2010年10月01日

飼い猫や野良猫、イリオモテヤマネコを含め、いったい日本全国に猫という動物はどれくらい生息しているんだろうか。
日本人の人口がたしか、一億二千六百万くらいだったっけ(この中には猫○ろしも含まれている)。
たぶん、インドやチャイナの人口よりも生態数が多いような気がするんだけれど(10億以上はいるということだ)、実際のところはどうなのだろうか。
そんなことを考えていたら、ねぎまが食べたくなった。
ねぎまっておいしいよねぇ。
「肉→ねぎ→肉→ねぎ」とほおばっていけば、胃袋もご機嫌だ。
もちろん、一気にほおばってもいいし、串を抜いてから食べてもいい。
塩味でもタレでもどちらでも良い。
ところで、
日本の猫の数とねぎまが食べたいという欲求。
この二つに関わり合いを持たせるとしたら何だろう。
人間ってあちらこちらに思考が飛ぶから面白いもんだ。
意識の深い底のなかでは両者は結びついて思考されているんだろうけれど。
大量に生息すると推測される偉大なる猫のうち一匹とご対面。
ご近所さんである。
名前を存じ上げないが、せっかくなので「ねぎま」とあだ名させていただこう。
どうか宜しくお願いします、ねぎまさん。
Posted at 2010/10/01 23:53:28 | |
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とりとめもないこと | その他
2010年10月01日

ちょっと前に妹が手術を受けるというので、病院に行ってきた。
手術は成功で、もうちょいで退院するらしい。
術後は麻酔のせいか、ぐっすりと眠っていたので辞去の挨拶もしなかったけれど、
そんな私も彼女がオペしている間に麻酔無しで爆睡していたというのはここだけの話(笑)
病院のソファに横たえて寝てました。プリメーラで車中泊するときと同じ格好(笑)
○殿場のパチンコ屋の駐車場で野宿できる人間なので、基本的に野性味がたっぷりなのですわ。
私は手術とかそういうものはまず間違えなく成功するだろうと楽観的に見ているし、実際に成功しているので、手術そのものの経過自体についてを主眼に書く気はない。
それよりも、病院や彼女から色々と学んだことがあったなと感じたので、それを覚書で記そうかなと思っている。
堅苦しくないので、お気軽にコメントもお待ちしてますよ(笑)
まず、私は病院という空間が好きじゃなかった。
アホみたいに待たされたりするのも嫌だし、病気をネタにして会話している人たちを見ていたりすると、自分には合わないなと思っていた。
で、人はよく何かがあると病院にいきなさいというけれど、私は自己治癒の力が備わっていることをなんとなく感じているし、上述した理由から病院の門をくぐることは滅多にない。
今回も手術前に面会するということなので、特段に行く必要もあるまいと思っていたけれど、妻が行ってみたいというので、それならば行こうかなと思い、とある大きな病院に行ったという次第。
そして、どうせ病院に入るならば、病院に対するネガティブな気持ちを払拭して、いい面を見いだそうと首都高に乗る前から考えていて(笑)、病院に入ってからもそのいい面を見いだそうとした。
そもそも医師は人間の本来あるべき健康という姿を実現させるために奮闘しているわけだし、看護師も昼夜問わずそれを助けている。往来で行き違う白衣姿の医師や看護師を見て、そんなことを考えていた。
個人的な経験として病院で健康を実現するという考えは持たないけれども、少なくとも病院は健康を実現するための場所であり、そのサポートをする人々が常駐する崇高な空間でもある。
という風に思考の焦点をだんだんと病院(というよりもそこで働くスタッフの方々かな)に対する思いをポジティブな方に持って行くようにした。
そうすると、気分がとてもよくなり、上に記したような病院に対するネガティブな思い(もともと医師や看護師に対する嫌悪はないけど)も立ち消えた。
そういう意味では、私はおよそ病院とは縁がないかもしれないけれど、気持ちの上で病院という対象に対する思いを良い方向に持って行くことができて、とても良かったと思う。
それに病気をネタにしている人たちの会話はなんだか元気で、あれは一種の社交として機能しているのだし、私があれこれと良くない印象を受ける必然性はないなとも考えた。
人はそれぞれだし、私が経験の中でそういう人たちに出会ったとしても、茶飲み話を眺めているような感じで、もっと肯定的な眼差しで見るのが自然であるし、そう考えると、抵抗感みたいなようなものがどんどん取れてくるのが分かった。
まずこれらが今回のブログで覚書することの一点目。
病院空間についての認識の肯定的な変遷だな。
続いて妹についてなんだけれども、私個人は術前であっても特にそわそわするような人間ではなかったし(私も手術した経験アリ)、妹も気丈というか、ごくごく自然体でいた。
ウチには妹が二人いて、この妹は今年転職したのだけれど、のほほんとして自然体でいるなという雰囲気がしていて、気負いというものがない。それでいて意志をしっかり持っているから、転職もうまくいくだろうなと私は人事的な視点で確信していたものだ(笑)
因みに、妹宅にはインターネットをする環境がないので、昨年は時折ウチの部屋を貸していたりしていたのだ。
もともとそういう資質を備えているので、世間的に言えば「大変な手術」ということになるのだろうけれど、彼女の言葉や振る舞いからはそんなことを考えている節は無かったし、実を言えば、私も病院への過去の思いと異なり、手術などの医療行為に関しては、大変なものなど何もないと思っている。
なるようにしかならないわけなのだからね。
本人がどう思うかの問題のように考えている。
そういうわけで、私は改めて彼女の自然体な姿勢に触れ合い、自然体の大切さを再認識させられたし、その意味で私はとてもいい経験を爆睡前後にしたのだと思う。
結局、上記に述べた「大変な」という言葉も、医療的見地から判断してそうだというわけで、大変さをどう認識するか、というより大変かどうかを認識するのは個人次第だと私はやはり考えてしまう。
もともと手術の類に「大変さ」は感じていなかったけれど、彼女の手術における姿勢をみて、その想いがますます強まったし、そもそも「大変」というネガティブな基盤に視点を置くのではなく、ごくごく自然体に流れに任せるのが手術に限らず、
人間にとっては重要なことではないかという気づきを得た。
このことが覚書しておきたいことの二つ目だ。
Posted at 2010/10/01 05:17:35 | |
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