2011年04月13日
普段何気なく使っている言葉がある。あるとき、ふと当たり前のごとくその言葉を使っている当人が、なぜこんな表現になっているのだろうと思案にくれた経験はないだろうか。
また、ごくごく単純な表現ながら、外国人にその表現が使われる意味や場合について聞かれたときに、途方にくれたことはないだろうか?
たとえば、助詞の「は」と「が」はどのように使い分けるんですか、なんて言われたときに理路整然と答えられるだろうか。
「大半の人」というときの大半とは全体の何パーセントの人のことを指し示すのか。などなど。
「よろしく」「やっぱり」「虫がいい」「どうせ」「いい加減」「いいえ」「お世話さま」「しとしと」「こころ」「わたし」「気のせい」「まあまあ」「ということ」「春ガキタ」「おもてとうら」「あげくの果て」「かみさん」「ええじゃないか」「もったいない」「ざっくばらん」「どうも」「意地」「参った、参った」「かたづける」
これらは『日本語の表と裏』のなかにある目次だが、これらの語義だけを扱うわけではない。表題の語句を通じて、著者の海外や日常での経験、外国人や自身の人との交わりなどを通じて、コラム的な筆致で難解そうな事柄をうまく読み進めさせていく。
一例を挙げよう。
「虫がいい」であれば、「虫がすかない」とか「虫唾がはしる」といった虫にまつわる関連語を列挙し、なぜこういう表現をするのかという考察を、日本人のメンタリティや日本社会の構造、日本の気候風土など、さまざまな観点から半ば実験的に分析して推理していく。
「虫」に関していえば、著者はフロイトが唱えたリビドーと同じようなものではないかと推測する。つまり、虫というのは無意識の底に沈殿しているものであるが、何かのきっかけで意識に浮かび上がってくるものである。ゆえに、自分の意志ではどうにもならない精神や本能を指し示しており、これを虫と呼んだのではないかという具合に論を展開していく。
上に挙げた「は」と「が」の使い方の違いについては、諸説を紹介しつつも、著者自体、推測としての仮定を出す段階がやっとのことという按配である。
そう、仮説なのである。
著者自身もそれは認めている。
1)「春が来た 冬は去った」
2)「春は来た 冬が去った」
3)「春が来た 冬が去った」
4)「春は来た 冬は去った」
どれも正しいのだろうか。私はなんとなく1)がしっくりくるのだが、その理由を論理的には説明できない。感覚的にそう思うのみである。
私は何気ない言葉を掘り下げても完全に得心が行くということはありえないと思う。それほどに言葉の世界とは多様であり、広漠だと思うからだ。
そしてまた、「ということ」という項目で著者がいみじくも指摘するように、本来は具体的な事物を表すことから抽象的な事柄を表現するというのが言語の成長過程であった。しかしながら、日本ではヤマト言葉が抽象表現を大いに発達させる前にすでに抽象表現をたくさん持っていた漢語を輸入した。
抽象的な表現を独自に育てあげなかったためか、日本では抽象的な表現があまり好かれない。なぜなら、ヤマト言葉として抽象化された言葉でないために、どうもわれわれには馴染みがないのだ。
しばしば「難しい文章」とか「わかりやすい文章」ということが論じられることがあるが、おそらく語彙が多く専門用語が多く、文法構造も複雑極まりないから難しい文章であるとは言えないと思う。
わたしたちは抽象的な事柄を論じるとき(たとえば、「木」とか「花」とかといった具体的な対象を示す言葉ではなく、「自然環境」という抽象的な事柄を論じたりする)、上代以後に大量に輸入された漢語や明治時代に入ってきた西洋語に頼って表現するほかない。だから、どうにもこうにも言語としての感覚が日本語らしくないから難しいと感じるのではないだろうか。
また、「わかりやすい文章」とは何だろう。
誰にでもわかるような語彙のみを使い、平易な言葉のみを使う。これがわかりやすい文章なのであろうか。
それはそれでいいとは思うし、「わかりやすさ」ということをわたしも希求していきたいが、今のところ漢語や西洋語が入り混じった日本語のなかで、「わかりやすさ」をあらゆる領域で発揮するのはかなり困難なようだ。
だが、私は敢えてそれを克服してみたいと思う。福沢諭吉の簡潔明瞭な文章のように。ヤマト言葉にこだわる必要もない。
漢語の導入は千年以上も昔の話だ。いまある日本語をどのように「わかりやすく」表現していくか。これがもしかしたら日本語の表現の豊かさをさらに拡大させるきっかけとなりうるのではないかと私は思う。
文庫本に所収された本書は枚数も少ないながらも、私たちが当たり前のようにして使っている言葉というものについて、強く感じさせてくれる。のみならず、著者が分析した言葉の語義・意味合いについての推理作業の鮮やかさを眺める楽しみもある。お勧めの一冊である。
『日本語 表と裏』(森本哲郎著・新潮文庫)
定価:400円+税
ISBN:978-4-10-107311-8(←この番号を書店さんに伝えると書店員さんの検索の手間が省けます)
Posted at 2011/04/13 18:34:25 | |
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書評 | 趣味
2010年12月24日
昨日、ヤビツ峠を通ったときに書いたブログで頂いたコメントから、ふと思い出した峠本を書棚から取り出してみた。
自動車の歴史に纏わる貴重な一資料としてご紹介したい。
『峠のダウンヒルテクニック』
三推社/講談社
全日本ダウンヒル倶楽部編
ISBN 4-06-179697-6
私の手元にある上記書の奥付には、平成9年5月23日に第一刷発行と記載してある。ただ、この本は初版販売時に買ったものではなく、後々に古書店で購入したように記憶している。
各地の峠の紹介のみならず、駆動輪ごとのコーナリング操作など、走りに関する事柄は実にきめ細かく紹介されている。
往年の峠を飾る名車とその特性なども紹介されており、往時の峠文化の隆盛を偲ぶことができる。
より、時代を遡ると、昭和63年に刊行された(同年8月20日刊行)、類似した峠本も所有している。
『ワインディング峠専科』
三栄書房
雑誌コード 68706-11
タイトルからして興をそそる書籍(分類上は上記書籍を含めて雑誌扱いだが、ここでは書籍とする)があり、面白いのはオートマの特性について詳細に書かれていることだ。この点に時代性をひときわ感じさせる。
さて、ヤビツ峠の項だが、『峠のダウンヒルテクニック』によれば、「超タイト 超トリッキー 超デンジャラス」ということらしい。
平成9年現在となると、私がちょうど普通免許(現・中型免許)を取得していて、ホンダのギア付のNS-1で遊んでいた頃かもしれない。或いはトレノを購入していた頃か。
確かに印象としてものすごくタイトな道が続いていて、当時は頻繁に走る車を見掛けたから、彼らのドライビングテクニックに驚嘆したものだった。
当時は湘南の田舎住まいだったのでヤビツまでは至近だったし、私自身が走り屋でないにせよ、何かこうわくわくとした昂揚感を覚えたものだった。
考えてみれば、峠の走り屋さんに関しては、小学校のときに現場を目撃したことがあったのだった。
叔父に連れられて大垂水峠に行ったことがあった。その時の印象が当時既に刷り込まれていたのかもしれない。小学生の私は当時の用語(?)でいうギャラリーコーナーで、大勢の観衆とともに、大垂水を疾走する自動車たちをこの目で強く印象したのだった。
平成9年当時となると、山道を通るとなると大抵は走り屋を目撃したような気がするし、ましてヤビツ峠となればなおさらであろう。詳述はしないが、てっちんのランエボが物凄く印象に残っている。展望台から一気に下って、姿をくらました。きゅるきゅるという音を立てて、やがてその音も光も見えなくなった。その間、十秒ほどであろう。その光景はもはや芸術的なほどに美しかったことを覚えている。動きが俊敏で、
その挙動が実に滑らかで、動く芸術品を鑑賞するような気分だったのだ。
ヤビツに纏わる平成9年くらいの思い出を挙げるとすれば、そんなところであろうか。
Posted at 2010/12/24 20:18:13 | |
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書評 | クルマ
2010年12月10日
私たちは「お金」というものと絶えず向き合う機会が頻繁にある社会に生きている。
ゆえに、お金というのは、単にサービス・モノへの対価として支払われる交換手段・媒体といった総括的で無機的なものではなく、もっともっと奥深いものがあるはずだと私は思いめぐらせていた。
まず、お金と幸せは相関するのだろうかということをずっと考えていた。
結論から言えば、お金は幸せになるためのかなり重要な条件ではあるが、必要条件ではないだろう。ただ、幸せな状態にあると感じている人にはお金がどんどん流入しているような気がしていて、これはなぜだろうと考えていた。
昨日、書店で思案した上で購入した書籍が、かなり明確に私に答えを与えてくれるように感じた。
『稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?』(サンマーク出版・亀田潤一郎著)
帯やリンク先の書籍紹介では、「稼ぐ」点に力点が置かれている。それは無論大切なことだし、書籍名になるほどであるからメインとなる点である。
稼ぐ人たちが長い財布を使用する理由も、実に平易に理解しやすく書かれている。なるほどと膝を打つこと請け合いである。
消費・投資・浪費の違いなども、日頃から意識しておくとよいだろうと素直に思えるほど説得力に富んでいる。
ただ、より知りうるべきは、お金と人間の生き方とは比例関係にあるということだろう。この点を理解すると、本書の魅力がより明瞭に理解されるはずだ。
そして、稼ぐ人(お金が入ってくる人)は稼ぐに相応しい生き方をしているゆえ、稼いでいる(お金を得る)という関係性に気づく。
それ相応の生き方とは、お金に対しても、全身全力をあげて対応するというマメさでもあり、それは生き方そのものの投影であろう。正しく、お金とは単なる物質ではなく、ある種生き物のようであり、お金を所有する人間の生き方を写す指標なのだということが実によくわかる。
著者は学生時代に金銭面で非常に苦渋し、その経験が糧となり、本書に記されるような稼ぐ人についての考察の数々に繋がるのだが、結論部の「お金から自由になる」という逆説的な見解に私は魂が身震いするくらいに感動を覚えた。
著者はお金を稼ぐ人の共通的な特徴を見出すことに興味を抱き、書名にあるとおり、長財布を使う人がお金を稼ぐという見解をぐっと押し出した(編集側の意向もあるだろう)。
しかし、お金とは畢竟、幸せのために必要とするもので、お金そのものが目的なのではない。著者はその点を人生経験から踏まえた上で、お金に関する鋭い分析をし、本書を上梓したのだ。著者の姿勢に共感する。賛辞を送りたい。
Posted at 2010/12/10 00:01:44 | |
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書評 | 趣味
2010年06月01日
仏教を始めとした宗教全般に通暁している、ひろさちや氏の「やまと教」を昨日から読み始めました。
ひろさんの文章はとてもわかりやすいので、とても好感が持てます。
ベンチで寝転びながら読みたい気分です。ウズウズ(笑)
まだまだ読んでいる途中なので、全体的な感想は述べられませんが、仏教の伝来により、日本の人々(一部階層にせよ)が、日本古来の教えを改めて認識するという視座は面白い見解ですね。たしかに、多様性があるからこそ、固有性が活かされるのであり、たとえば自動車でいえば、セダンやクーペ、ミニバン・SUVといったいろいろなジャンルがあるからこそ、その中で好みなものを発見し、その好みの良さの深淵を深く追求したり、また愛着というのが湧いてくるのだと思います。
冒頭では、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教のお話も宗教とは何かというひろ氏自身の定義に基づいて説明されています。
これはわかりやすいですね。
以下は私なりに超かみくだいてみました(笑)
ユダヤ人はその昔、エジプトでこきつかわれていたので、なんとかしてくれと思っていたところ、万能の神のヤーヴェが、「そんなら私の言うこと聞いてくれる?そしたら救済するよん」とモーセに伝えるんですね。モーセのように神の言葉・啓示を受け取る人のことを預言者といいます。
で、モーセは「畏まりました。どうかユダヤ人を救ってくださいませ。なんでも仰せのままにいたします」ということで、ヤーヴェと契約を結んだというわけです。
こうして、モーセらユダヤ人はエジプトを脱出し、ヤーヴェの教えを絶対に守る民となったのです。これがユダヤ教の基本的な箇所で、あくまでユダヤ人と絶対神ヤーヴェとの契約なんですね。なので、私(日本人)が介入する余地はないんです。
さて、ユダヤの故地のイスラエルの土地に戻ったユダヤ人。そのなかで、有名なイエス・キリストという人物が現れました。キリスト教の考えでも、絶対神はヤーヴェであり、神の子であるイエスを通じて、新しい啓示を与えた(新しい契約を結んだ)という見解をとります。モーセとヤーヴェが結んだ契約はちょっと古いじゃないすかということです。こちらはユダヤ教と違い、これはユダヤ人とヤーヴェとの契約にとどまらないので、普遍宗教とひろ氏は述べておられます。
もう一つ。イスラム教というのがその後誕生しました。イスラム教というのは基本的にイエスが預言者であることは認めています。神の子であるとは考えていないだけです。イスラムの預言者はムハンマド(ペルシャ語でマホメット)で、アッラー(絶対神という意味でヤーヴェとイコールと考えていいと思います)から正しく完全な啓示を与えたのだと考えます。ゆえに聖典「コーラン」の内容は完全無欠なのです。
これまた民族という枠にとらわれない普遍宗教です。
といった具合に私たちには馴染みのない宗教について、簡潔に示してくれています。我々は特に神との契約といった概念に対する理解が乏しいですが、なんとなくわかったような気がしました。
ひろ氏は著書豊富な人間ですが、仏教が専門だというわけでもありません。多才な人だと思います。冒頭に述べたように、わかりやすい文章で仏教を中心とした宗教に関する書籍を数々出版されています。
今年、ひろ氏が地元に来たときに、講演をちょこっと拝聴したのですが、声量も大きく、非常にユーモラスな人だったことを覚えています。
Posted at 2010/06/01 14:16:48 | |
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