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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2010年05月25日 イイね!

酒好きの殿様山内容堂から

酒好きの殿様山内容堂から
幕末に風変わりな殿様がいた。
土佐藩主山内豊信(容堂)は泰平の江戸時代に生まれながら、武勇を好み筋肉隆々で戦国武者と変わることがなかったのではないか。
また、文芸にも優れ、教養も豊富だった。いくつかの詩文を残している。
さらに、無類の酒好きで年中飲んでいたらしい。自分のことを鯨海酔侯と称していたらしい。自嘲的な面もあったのだろうか。非常に詩的気分に浸っていた人間だなと思う。
その行動も殿様離れしており、豪放磊落そのものであったという。同じ殿様の薩摩藩主島津久光を殴った(組み伏せた?)ということもあるようで、痛快なようではあるが一面で無邪気な子供のようでもある。

容堂は当時、四賢候の一人とされ、非常に優秀な大名の一人であると認識されていた。ちなみに、四賢候とは当時優秀とされた大名四名で、他に宇和島藩主伊達宗城、福井藩主松平春嶽、薩摩藩主島津斉彬らを指す。
この頭脳明晰でエネルギーに満ち溢れながら常に酔っていた殿様を面白くいきいきと描写した作品が司馬遼太郎の『酔って候』であろう。比較的短編で文庫本で安く販売されているので、暇つぶしにでも読まれることをお勧めする。

酒飲みといえば、容堂に限らず、戦国武将の上杉謙信もそうだったというし、幕末の大名にもたくさんいただろう。ただ、いまのところ私の知る範囲で酒飲みで名を残した大名といえば、容堂と謙信しか思い浮かばない。
謙信は義というものを非常に重んじた武将で、越後という雪国ながら、彼が本気で勢力拡大を図ろうと思えば、天下制覇はともかくとして、北陸地方全域を圧するくらいの類稀なる武将としての能力があった。だが、彼には領土に関する欲が無かったと思われる。
戦には強かったし、武の神様でもある毘沙門天に帰依し、妻帯を戒めていたくらいの人物だったから、その生き様はどこかストイックだ。
 
といって、他方の容堂がエピキュリアンかというとそうではない。彼は彼なりの倫理を構築していた。その一つが、公武合体の思想ではないか。幕末の風雲化では幕府の権威が失墜し、徳川御三家の一つの水戸から生じた中国の尊王攘夷(王を尊び、野蛮を廃する)の思想を是とする水戸学が大いに広まりつつあり、皇室の存在というものが脚光を浴びていた。
公武合体とは、幕府と皇室が仲むつまじく連合し、西洋諸国に対して対抗するという発想と考えて間違えはあるまい。
容堂は常に尊王(天皇を尊ぶ)の気持ちを持ちながら、幕府を擁護しようとしていた。彼は詩才があったから、そういう自分を一種の思想の発光体として認識して、形而上的な存在であるというふうにも考えていたのではないだろうか。

私が面白いと思うのは、それだけ自己認識に対する想像力が豊かで文武兼ね備えた人間が、無類の酒好きであったという点であり、実は私はそのことを言いたかった。私も酒を好むし、酒には割合と強いのだが、容堂のごとく一日中飲むようなことはしないし、しようとも思わない。彼は常に酩酊していた。そしてその中で、彼は文武両方で才能を発揮し、世間に認められていた。
彼は天才だったのか、或いは酩酊の中で能力を発揮できる性質の人間だったのかなどはわからない。
ただ、同じ酒飲みとして容堂にはどこか親しみがあって、それゆえに彼のことを少しでも紹介したいと思い、本ブログを認めたという次第である。
私は容堂をうらやましく思っているのかもしれないな。
酩酊の中で才気煥発でいる姿勢に対して、憧れている部分は確かに私の中にあるのだ。

Posted at 2010/05/25 03:55:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | その他
2010年05月19日 イイね!

お寺さんに関するマメ知識三篇

お寺さんに関するマメ知識三篇
「牛に轢かれて善光寺参り」
関東甲信越では有名な言葉ではないかと思います。
上方ではどうなんでしょう?
さて、その信州善光寺で数年に一度ご開帳されるという仏像は実はレプリカなんです。
善光寺の歴史は非常に古く、蘇我氏(渡来系と言われています)と物部氏が仏教導入をめぐって争った際(てことは古墳時代ですね)に、半仏教派の物部氏が、大阪の川に仏像を捨てたそうなんです。
それを本田善光という人が見つけて、信州まで持ち帰ってその仏像をあがめたというのです。もう千年以上も昔の話です。果てしない過去ですね。
いまもその仏像はあるということですが、公開はされていません。あくまでその仏像に似たレプリカがご開帳されるのみです。
秘仏の扱いを受けているわけですが、いつまでも未知のままのほうが風情としてはいいかなとも思います。
物語が構築されている以上は、物語に登場するものも少々、現実世界とは別の世界にいたままのほうがいいと私は思っています。


京都に西本願寺と東本願寺があります。なんで東西分かれているのでしょう。
もともと親鸞が開始した浄土真宗は、蓮如という組織を構築する天才的な人物によって、大いに勢力を伸ばしました。信者を講という組織に分けて、縦だけでなくて横のつながりというのも重視し、以後浄土真宗というのは非常な勢いで栄えます。
今の石川県では守護大名が打倒され、門徒たちによる共和国(?)が百年近く続いたともされています。
こうした浄土真宗の絶頂を打破したのは織田信長でした。当時の仏教勢力というのは武装しており、かなりおっかない存在でした。信長が比叡山を焼き討ちしたりしたのも、こうした宗教勢力の軍事力というものを根本的に廃絶しようという側面からみると、理解しやすいと思います。
信長死去前に、石山(今の大阪)に立てこもった浄土真宗の教祖の顕如は、武装解除を条件に開城(?)し、以後、仏教勢力というのは浄土真宗を含め、非常におとなしい勢力になるのです。
さて、本願寺のお話。
これは豊臣秀吉の死後に、徳川家康が本願寺のさらなる弱体化を狙って、東西に分けたんです。西本願寺は秀吉びいきで、東本願寺は家康びいきと言われていますが、こうした巧みな政策により、東西の本願寺が京都に生まれるようになりました。以後、江戸幕府は檀家制度を設け、住民を特定の宗派の寺に所属させ、徹底的な戸籍管理をしました。いま、お寺さんが葬式仏教といわれるようになったのはこの頃です。逆にこうした動きに動じなかった奈良のお寺では檀家さんがいませんし、お葬式も挙げません。


明治時代に至るまで、日本では神仏習合といって、神社もお寺も渾然一体となっているのが普通でした。鳥居の中に本殿があって、中にお坊さんがいるなんてことは普通だったわけです。こうしたことはごくごく自然に取り入れられてきたのですが、
明治時代に国家神道というイデオロギーを軸に宗教政策を進めようとした明治政府が廃仏毀釈という政策を行ないました。仏教を廃して、神社を保護するという政策です。このときに破壊されたお寺は数多く、奈良の興福寺などは寺領のかなりの部分を簒奪されたようです。明治政府はその後、ややこの極端な政策を緩めますが、今のところ神仏習合を彷彿させるような外観を持つお寺はないですね。鳥居をくぐると
そこに坊さんがいたなんてことはまずないと思います。そんなわけで、割合といい加減なんです。いま、○○神宮と呼ばれているところも、明治以前は○○寺と呼ばれていたなんて例もありますし、こういう複雑というか実にあいまいなところが、日本の宗教観というものがわかりにくい理由であると言えましょう。

*画像は珍しい神道式の墓。会津松平家の墓で、藩祖の保科正之以来、会津藩は神式を尊び、幕府への絶対忠誠を家訓とした






Posted at 2010/05/19 02:17:30 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | その他
2010年05月18日 イイね!

お米への情熱

お米への情熱皆さん、お米好きですかー?
私も大好きです。特に納豆をまぜて食べるのがたまりません。

最近は大阪でも納豆が売っているようですし、京都洛中(市街)の北のほうでは、
昔から納豆を食べていた習慣があるんです(地元の人に聞きました)。
ということで納豆ご飯は国民食となりつつあります(強引な結論・笑)。

さて、お米が稲から採れるのはもはや常識ですが、稲って本来は熱帯性のもので、
東北や北海道でも稲作が行われているのは絶え間ない品種改良の賜物なのでしょう。米どころの新潟のお米は大変おいしいですが、昔は越後のお米というとまずいものの代名詞だった時代もあるようです。
本当に日本人の稲作に対する執念には圧倒されちゃいます。

稲作は中国江南地方(上海の辺り)から直接伝わったのがメインであるというのがどうやら定説になっているようです。江南地方は温暖湿潤ですから、稲作に適しているのは言うまでもありません。
遥か昔の江南地方は、黄河流域からみると風俗が大いに異なり、黄河流域(小麦栽培が主流)の人々からみるとちょっと不気味な存在だったようです。いまや漢民族が主流となっている江南地域ですが、どうやらタイ語族系の民族がいたなんて説もあるようです。すると江南地域の住民と東南アジア系の住民とは深い交流があったのでしょうか。
ちなみに、タイやベトナム辺りまでくると、稲栽培にはもってこいで、種を撒けば自然に育つくらいに恵まれているそうです。うらやましいですねー。

さすがに日本は温暖湿潤だけれども、そこまで楽ちんには栽培できず、品種改良や栽培方法の工夫、開墾、潅漑作業などが大いに行われました。
しかしそんな面倒なことまでしてなんで稲作にこだわったのかなと私はちょっと不思議にも感じています。
特に東北以北はいまでもそうですが、冷害にしばしば覆われますし、畑作だとか牧畜といった習慣が主流になる可能性は無かったのかなと思います。特に秋田や山形、青森の津軽など東北の日本海側の地方は、遊牧民がいた中国東北地方とも近く、交易もあったでしょう。彼らの習俗がこれらの土地に根付いても良いような気もするんですが、結局、日本人は稲作を主流にすることを選んだんですよね。

日本人南方渡来説というのがあり、私はそれもあるだろうなと思っていますが、どんなに寒冷な地であってもお米を食いてぇ!という猛烈な情熱が血として受け継がれたのかなとも思います。

つうことで、おにぎり(具は明太子!)を食べながら、稲作の情熱について考えてみました。




Posted at 2010/05/18 14:48:16 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | その他
2010年05月17日 イイね!

西郷どんはなにを考えていたのか ~維新三傑と龍馬~

西郷どんはなにを考えていたのか ~維新三傑と龍馬~
西郷隆盛(吉之助)と大久保利通(一蔵)、木戸孝允(桂小五郎)という維新三傑。
やはり、彼ら三人がいなければ、維新回天とその後の明治政府の進展はなかったのではないかと思う。

私は維新後に西郷が不平士族を集め、西南戦争を起こすに至る動機がよくわからなかった。陸軍大将でありながら、勝手に薩摩に帰っちゃって隠遁して、そのうち不平士族にかつぎあげられて内戦を起こすという彼の行動基準がよくわからなかった。最近は少しわかったような気がするが、それは後に述べる。

結局、西郷は明治以降の近代化の波にすんなりと乗れる人ではなかったんだなと思う。でも、それは西郷自身の評価を落とすことではない。考えてみれば、明治政府は旧体制のシステムを大掛かりにぶっ壊したわけだ(秩禄処分とか廃藩置県とか)。これはこれでかなり大胆な変革で、ゆえにこそ日本の近代化が一挙に進み、今日があるわけだ。こういうぶっ壊し側にいたのが、大久保・木戸たちであろう。大久保の果断な決断力や木戸の開明的な思想があったからこそ、ほんのわずかな期間に太政官政府はさまざまなぶっ壊しができたんだと思う。

西郷はどうか。
ぶっ壊されて不満を持つグループも当然いるわけで、彼はそうしたグループの大いなる受け皿となったことで非常に評価できる。ではなぜ彼は受け皿足りえたのだろう。
彼の人徳には誰もが圧倒されたという。一種のカリスマ性があったわけだが、それだけではなく、彼自身極めて冷静に物事を判断できる人物だし、不平士族という旧秩序の種を断ち切るために、自分が犠牲になろうと決意したのではないか。
西郷は陽明学の徒だった。陽明学では行動を尊ぶ。西郷が「おいどんの胸を貸しもそ」と唱えたときに、彼は徹底的に不平士族の感情をよく理解しつつも、新政府の秩序のために、命を投げ捨てようとしたのではないかと思う。

征韓論はどうだろうか。もし、彼が大久保や木戸と同じく、遣欧施設として渡欧していたら彼の考え方は変わっていたかもしれない。ただ、いずれにせよ彼を慕う不平士族をむげにするようなことはしなかっただろう。
この点、幕末から封建秩序がほぼ崩壊していた長州出身の木戸ならば、遥か先の近代日本しか見据えないだろう。ただ、不平士族を一気にぶっ潰すという大掛かりなことはやはり大久保のように肝の据わった男がいてこそ可能だったのではないかと思ったりもする。
そういうわけで維新三傑とはよくいったもので、西郷・大久保・木戸がいたからこそ、
近代日本の礎が構築しえたのだということが、大まかながらもいえるのではないかと思う。

維新直前に殺された坂本龍馬はどうか?
龍馬は西郷・大久保の薩摩と木戸の長州を結びつけ、回天の礎をなしただけで、大いに功績があると思うし、彼の行動には飛躍がない。いや、当時からすれば飛躍そのものなのだが、彼は藩という枠にとらわれずに日本という概念を見ることができた。世界という概念を見ることができた。そして、その範疇でいろいろな行動を試みた。幕府とか藩とかそういった事柄を既に超越して物事を考えていたのだと思う。
それが彼自身の土佐郷士出身という環境に原因があるのかどうかはわからないが、やはり彼の存在は維新三傑を成立せしめた点でも偉大であると思う。だから私は彼をとても評価している。
そして仮定として、彼が維新まで生きながらえていたら、どういう立ち位置を占めていたのだろう。私は西郷のように懐でもって不平士族と運命を共にするのではなく、
より狡猾な方法で不平士族を押さえ込んでいたような気もするのだが、案外、政治の世界などは放り出して、海援隊を大いに発達させることに執心していただけかもしれない。
Posted at 2010/05/17 21:54:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2010年04月13日 イイね!

麺をすすって中国四千年の歴史に思い馳せる

麺をすすって中国四千年の歴史に思い馳せる
おとといのことでした。
ラーメン屋で辛ねぎラーメンとからあげ定食(揚げたてのからあげ三個とライス)
を注文しました。
はじめにラーメンを食べました。
辛そうな赤いスープと蒸気に包まれたねぎと麺がなんとも食欲をそそります。
いただきます。

「ああ、中国四千年の歴史のお陰で私はラーメン食べてるヨ」

と麺をすすりながら感慨に浸ったものです。
まあ、ラーメンの起源については知りませんけれど、うどんなんかは日本でいう室町時代辺りに中国に渡った禅のお坊さんが持ち帰ったのが発祥と聞いたことがあります。
てことは、赤いきつねのどんべえ(関東ローカルなのかな)というのも、中国があったからこそ、商品として成立しているんだと思うと感涙してただただ慟哭あるのみです。武田鉄矢もお陰でコマーシャル出演が一本増えたというわけです。

実際に中国の歴史は非常に古いですね。
ここでいう歴史の古さとは文献等に豊富に過去のことが記されているという意味で用いることにします。

すでにイエス・キリストが生誕する何世紀も前の紀元前の時代に国家ができていましたし、いろいろな思想や工芸も発達していたそうです。
日本人にとって主食ともいえるお米も伝来の地として有力なのが、中国江南地方といわれています。長江一帯ですね。著名な大都市としては上海があります。まあ、江南地方以外からも稲作(つまりは米)は伝播したのでしょうが、稲が熱帯性の植物であることを考えると、温暖湿潤な江南地方からお米が伝えられたというのは事実でしょう。
古代の江南地方は中国でも遅れていた土地と呼ばれ、今とは異なりタイ語族系の民族が住んでいたともいわれています。タイは稲作に適した熱帯地域ですから、タイから江南へ、そして日本へと稲穂が伝わったのでしょうか。
てことは、お米を食べるときも中国四千年の歴史を思い浮かべることになり、ひいてはタイについても思いを馳せ、そしてタイガー・ウッズの映像が頭に浮かぶことになります。
お米の伝来からタイガー・ウッズ。
ものすごい論理の飛躍です。


食べ物の話題はさておき、ここでは日本でもよく知られている「王道」と「覇道」という言葉について記述いたしましょう。

この言葉を考えたのは孟子と呼ばれている儒学の人です。儒学(儒教ともいいますな)は孔子が有名でしょう。礼という徳を持って政治を行うのがいいのだと考えた偉人です。現在の中国の人々の価値観の根底を担っているのが儒学と言われていますから、功績は大でしょう。礼というのは一種の秩序とでもいいましょうか、古代国家周の時代の文化・政治形態ともいわれていますが、私にはよくわかりません。

さて、孟子のことを忘れていました。
彼はこの徳を持って天下を治めることが良いという点では孔子とまったく一緒です。そして、徳のあるものが王となり天下を治めることを「王道」と呼び、これを理想の政治システムとしました。
一方で武力によって、天下を統一することを「覇道」といい、これは理想的なものではないと考えました。

古い中国でも神話とも呼べる時代に尭・舜・兎という王様がいたそうです。
孔子は尭と舜の時代を理想と考えるのですが、尭は王位を譲るときに、自分の息子や親族ではなく、一番徳のある人に王位を譲りました。これが舜という王様です。
舜という王様も同じく、徳のあった兎という王様に王位を譲りました。
こうした徳による王位継承のことを「禅譲」といいます。
中国ではこの禅譲を理想としていますが、実際に禅譲が行われたのは舜から兎までのことのようです。

兎から先は王位は世襲となりました。これを夏王朝といいます。その夏を破ったのが殷という国で、この国は実在したと考えられる最古の王朝であると現在では考えられています。紀元前18世紀ごろのことだとされています。まさに中国四千年の歴史ですな。
殷という国は甲骨文字という文字を作りました。主に占いの結果を記すために記されたようですが、これが漢字の起源とされています。


そんな嘘みたいに歴史のある中国ですが、
中国の諸地域が分裂して大いに争った戦国時代と呼ばれる時代(これまた紀元前)にはすでに戦車が登場しています。
動力は馬でその後ろに車輪のついた台があり、そこに兵士が乗るという形で、
馬が一頭なら一馬力ということになりましょうか。
トルクやパワーウェイトレシオなんかも知りたいところですが、そこまではわかりません。えさのにんじん次第で大いに変容したものと思われます。にんじんと干草を同時に食べるハイブリッドの馬も大活躍したようです。想像ですが。


さて、そろそろお話に終止符を打ちたいと思います。
今度、皆さんがラーメンを食べたり、中華料理を食べたり、お米を食べたりするときはいつも上に述べたことを覚えておいてください。
文字を書くときもそうですかね。
食べ物や当たり前のように用いたり、眺めているものにも大いなる歴史があるという崇高な事実に感動してください。
ま、まずは食べ物のおいしさを味わうのが先でしょうけど。

今回はたまたま古代中国を例に出しましたが、身近な文物にこめられたさまざまなドラマを紐解いて想像するというのは面白いことだと私は思っています。
そして、古代中国についていささかばかりの紹介をしましたので、ぜひとも中国政府の方には私を中国に招いて、歓待していただければと思います。
どうかよろしく。
Posted at 2010/04/13 20:38:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域

プロフィール

「馴染みのたこ焼き屋で談笑したのち、立川の市街地からかなり外れた箇所にある西武立川駅来訪。堤王国の残滓を堪能するために。なんでこんなに閑散とした場所が立川駅なのだろう?
絶版間近のチャンピオンイエロー4(スイスポ用語ですね)電車がまだまだ走っていたのは嬉しいところ。」
何シテル?   10/07 10:09
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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