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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2012年04月04日 イイね!

今日もエネルギー満開

今日もエネルギー満開お風呂に浸かり、芋焼酎トマトジュース割り(タバスコを少々)を飲んで、さらにエネルギーが増してきました。こんばんは。

都内でも桜の花がほぼ満開になりましたね。
実に不思議なもので、桜のピンクの花びらが咲き誇っている様を見るだけで、ワクワクした気持ちになるんです。
私も正しく日本人なんですね。
性格がイタリア人ぽいと言われますけれど(笑)
ピザやパスタ、ラザニアなどとことんイタリアの料理は好きですし、「ナポリを見て死ね」の格言にあるようにナポリなどイタリアらしい都市や田舎を散策したいとずっと思っています。アバルトやアルファロメオなどもいいですよね!

さて、四月になり陽気が急激に温暖になりました。
GSで空気圧調整と給油をしたあとに、テニス練習場でサーブやストロークを楽しんできたのですが、夜にも関わらず暖かかったですね。
運動量の関係もありますが、Tシャツ一枚でプレイをしたのは今年初です。
因みに、今日は「ぽんっ」という気持ちのいい音を連発させました。暖かいのでボールが当たる音も良いのでしょうね。
それと、私が上手なのでしょうね(笑)
ともあれ、絶好調でした。
コートを借りてどんどんプレイしたいです。



さて、今日一日に感謝して、明日も明るくいい気分で過ごすことにしよう。








Posted at 2012/04/04 23:24:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | ほのぼのとした日常 | 日記
2012年04月04日 イイね!

一泊二日淡路島の旅 【淡路島南岸・西岸 陵と大海原篇】

一泊二日淡路島の旅 【淡路島南岸・西岸 陵と大海原篇】  承前
淡路島東岸沿いを南下しつつある(南淡路水仙ライン)。
中途にやや険しい山岳路のような道路があったものの、後半(淡路島南部)はもっぱら西方に広がる大海原をほぼ間断なく見ながら進んできた。
海峡の海原は船舶の往来が非常に盛んで、船の機関が発する「ゴー」という音だけが、蒼くて静かな海原の上で静かに響き渡っている姿が印象的であった。



クルマの進路から向かって北西の方角に沼島という小さな島が見えた。
小さいといっても汽船が発着するくらいの規模はある。
「古事記」では、イザナギとイザナミの夫婦が別天津神(ことあまつがみ)たちに大地を完成させることを命じられる件がある。
別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)なる矛を与えた。
イザナギ・イザナミ夫婦神は天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛でもって渾沌とした大地をかき混ぜたという。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって島となった。
この島のことをオノゴロ島というのだが、沼島がそうではないかとされている。
この沼島(オノゴロ島)を軸に夫婦は淡路島などの島々を生み出していったのである。
古い神話時代の事柄を収録した「古事記」が完成・献上された712年という年は、平城京ができて二年後となる。日本の都が大和の奈良にあったわけで、淡路島からもものすごく遠い地域ではない。
平城の都ができる遙か前に、この淡路島や付近で、大和朝廷に関わる何らかの事柄が起きたものと思われる。

淡路島南部までクルマを進め、やがて道をやや内陸にとると、たまねぎ畑や小さな里山が散在するのどかな風景が周囲を覆い、水仙や菜の花が煌びやかに咲いている風景の中に包み込まれた。今までのルートとは相貌の異なる淡路島の風景であった。



淡路島自体は既に述べたように、神代の時代の欄に既に記述されている程に歴史的に古い土地である。にも関わらず、大がかりな伝統的遺物が整然と並んでいるという風ではなく、いい意味でのんびりとした田舎であった(ただし、中心部の洲本市などはかなり発展している)。
つまり、古格を備えながらも、その表面的な風貌はのどかな風景が千年も続いてきたような感がする土地であり、もしも、上代の人間の営為を探し求める(想像しようとする)のであれば、現代の淡路島の人文・自然風景をそのまま見るのが一番なような気もする。
私の印象である。

再び海原が見える場所に来た。南側に海を面した地域で、海原の遠景にはおそらく四国と思われる陸地がうっすらとあわあわと浮き上がっていたことが印象的である。
海のすぐ近くまでクルマを運転し、しばらくクルマのエンジンを停めて、さざなみの規則的な音と時折彼方から聞こえる船舶のエンジン音のみを聞いていた。
実に静かな土地である。
阿万(あま)海岸という。
家屋の姿も見えないような場所ではないものの、往来する人はまばらである。
ここでも海は蒼く、そして空は輝いていた。





淡路島南部の海沿いの道を西へと進む。すると、徐々に登坂がきつくなり、ワインディングが連続する道路に変貌した。周囲は木々に覆われ、海原は姿を消した。
吹上という場所に向かっているようだ。
やがて、数度のカーブをクリアして登坂すると、いくつかのリゾートホテルが見えてきた。また、視界が徐々に広くなってきて、また空が輝き始めた。そして、海原が眼下に近景に遠景に見えてくるようになった。非常な絶景である。ちょうど、淡路島から徳島県の鳴門の間を架橋している橋も見える。




眼下には内海を擁した街が見えた。福良と呼ばれる集落らしい。淡路島南部では比較的賑やかな場所で、南あわじ市の中心部なのではないだろうか。
渦潮ツアーのための船舶が発着している港があり、そこで食事をとった。
渦潮という自然現象に関しては大いに興をそそられているが、此度は見送って再訪時に改めて見に行こうと思った。きっと渦を巻いた潮の競演を堪能できるだろう。



※徳島名産のすだちのジュース

さて、食事処ではやはり、海の幸が豊富であったが、淡路島はどうやらたまねぎの産地らしく、お土産屋ではたまねぎに関連した商品が多数売られていた。
たまねぎ栽培の歴史は非常に古く四千年もの歴史があるとされている。ただし、日本に本格的に導入されたのは明治になってからで、明治4年に北海道開拓使によって持ち込まれたものらしい。
ところで、たまねぎは当初、日本人の味覚に合わずに、明治後年以降は海外へ輸出されていたらしい。たまねぎが日本人の舌に盛んに入るようになってからは戦後からのようである。
淡路島のたまねぎ栽培が本格化された時期はわからないが、明治の頃から栽培されていたとすれば、盛んに船に積載されて輸出されていたはずである。或いは一旦は大阪や東京まで輸送されたのか。いずれにせよ、船を利用して輸送していたことは間違いなく、四方をこれだけのダイナミックな海原に囲まれていると、往時の様子がかなり明瞭に想像される。

お腹を満たしたのち、再び内陸部に進む。八幡という交差点にさしかかったところ、右前方に丸っこい小さな里山を見つけた。
付近はたまねぎ畑に囲まれた場所で、これといってなにもないような場所ではあったが、里山の一角に至るにおよび、そこが奈良時代に在世した淳仁天皇の陵であることがわかった。



淳仁天皇は淡路廃帝とも呼ばれている。在位途中で帝の地位を剥奪されたのである。
淳仁帝は弓削道鏡との関係で有名な孝謙女帝が活躍した時代に生まれた。
孝謙から帝位を譲られた淳仁帝は、道鏡を重用する称徳に批判的だったため、天皇の地位を孝謙から剥奪されてしまった。その後、孝謙は再び天皇となり(これを重祚〔ちょうそ〕という)、こののちに称徳天皇と呼ばれる(注:天皇の呼び名は死後に追贈されるものであり、在世中・存命中は名称では呼ばれない)。そして、ますます道鏡を重用していくようになる。
当時、藤原仲麻呂という人物が孝謙と蜜月であった。孝謙は彼に恵美押勝という美名まで与えている。仲麻呂は一時期、大いなる権勢を誇った。
しかし、次第に孝謙に疎んじられ、追い込まれた仲麻呂が乱を起こしたときに、淳仁帝は仲麻呂との仲の良さを理由に乱の関与を疑われ、親王待遇に降下され、淡路島に流され、その地で没したとされている。死因は不明である。
たまねぎ畑の間を縫う狭い道を通り、ざっと陵の周囲を回ってみた。
本当にのどかな風景が広がるだけで、生々しい平城京の政治臭など一切しない。
もっとももう千三百年ほど昔の話であるが。
ともあれ、淳仁は淡路島に陵を持っていて安らかに眠っていることは確かだった(天皇陵というのは謎が多いが、淳仁帝が淡路島に流されたことはほぼ確実で、淳仁の陵とされている地もほぼ彼自身が埋葬されている可能性が高いと思う)。



再び海原を見た。紀淡海峡以上の大海原で対岸が見えないほどである。淡路島西岸地域はこのような広大な大海原と接しており、波が穏やかであるという点を除けば、太平洋や日本海などの外洋とあまり変わらないような気もした。
大海原を西の方角に擁するこの付近は夕日の美しさで知られているようだ。西岸沿いを走る淡路サンセットラインを走破する機会を得たが、まだ日が海原の中に沈むまえに
通過したので、荘厳な夕日は見られなかった。ただ、さぞ大がかりな自然が織りなす舞台装置が展開されるのだろうなという想像は付いた。向こう岸の見えない大海原に沈む赤い太陽。赤い太陽に照らされたオレンジ色に輝く海原。これらがサンセットラインを静かに照らす。そして空は闇になり、海原はその姿を消す。




北淡(ほくだん)というICから本四連絡道(神戸淡路鳴門自動車道)に乗り、行きと同様に淡路SAに立ち寄り、美しい都会美を堪能した。明石海峡大橋を渡れば、久方ぶりの本州であり、阪神高速から再び神戸の夜景を堪能しながら、東へ東へと進路を進めた。
淡路島一泊二日の旅の幕は閉じた。
(了)







*本文中の「阿倍仲麻呂」は「藤原仲麻呂」の間違えです。訂正いたしました。
 (付記:ブログを書いた当初、藤原仲麻呂を阿部仲麻呂と表記していた)
 阿倍仲麻呂は遣唐使に乗船した人物です。
 該博な知識で、当時の唐の皇帝に気に入られ、なかなか帰国が果たせず(諸説あ
 り)、ようやく帰国許可を得るも、船が嵐で座礁し、またもや中国に戻ってしまい、
 一生を大陸で過ごした人物です。同期に俊英でなる吉備真備がいます。
 百人一首で有名な「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月か 
 も」という歌は望郷の念を強くした、阿部仲麻呂が詠んだ歌として親しまれていま 
 す。
 一方、藤原仲麻呂は前時代の藤原不比等とともに千年以上にわたる藤原氏の隆
 盛の礎を作った人物という評価ができるかもしれません。ただし、あまりにも権力を
 持ちすぎたために、他の藤原家からも追い落とされた結果にもなりました。しかしな
 がら、藤原氏の勢力は以後さらに拡張します。
Posted at 2012/04/04 18:47:46 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「薬害にもめげずに本宮山ニュル攻め。まあ、私だけならいつ朽ちても惜しくはない。が、辛いのはイヤですね。
作手の鳥居強右衛門夫妻の墓前。
安全制御類はオフにするのが肝要。走りにくい。」
何シテル?   06/17 11:26
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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