勢力圏は近江との関係も深かったそうなので(因みに、継体天皇は近江出身の越育ち)、たとえば福井県の敦賀などは栄えていたように思えます。港としての歴史的伝統が連綿としてあり、今でも船着場には最適な港です。
しかし、他の地域となると、現在の地形から判断する限り、丹後なら宮津くらいしか、いい港を形成する地形が思い浮かびません(若狭は全体的に港に適した地域だと思いますが)。

特に出雲には大規模な港湾が少ないように思われます。古墳時代の舟は構造的に港湾の中にある港を必要としなかったのかな、などとも思います。

今後、じっくり謎解きをしていきたいと思います~
Posted at 2010/11/10 00:39:13 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 趣味
2010年08月13日 イイね!

吉田松陰と黒船

吉田松陰と黒船吉田松陰という好奇心と才能に溢れた天才が幕末の長州(山口県)にいた。
彼は尊皇攘夷(天皇を奉じ、野蛮な外国人を排斥する)という当時流行りの思想を極めるのみならず、同時に好奇心の強い行動の人でもあった。

黒船が浦賀に来航したとき、彼はアメリカへの密出国を試みた。黒船に乗り込む形で!言うまでもなく、当時の江戸幕府は鎖国を国是としている。
ゆえに、松陰の行動は命懸けであり、彼の堪えきれない冒険心の充満が、黒船乗船を試みるという行動から十分に汲み取れる。

松陰は当時一流の知識人であり、また持ち前の好奇心から、広く世界を知りたかった。
のみならず、二十代にして既に著名な教育者であり、木戸孝允や伊藤博文など、明治維新で活躍する長州のエリートのほとんどは、松下村塾という学び場で、松陰の薫陶を受けている。

黒船に乗って密出国する夢は失敗に終わった。
外交問題化することを恐れたアメリカ側が幕府に松陰の身柄を送り返した。
かくして、松陰の海外を実地見聞したいという壮大な夢は瓦解に期した。

この時はなんとか命を長らえた松陰だが、その後、安政の大獄(簡単にいえば、幕府の開国政策に反対するものへの徹底的な弾圧)のあおりを受けて、刑死する。
実に短い人生であった。彼の享年を調べてみたまえ。

ところで、松陰がレプリカの黒船を見たら、どのような表情を見せるのだろうか。
波止場に浮かぶ黒船サスケハナ号のレプリカをみて、ふと想像してみた。
案外と嬉々として写真でも撮っていそうだ。
どうも、そんな朗らかさを持っていた好青年だったのではと私は思うのだが。
Posted at 2010/08/13 18:46:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2010年07月23日 イイね!

せんとくんの源流を思索する

せんとくんの源流を思索する
奈良では、遷都1300年で大いに盛り上がっているようですね。
私は五速ギアが抜ける状態で、今冬に奈良県の橿原や桜井に行きましたが、長閑そのものでした。遷都祭の賑わいは奈良市が中心なのでしょうか。それとも時期的にまだ遷都の熱気を味わうのは早かったのでしょうか。

遷都とは有名な「なんと(710年)驚く平城京」の語呂合わせで有名な平城京(奈良市)に都が移された時期で、奈良県内では、藤原京とか飛鳥京とか、いろいろな都があったということも覚えておいてくださいませ。試験には出なさそうですが。

京都(鳴くようぐいす平安京・794年遷都)に都が移される前は、首都機能移転というのは結構頻繁にあったんです。
平城京に都があった時代も一時期、紫香楽(滋賀の信楽)に都が移ったりしたりとかなりめまぐるしい時代でした。
考えてみれば、当時の世界帝国の唐の長安の都を擬した平城京も遷都して百年も持ちませんでした。それはなぜなのだろうということはさておきましょう。
これは、今に例えれば、東京から首都が大宮に移転したり、平塚に移転したり、柏に移転したりするようなもので、現在の都市の規模からいうと大変なことのように思えますが、当時の奈良の朝廷や日本の国力を勘案すると、遷都、とりわけ平城京という大規模な都の造営と移転というのは一大国家事業で国運をかけたものと推測されます。
ここまでしてまで首都を造営するモチベーションというのが当時の天皇や貴族にはあったということです。そのモチベーションとは何かということはさておき。

話は変わりますが、
遷都を記念したイベントマスコット(?)で異形の風貌を持つせんとくんって、手塚治虫作「三つ目がとおる」の主人公の写楽保介(しゃらくほうすけ)に似ていませんか?
考えてみれば、写楽は超能力を発揮したりしますし、どことなく修験道の開祖の役小角っぽい。日常を逸脱した不思議な能力を発揮する呪術的な不気味さがそっくりです。
松本清張の作品に「火の路」という作品があります。
古代のゾロアスター教(火を貴ぶ宗教で、いまでもイランに教徒がいます)が遥かなペルシャ(イラン)から、飛鳥時代の日本にまで到来したという説を披露したミステリーものだそうですが、私はまだ未読なんです。
この作品に手塚が大きな影響を受けて「三つ目がとおる」が誕生したらしいんですね。おっとまた話が逸れました。

では、あの微妙さが魅力のせんとくんは「三つ目がとおる」から着想を得たと断定して良いのでしょうか。
多少の影響はやはり受けているとしか思えないんです。
ただ、それに加えて、「ひこにゃん」的なご当地のゆるかわいい系キャラも参考にしたと思うんです。しかし、遷都という偉業を表現するために、奈良の象徴をあれやこれやと詰め込むほかなくて、鹿の角の生えた仏教者(合掌しているため)としてキャラが生まれたのかなと推測しています。
ひこにゃんみたいに歴史的な象徴としてのマスコットにこだわらず、脱力できなかったのかなと。
仮にひこにゃんが彦根や彦根ゆかりの井伊直弼にこだわりすぎていたら、頭に黒船を乗っけたりするような不気味キャラが生まれていたかもしれません。

せんとくんを見て、いにしえの平城京に住まった人間はどう考えているのでしょう。
そんなことが気になっています。

※画像はイラン大使館でいただいたイランのお菓子。綿あめみたいな味。
Posted at 2010/07/23 12:20:50 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2010年06月17日 イイね!

「和」というもの

「和」というもの
最近、物事を推理・推量することが多くなってきている。
私自身は明確な回答をすぐに知りたいと欲する性質の人間なのであるが、
思考の幅を大きく、過去へ過去へと遡及させると、いわば、想像を司る部位がより活発化するようである。この場合、即座に明確な回答を提示されるよりは、しばらくは結論に至るまでの道程を楽しむほうが心地よい。

みんカラのコミュニティの
日本古代史のミステリー 通説を覆せ!! (kodaishi)
にて、大いに想像を司る部位を刺激させていただいている。
想像というのは非常に面白いもので、しばらく想像行為をしていると、ふと何らかの知見や視座が思い浮かぶことがある。また、これらの知見や視座のさまざまが相関関係を成して、また別の知見や視座を提供してくれるように思うのだ。

「古代」という想像の翼を大きく羽ばたかせることが可能な領域では、想像性という原子の活動も当然、活発化する。明確な答えのない曖昧模糊とした古代空間のなかに、
想像性という原子を投入してみると、やがて閃きという化学反応が起きる。すると曖昧模糊であった古代世界がだんだんと輪郭を露にしてくるように思えるのだ。

さて、わが国の生活や心情に強く根付いている「和」という精神。これはよほど古い時代から連綿と流れてきた日本古来からの日本人の根本的な精神だったとされる。
和というのをとても簡単に言ってしまえば、話し合いにより問題解決を図ろうという
相互協調の精神であろうか。
聖徳太子の十七条憲法の冒頭の条文が「和をもって尊しとなす(以和爲貴・・・以下略)」というのは非常に示唆的である。既に飛鳥時代にも条文の冒頭にくるくらいに規範として重要だったということが窺える。

ここで時計の針を現代に戻して、日本国憲法第一条を抜書きしてみよう。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
現在の憲法でも、非常に根本的な原則に関しては一番序の位置にもってきて、以下にその原則に基づいた約束事を記述するというのが一般的ではないかと思う。
「天皇は象徴である」という点と、その地位は主権を有している「日本国民によって担保されている」という点が、戦後日本の有り様を強く位置づけているのが理解できるはずだ。象徴天皇制は主権は天皇という特定の存在ではないということを示しており、あくまで現代日本の主権者は国民ひとりひとりなのだということを明快に述べている。既に戦後60年以上隔てている現代では、このことは自明のことと思うかもしれないが、いま一歩客観的に引いた視点から日本国というものを眺めてみると、この条文が日本国(Japan)の性質をよく物語っており、われわれはそれに従って暮らしているということがよくわかるのではないだろうか。

序の言葉の重要性を述べるために、日本国憲法の条文まで抜粋してしまったが、
十七条憲法を制定した聖徳太子という人間は、いままで自明だった「和」の精神というのを改めて条文という形で書き起こすことにより、初めて日本国という在り方を明瞭に示してくれたのだと思う。以来、日本人は「和」という概念を明確に輪郭づけられるようになり、日本の隅々まで行き渡る根本精神となったのであろう。

では、聖徳太子以前にあった日本の「和」のかたちというのはどのようなものであったか。当時の巨大文明国であった中国では日本のことを「倭(わ)」と呼んでいたそうだ。
この理由も明確ではないが、おそらくは当時の中国人が「貴方の国はなんというのですか」と当時の日本人に問いかけたときに、「わ」という回答がかえってきたのだと思う。もちろん、当時の日本人は日本という言葉を使っていないし、知らないだろう。
ところで、中国語は漢字のみの表意文字なので、発音を表す場合にしばしば当て字を使う。
そこで、「わ」の発音に近いと思われた「倭」という言葉を当てたのだろう。さらに、この言葉は中国の中華思想を示している例かとも思うがいまは詳述しない。

中国と異なり、日本では国家と呼べるような巨大政権は少なくとも飛鳥時代まで待つ必要があるだろう。それまでは大小さまざまな国(非常に小規模だが)が乱立していた時代がずっと続いていた。
したがって、紀元前一世紀頃(弥生時代)に中国にて記された『漢書』の地理史の記載で初めて散見される「倭」の記述の時点では、国家を意識した日本人というのは皆無であっただろう。だから、中国人に「貴方の国はなんというのですか」と問いかけられたときに、部族国家内で流通していた言葉をひとまず提示するしかなかったと思われる。その提示された言葉が、何度も述べている「わ」であろうと思うのだが、私は未だに「わ」のかたちをよく掴んでいない。
集合や協調、連帯を表す意味の言葉のみならず、もっともっと奥底に秘められた意味があるように思う。もしかしたら、我々も潜在意識下では和の本質を見抜いているのかもしれないが、これほど芯の強い概念だと逆に当たり前過ぎて、私たちは意識するまでもないのであろう。
少なくとも「わ」という概念に基づく考えは古くは縄文時代から存在していたようであり、このわずか一文字の言葉に凝縮されている厚みというのは極めて重いい。
Posted at 2010/06/17 08:58:24 | コメント(2) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域

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「馴染みのたこ焼き屋で談笑したのち、立川の市街地からかなり外れた箇所にある西武立川駅来訪。堤王国の残滓を堪能するために。なんでこんなに閑散とした場所が立川駅なのだろう?
絶版間近のチャンピオンイエロー4(スイスポ用語ですね)電車がまだまだ走っていたのは嬉しいところ。」
何シテル?   10/07 10:09
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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