2011年04月13日
もう三年だか四年ほど前になる。
父方の祖父が亡くなってしばらくした頃、冒険心に富んだ私は
夏の盆の前くらいに、東京を出発し、怒涛の雨の中、北東北へ。
秋田の鹿角に着いた頃にはウソみたいに天気がよくなっていた。
鹿角から、十和田湖(秋田県との境でもある)を経由して青森の八戸に宿泊。
十和田湖畔の食堂では、十和田湖ホテルの方によくしてもらった思い出が濃密に頭の中に記憶されている。
翌日は、三沢をとおり、下北半島の一番の先っぽである大間崎から北海道の大地を見た。北海道を対岸に見るなんてことは予想だにしていなかったから感動は大きかった。
私の計算では津軽方面も十分回れるだろうと考えていたものの、青森は思いのほか広く下北半島を周遊し(夜の恐山も通過した)、予定時刻を大幅に遅れて、三陸の久慈(岩手県北東部)の宿に着いたのだった。
もう零時を越えていた。
夏なのにえらく寒かったことを覚えている。
翌日は三陸のリアス式海岸沿いをひたすら南下。
前々から行きたいなと思っていたところだったからとても楽しかった。
リアス式の方々で立ち寄っていたら、仙台に着いたのはもう夜。
みちのくの広さを実感したものだった。
宮古市に浄土ヶ浜という美しい浜がある。海鳥が鳴き、白い岩塊や小石が無数に散らばっているすごく不思議な光景で、とても印象に残っている。
海鮮を食したのち、浜を散策したときに方々に落ちている白い石がとても美しくて、二個ほど家に持って帰った。
今でも大切にしている。
今の浄土ヶ浜(広く三陸地方)の状況は私にはわからない。メディアが報じるとおりだといえばそうだけれど、それよりも私はあの場所で石を拾って持ち帰ったというのがすごく不思議なのだ。
石を持ち帰るという習慣は私にはないので、なぜに美しい白色の石とはいえ、持ち帰る気になったのだろう。
すべすべとしたこの美しい白石は浄土ヶ浜でこそ、よりその美質を発揮するとも思ったのだが、なんとなく持ち帰ろうと考えた。
状況が落ち着いたらまた三陸に行こうと考えているのだけれど、この白石も元の場所に戻すべきだろうか。
それとも旅の思い出として大切に保管しておくべきであろうか。
実はそんなことを考えたりしている。
世の中は例外なく必然が支配していると私は考える。
あのときに、私が白石を持ち帰ったというのも、理由なぞ分かりやしないが、決して偶然ではないのだろう。何らかの意味を持つ必然であろう。
そう思っている。
Posted at 2011/04/13 20:07:16 | |
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とりとめもないこと | 日記
2011年04月13日

私の洗車方法(場所と言い換えてもいいだろう)をごくごく大雑把にご紹介しよう。
大別すると以下のとおり。
1)洗車場で洗う
2)GSでの機械洗車
3)カー用品店・GS・ディーラーで洗車してもらう
4)洗車専門のショップにお任せする
5)自宅前
主にこの五つを適宜使い分けていて、一つの方法があるというわけではない。
なぜなら、それぞれに楽しみがあるから。
寒い冬の中、洗車場でウエス片手に愛車のボディを拭くのも楽しいし(その後
の一服がたまらん)、機械洗車のブラシの動きを観察していると遊園地のアトラクションを堪能している気分になれるし、プロにお任せするとさすがだなと感心する
とともに、愛車がどんどんきれいになる様子を外の視点から眺めることができる。
ついでに言えば、洗車を待っている間にリッチな気分にもなる。
そんなわけで、とかく方法といっても、いろいろな可能性を試しているわけだが、
それでええんじゃないかねぇ。
方法を限定せずに、いろいろな方法を試す。
無論、人にはいろいろな考えがあるけれど、私はそんなわけで、これからも
新たな洗車方法を模索していくつもりである。
Posted at 2011/04/13 18:55:39 | |
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愛車プリメーラ(自動車) | クルマ
2011年04月13日
普段何気なく使っている言葉がある。あるとき、ふと当たり前のごとくその言葉を使っている当人が、なぜこんな表現になっているのだろうと思案にくれた経験はないだろうか。
また、ごくごく単純な表現ながら、外国人にその表現が使われる意味や場合について聞かれたときに、途方にくれたことはないだろうか?
たとえば、助詞の「は」と「が」はどのように使い分けるんですか、なんて言われたときに理路整然と答えられるだろうか。
「大半の人」というときの大半とは全体の何パーセントの人のことを指し示すのか。などなど。
「よろしく」「やっぱり」「虫がいい」「どうせ」「いい加減」「いいえ」「お世話さま」「しとしと」「こころ」「わたし」「気のせい」「まあまあ」「ということ」「春ガキタ」「おもてとうら」「あげくの果て」「かみさん」「ええじゃないか」「もったいない」「ざっくばらん」「どうも」「意地」「参った、参った」「かたづける」
これらは『日本語の表と裏』のなかにある目次だが、これらの語義だけを扱うわけではない。表題の語句を通じて、著者の海外や日常での経験、外国人や自身の人との交わりなどを通じて、コラム的な筆致で難解そうな事柄をうまく読み進めさせていく。
一例を挙げよう。
「虫がいい」であれば、「虫がすかない」とか「虫唾がはしる」といった虫にまつわる関連語を列挙し、なぜこういう表現をするのかという考察を、日本人のメンタリティや日本社会の構造、日本の気候風土など、さまざまな観点から半ば実験的に分析して推理していく。
「虫」に関していえば、著者はフロイトが唱えたリビドーと同じようなものではないかと推測する。つまり、虫というのは無意識の底に沈殿しているものであるが、何かのきっかけで意識に浮かび上がってくるものである。ゆえに、自分の意志ではどうにもならない精神や本能を指し示しており、これを虫と呼んだのではないかという具合に論を展開していく。
上に挙げた「は」と「が」の使い方の違いについては、諸説を紹介しつつも、著者自体、推測としての仮定を出す段階がやっとのことという按配である。
そう、仮説なのである。
著者自身もそれは認めている。
1)「春が来た 冬は去った」
2)「春は来た 冬が去った」
3)「春が来た 冬が去った」
4)「春は来た 冬は去った」
どれも正しいのだろうか。私はなんとなく1)がしっくりくるのだが、その理由を論理的には説明できない。感覚的にそう思うのみである。
私は何気ない言葉を掘り下げても完全に得心が行くということはありえないと思う。それほどに言葉の世界とは多様であり、広漠だと思うからだ。
そしてまた、「ということ」という項目で著者がいみじくも指摘するように、本来は具体的な事物を表すことから抽象的な事柄を表現するというのが言語の成長過程であった。しかしながら、日本ではヤマト言葉が抽象表現を大いに発達させる前にすでに抽象表現をたくさん持っていた漢語を輸入した。
抽象的な表現を独自に育てあげなかったためか、日本では抽象的な表現があまり好かれない。なぜなら、ヤマト言葉として抽象化された言葉でないために、どうもわれわれには馴染みがないのだ。
しばしば「難しい文章」とか「わかりやすい文章」ということが論じられることがあるが、おそらく語彙が多く専門用語が多く、文法構造も複雑極まりないから難しい文章であるとは言えないと思う。
わたしたちは抽象的な事柄を論じるとき(たとえば、「木」とか「花」とかといった具体的な対象を示す言葉ではなく、「自然環境」という抽象的な事柄を論じたりする)、上代以後に大量に輸入された漢語や明治時代に入ってきた西洋語に頼って表現するほかない。だから、どうにもこうにも言語としての感覚が日本語らしくないから難しいと感じるのではないだろうか。
また、「わかりやすい文章」とは何だろう。
誰にでもわかるような語彙のみを使い、平易な言葉のみを使う。これがわかりやすい文章なのであろうか。
それはそれでいいとは思うし、「わかりやすさ」ということをわたしも希求していきたいが、今のところ漢語や西洋語が入り混じった日本語のなかで、「わかりやすさ」をあらゆる領域で発揮するのはかなり困難なようだ。
だが、私は敢えてそれを克服してみたいと思う。福沢諭吉の簡潔明瞭な文章のように。ヤマト言葉にこだわる必要もない。
漢語の導入は千年以上も昔の話だ。いまある日本語をどのように「わかりやすく」表現していくか。これがもしかしたら日本語の表現の豊かさをさらに拡大させるきっかけとなりうるのではないかと私は思う。
文庫本に所収された本書は枚数も少ないながらも、私たちが当たり前のようにして使っている言葉というものについて、強く感じさせてくれる。のみならず、著者が分析した言葉の語義・意味合いについての推理作業の鮮やかさを眺める楽しみもある。お勧めの一冊である。
『日本語 表と裏』(森本哲郎著・新潮文庫)
定価:400円+税
ISBN:978-4-10-107311-8(←この番号を書店さんに伝えると書店員さんの検索の手間が省けます)
Posted at 2011/04/13 18:34:25 | |
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