2010年05月19日

英米語やフランス語・中国語などと違いドイツ語学習者というのは少なく、したがって、広い世界ではないため、半ば概略的に記すけれども、故人となられたO先生の授業は少しでもドイツ語の魅力を教えようとする気構えに溢れていて、とても好ましかった。
まだお若かったとは思うが、今思い返しても、現代のドイツ語学習者にとって、革新的なまでにドイツの魅力を伝えようとしていたんだなと思う。
先生は喫煙者だったんで、よく一緒に喫煙していたのだけれど、人格も温厚で篤実な人だった。
Jというドイツ人教師のことを思い出した。
日本語堪能でスターレットに乗っていたんだが、こいつの運転が半端なくうまかった。
スキール音をたてて、豪快にドリフト(私有地でやるところがまたすごかった)。
クルマから降りるときはわざわざグラサンをかけて、窓から飛び降りてくるなんて、茶目っ気な性格をもったヤツだった。
余談ながら、隣に86が停まっていて、その隣でやらかした。
86を運転させたらどんだけすごい運転をやらかしていたんだろう?
ニュルで走りこんだのだろうか。
彼のスターレットに乗ったんだが、やっぱり普通のスターレットなんだよな。
「なんでそんなにうまいんだ?」
「ワタシはね、13歳のときからdas Auto(自動車)にのってたの」
まじかよ~!ドイツの人ってみんなそうなんすか?
彼は帰国したが、いまはもしかしたら日本に戻ってきているかもしれない。
ちょっと聞いてみたい気がする。
そんなJにある日言われたもんだ。
「Wさん、やればできるのに、アナタやればできるのに、なんでやんないんデスカ」
ある日、芝生の上でドイツ語学習のことについて指導を受けたことがある。
さぼってばかりいて、当時、まじめにドイツ語を学習したとはいえなかった。
なんというか教室という空間にいるのが億劫なタイプで、晴れ渡っている芝生でいつも寝ていたかった。
学生の常といえばそうなのだけれど、仲の良い友人は持ちつつも、どこかで孤独を求めていた気がする。めぐり合わせで私は大学卒の資格があるけれども、高校を卒業したら働こうとずっと思った。実際にそうした。家を出たかったから。そのあと、やはり大学に行くのも面白いだろうし、いい経験になるだろうと思って、入学した。
だから、普通に高校から大学に進む奴らと良き仲間でありつつも、時折、自分自身について静かに考えたいという気持ちがあったように思える。仲間とつるんだ思い出は尊いけれども、芝生のなかで漠然としたうやむや感みたいなものを考えるのも、今思えばいい経験だったかもしれない。屈折感ではなく、なんといえばいいのだろう。もともとの資質なのかもしれないな。ちょうど、その頃に西洋哲学に興味を持ち出していた。
結局、Jはなぜか私に目をかけてくれていた。とてもありがたいことだと思う。
だから、故人のO先生には黄泉の世界でお礼しようと思うが、Jにはいつか再会して、「ありがとうございました」と言おうと思う。いや、"Vielen Dank"とか言っといたほうがいいのかなもしれない。彼は母国語に誇りを持っていたし。
そんなことを考えている。
Posted at 2010/05/19 22:43:42 | |
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2010年05月19日

「牛に轢かれて善光寺参り」
関東甲信越では有名な言葉ではないかと思います。
上方ではどうなんでしょう?
さて、その信州善光寺で数年に一度ご開帳されるという仏像は実はレプリカなんです。
善光寺の歴史は非常に古く、蘇我氏(渡来系と言われています)と物部氏が仏教導入をめぐって争った際(てことは古墳時代ですね)に、半仏教派の物部氏が、大阪の川に仏像を捨てたそうなんです。
それを本田善光という人が見つけて、信州まで持ち帰ってその仏像をあがめたというのです。もう千年以上も昔の話です。果てしない過去ですね。
いまもその仏像はあるということですが、公開はされていません。あくまでその仏像に似たレプリカがご開帳されるのみです。
秘仏の扱いを受けているわけですが、いつまでも未知のままのほうが風情としてはいいかなとも思います。
物語が構築されている以上は、物語に登場するものも少々、現実世界とは別の世界にいたままのほうがいいと私は思っています。
京都に西本願寺と東本願寺があります。なんで東西分かれているのでしょう。
もともと親鸞が開始した浄土真宗は、蓮如という組織を構築する天才的な人物によって、大いに勢力を伸ばしました。信者を講という組織に分けて、縦だけでなくて横のつながりというのも重視し、以後浄土真宗というのは非常な勢いで栄えます。
今の石川県では守護大名が打倒され、門徒たちによる共和国(?)が百年近く続いたともされています。
こうした浄土真宗の絶頂を打破したのは織田信長でした。当時の仏教勢力というのは武装しており、かなりおっかない存在でした。信長が比叡山を焼き討ちしたりしたのも、こうした宗教勢力の軍事力というものを根本的に廃絶しようという側面からみると、理解しやすいと思います。
信長死去前に、石山(今の大阪)に立てこもった浄土真宗の教祖の顕如は、武装解除を条件に開城(?)し、以後、仏教勢力というのは浄土真宗を含め、非常におとなしい勢力になるのです。
さて、本願寺のお話。
これは豊臣秀吉の死後に、徳川家康が本願寺のさらなる弱体化を狙って、東西に分けたんです。西本願寺は秀吉びいきで、東本願寺は家康びいきと言われていますが、こうした巧みな政策により、東西の本願寺が京都に生まれるようになりました。以後、江戸幕府は檀家制度を設け、住民を特定の宗派の寺に所属させ、徹底的な戸籍管理をしました。いま、お寺さんが葬式仏教といわれるようになったのはこの頃です。逆にこうした動きに動じなかった奈良のお寺では檀家さんがいませんし、お葬式も挙げません。
明治時代に至るまで、日本では神仏習合といって、神社もお寺も渾然一体となっているのが普通でした。鳥居の中に本殿があって、中にお坊さんがいるなんてことは普通だったわけです。こうしたことはごくごく自然に取り入れられてきたのですが、
明治時代に国家神道というイデオロギーを軸に宗教政策を進めようとした明治政府が廃仏毀釈という政策を行ないました。仏教を廃して、神社を保護するという政策です。このときに破壊されたお寺は数多く、奈良の興福寺などは寺領のかなりの部分を簒奪されたようです。明治政府はその後、ややこの極端な政策を緩めますが、今のところ神仏習合を彷彿させるような外観を持つお寺はないですね。鳥居をくぐると
そこに坊さんがいたなんてことはまずないと思います。そんなわけで、割合といい加減なんです。いま、○○神宮と呼ばれているところも、明治以前は○○寺と呼ばれていたなんて例もありますし、こういう複雑というか実にあいまいなところが、日本の宗教観というものがわかりにくい理由であると言えましょう。
*画像は珍しい神道式の墓。会津松平家の墓で、藩祖の保科正之以来、会津藩は神式を尊び、幕府への絶対忠誠を家訓とした
Posted at 2010/05/19 02:17:30 | |
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