2010年05月01日

やはり86はいいですね。写真はAE86トレノのブラックエディション。
艶々していました。いいですねという言葉しかありませんね。
86には乗ったことがないので、外見で判断していますが、
私はリトラが好きなので、特にトレノが好きです。
とりわけ、3ドアハッチのタイプがいいですね。フロントからはボクシーな頼もしい
感じを受けますし、リアの稜線が非常に美しいと思います。
街中を散歩したり、郊外をドライブしていても、86といまだによく遭遇するというのが、本当に嬉しいですね。もう殿堂入りしたかのごとき感のある名車86ですが、今後とも街で郊外で大活躍してもらいたいものです。昭和末期の珠玉のクルマでしょう(後継のAE92型も昭和期生産のクルマですが)。
実際に運転するとどういう感覚なのかを想像しています。たぶん、山道などカーブや勾配の多い道路に最適な気はするのですが。応答性がよさそうなイメージがあります。
私自身は86後継のAE92型トレノを所有したことがあります。
四輪では初の愛車でした。
86ユーザーの方は、92搭載の4AGエンジンを移植している方も多いというお話なので、エンジンフィーリングはなんとなく想像がつくのですが。NAにふさわしい吹けあがりのよい、爽快且つすかっとするようなフィーリングなのかなと想像します。うきうきしますね。
私なら、カブリオレにしてしまって風を浴びるかもしれません(笑)
その場合、ボディは2ドアタイプの方が似合うかなと思います。
想像が膨らみます。
本当に乗り物は見ていて飽きませんが、86なんかは特に飽きませんね。
まだまだ現役車両が多いので、機会があったら乗ってみようと思います。
その場合、キンコンキンコン音の設定のままの個体がいいですね(笑)
たまらなく昭和の息吹を感じさせてくれるアイテムです。
そして、私はカセットテープで安全地帯の「ワインレッドの心」とか井上陽水の
「いっそセレナーデ」なんかを聴いたりするんです。
いいでしょう?
カブリオレの86でね(笑)
それにしても、昭和への郷愁感覚とはどうして起こるのか不思議です。世代的なものなのでしょうか。最近は社会一般に「昭和」が流行(?)しているように思えます。
「あの頃はよかったな」という具合に思うのでしょうか。私自身はそう思っています。
しかし、それでは現在や未来に対する発展性がないので、「いまはいま固有の魅力がある」と考えています。昭和という時代が今も続いていたら、おそらく郷愁の感覚なんて生まれなかったでしょう。いつの時代も固有の魅力が備わっていて、それを発見するのは自分次第。しかし、今は昭和がかなり社会的に共有された郷愁の対象とされている。面白い現象ですね。
まあ、86はそういった世相の現象に関わらず、名車だと思います。
郷愁をそそる要素もありますが、現役としてバリバリ走ることもできる。過去でも今でも存在としての普遍性がある。
2000GTも好きなのですが、絶世の未曾有のボディラインの美しさのほうに焦点が向かってしまいます。それはそれで2000GTの魅力でしょうし、こちらも過去や今でも存在としての普遍性がある名車でしょう。ただ昭和40年代という私が生まれる前のクルマ(とは思えないですが)なので、やはり私としては86の方に世代的な親しみを覚えます。やはり、自分が生きた環境がベースとなって嗜好性や愛着というのがある程度規定されてくるんでしょうか。
86というのは、時にこうした内的思索へ私をいざなうときだってあるんです。
すごいですよね。
Posted at 2010/05/01 01:39:13 | |
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2010年05月01日

「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」
抽象的ですね。あるところってどこなんでしょうか?
おじいさん・おばあさんといっても何千万といるのですが、いったいどこのおじいさん
とおばあさんなのでしょうか。
むかしむかしのお話ならともかくも、もしも今作られたお話が未来に受け継がれたときにはどうなるのでしょう?多少、メディア調の文体になっているでしょうね。
試みに、未来に向けた昔話の冒頭を作成してみましょうか。
「むかし、むかし、21世紀初頭のころでした(注・2010のことか?)。東京の北区の区役所の近くの王子というところに、吉田さんのところのおじいさん(当時88歳)とおばあさん(推定86歳)がおりました」(注・個人情報保護のため、詳細な住所・名前に関しては掲載しておりません)
子守唄にはばっちりかもしれません。くどくどしくなったので、子供はすぐに寝るでしょう。私もこういう昔話ならばっちり眠れます。もう秒殺で寝ますね。
それにしても、随分と括弧書きがずいぶんと多くなりました。
しかし、よくよく見ていると大して具体的にもなっていませんね。物語だからよしとしましょうか。
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「21世紀の人類ってのは、まあ、われわれのご先祖さまにあたるわけだが、随分と小難しいことを考えていたもんだな」
時は24世紀。人間は21世紀のマラソン・ウォーキングブームにより、筋肉が極めて発達。また、右脳トレーニングの成果で、イメージ力を中心に頭がより柔軟となった。インターネットはまさに世界を一つにして、国家は無くなり、パスポートも廃止された。
ここに24世紀人間の一つの類型を紹介しよう。
モジランスキー山田という。
24世紀では、人種という概念がなくなったため、彼女のようにロシアっぽい名前と日本の苗字が重なって、名前が作成されるのが普通になったのである。
彼女の顔つきは黄色人種のそれに近い。
が、フォトショップの機能が大幅に拡大して、なんと人間の顔色を自由自在に変えることも簡単にできることになったので、実のところ彼女の顔がどのようなものかは本当はわからないし、実のところ女性かどうかもよくわからないのだ。
人類は性的格差をなくすための惜しみない努力をし、23世紀ごろから男性や女性の生物学的特徴はほとんど無くなった。ただ、昔からの名残として、自称男性・自称女性と称することが昨今ではブームになっているという次第だ。だから私たちは男性とか女性というものが実はどういうものなのかを知らない。
性的格差がないので、私たち24世紀の人間は性行為というものをしない。子供は試験管を通じて、任意に生まれる。人口抑制対策もばっちりというわけだ。
この間、東京遺跡からアダルトビデオというものが発掘されたのだが、これはいかなるものなのかということを学会で詳細に研究している最中である。
というわけで、
モジランスキー山田は、24世紀の人間の特徴の典型例だ。筋肉は大いに発達しているし(21世紀のプロレスラーのような形だ)、いかにも24世紀的な柔軟な頭を持っている。
山田のような、柔軟な発想で私たちは、脳みそそのものを柔軟なものにしようと試みた。平成180年のことである。歴史の教科書には必ず載っている。
脳みそをべたーっと伸ばして展開することを私たちは可能にした。結果として脳みそは丸型ではなく、のりまきのような形状になっているが、人によってさまざまだ。
髪をカールしたような形状の脳みその人もいるが、いずれにせよ、知能差は皆、平等である。
そういうわけで、
山田を含め、私たちの脳みそは物理的ふやふやである。豆腐のようにふにゃふにゃなっている。
そのため、私たちはふやふやな脳みそを守るために常にヘルメットをしている。
もっとも高価なのがダイヤモンド製。これは硬い。頑丈だ。
比較的安価なのが、鉄製。
私たちはそのふやふやながら重くなった頭を支えるために、日常の行動のほとんどをコンピュータに任せることにした。そうすれば、どこに移動する必要もなく、適宜必要な情報が手に入ると考えたからだ。ふにゃふにゃ。
私たちはただ神社の前の狛犬にお参りするために外出をしている。狛犬は21世紀でいえば、国連みたいな存在といえるかもしれない。
世界中の人たちが普遍的に共有しあおうという方向を有している。従って、街にはいろいろな人種の人々が行きかうことが例外ではない。皆が狛犬を拝んでいる。
狛犬は長らく外出することをやめていた私たちがたまたま日本の土地を学術踏査したところ土中にあったもので、ネットを通じてまたたくまに世界に広まった。かくして、
24世紀は人々はヘルメットをかぶり外出するようになったのだ。
ところで、実は山田は私の妻なのだが、彼女とはモニター越しでいつも愛を語り合っている。彼女と結婚してから五年経つが、私たちの合理的な思考は、結婚をもコンピュータの再起動により、デフォルトにすることができるようになった。いつでも好きなときに結婚したり、新たな出会いを求めたりするのだ。
私は山田のことが気に入っているから、ずっとモニターを通じて愛し合っている。
山田がどこにいるのかしらないし、性別なんて知らないけれど、24世紀ではこれはごくごく日常のことなのだ。
おっと、私が多少なりとも、21世紀の事情と絡めてお話できるのは、私の専門分野が「21世紀の風俗」だからだ。
「それにしても本当に、21世紀の人類ってのは、まあ、われわれのご先祖さまにあたるわけだが、随分と小難しいことを考えていたもんだと思うし、我々は本当に効率よく端的に物事を把握できる存在となった。とてもいい時代に生まれてきたと思う」
「頭がふにゃっとしてきた。ヘルメットを脱いで、寝るとするか。21世紀の昔話ってものを読むとしよう。古典だけあって、読むのに難儀するけれども、なぜかぐっすりと眠れるから」
Posted at 2010/05/01 00:40:56 | |
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