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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2011年04月11日 イイね!

祖父母が関東入り

祖父母が関東入り以下、備忘録として。
無論、忌憚なくコメントもどうぞ~!

先だって、いわきに住んでいた祖父母がついに神奈川に避難し、当地に移住することになりました。永住の意図があるか否かは聞いていません。
すべてを決めるのは彼らですしね。

屋根が崩落したといういわきの祖父母の家については、いまだ崩落箇所をブルーシートで覆っている状況かと思いますが、祖母の知人の被災者の方に提供したようです。これはこれで良かったのかと。

ここでやはり過去の思い出がよぎります。
国鉄常磐線の赤電でよく平駅(いまのいわき駅)まで行ったものです。絶壁対座シートで喫煙している人も多かったですね。
常磐交通バスの色も昔は青みがかっていた記憶があります。
平泉を旅していた後のことも思い出しました。
帰路は平泉から仙台まで鈍行。さらに仙台からは常磐線鈍行を使って(この頃は赤電は無くなってました)いわき辺りで終電となり、急遽泊めてもらったことも。長旅でした(笑)
高校時代にギア付原付(NS-1)で祖父母宅にアポ無しで行ったときは随分と驚かれたものです。
「どうすて、バイグで来だの?」なんて言われました。バイクで行きたかったからですわな(笑)
クルマで水戸街道(つまり下道)を使って来訪したときは、「お金やっがらぁ、高速さ使え」なんて言われたことも。純粋に下道で行きたかっただけだったのですが、一万円をもらいました(笑)
幼少期は常磐道なんてなくて、親父が数時間くらいかけて6号線(水戸街道)を駆け抜けていましたから、今は驚くほど首都圏から近くなったものです。
とりとめもなく、思い浮かびますな。

何れにしても、また薄磯海岸や豊間海岸で海水浴をし、小名浜で新鮮な魚を味わい、鹿島街道を通ってヨークベニマルに行ってみたいです。

以上、備忘録とはやや懸け離れましたが、筆の勢いのままに。
Posted at 2011/04/11 21:21:22 | コメント(2) | トラックバック(0) | 地震 | 暮らし/家族
2011年04月10日 イイね!

腐道を味わう 京都府道733号線柚原向日線

腐道を味わう 京都府道733号線柚原向日線先だっての北摂・洛中の旅路において通過した、自動車の細かな運転技術(先を予測したり、加減速を調整したり、ステアリングのきり方などをいつも以上に勘案する等)が試される面白い道路を改めてご紹介しようと思う。
京都府道733号線柚原向日線といい、北摂の山の中から京都府に入るとすぐに733号線に入る。
巷に言われている酷道に類する道路であろう。
ただ、京都府管轄の道(府道)であるから、この場合は「腐道」と呼ぶのが適切かもしれない。



スタート地点となる京都府西隣部は長閑そのものの小規模な農家集落が集まっている気分のいい場所である。
京都は市街(洛中)を除けば、空恐ろしいほどに現代から隔絶されたような、長閑で時が止まったような風景をたくさん見ることができる。
京都の寺社を見物するのも素晴らしいが、私としては是非とも、時間の流れが極めて緩慢な京都の鄙びた風情も味わっていただきたいのである。

京都洛中が三方を山で囲まれた盆地であることはご承知であろう。
余談を差し挟めば、明治時代までは山のない南方にも小椋池という巨大な池があった。今も地名として残っているのではないか。
この京都の地勢条件を見ていくと、風水思想に基づいて設計されたことがわかる。
風水では北(玄武)を山、東(青龍)を川、南(朱雀)を平地・湖(海)、西(白虎)
を道で覆うと良いとされている。四神相応の地という。
北の方角には北山や洛北の山が聳え立っている。金閣寺などがある方角だ。
東の方角には加茂川がある。南の方角には上に述べたように池があった。
西の方角には山陰道が伸びていた(今も伸びている)。
なお、北東の鬼門の方角には比叡山延暦寺を配置しており、これは風水の観点から言えば、完璧である。
ちなみに、東京(江戸)も同様の発想で作られた都市なのだがお気づきだろうか。北(玄武)の方角の山というのがわかりにくいかもしれないが、東京都区部にも山と言われている箇所はいくつかあるはずである。以上がヒントである。





話を京都に戻すが、上の画像のような道を走っていると京洛の西側も深い山中なんだなという実感を強くする。市街地は寺社のみならず、大小さまざまな住居や工場などがあり、殷賑を極めているが、そこに至る道のりは非常に険しい。



離合困難なほどに狭隘な道が続くために、撮影箇所が限られてくる。しかしながら、是非とも皆様にも私と同じように腐道をのんびりと運転していただきたい。
教習所で練習したクランク走行などを今一度思いだし、クルマの車体感覚を意識するまでもないまでに刷り込みながらに、悠々と道路と景色を堪能して欲しい。
なお中途、地元のクルマとのすれ違いがあるが、地元のクルマは大変に離合に慣れているので、敬意を表しながら、手で合図するなどちょっとしたコミュニケーションをとるのもよかろう。



なお、狭隘路の常として車体横からの撮影は極めて困難である。ズームアウトしても車体全部が収まりきらなかった。
愛車の横からの姿を収めたい人は真横ではなく、アングルを少し斜め横にするといいかもしれない。全長の短い自動車ならば問題はなかろうが、3ナンバークラスのセダンなどは写真を収めるのが難しいかもしれない。
しかし、だからこそ挑戦していただきたいと私は思う。
それが道路と愛車との対話である。
牽強付会な論であるが、たとえばプレジデントの真横の姿をこの腐道で収めた写真を私は期待して待っている。



逢坂峠という標記を見つけた。畿内では有名なのだろうか。
ところで、逢坂の関というのが古の歌などでよく詠まれているが、歌でよく詠まれている関とは山城(京都府の一部)と近江(滋賀県)の境と言われている。
だが、逢坂の関というのは京都近郊を中心にいくつかあったのだと私は思うのだ。みやこに出ずるもの、入るものがお互いに逢う、険しい山坂の道にある京洛に至る関所が随所にあっても不思議ではない。ここの腐道の逢坂峠という名称も、後世に付けられた道だとしても、逢坂と名づけるだけの風韻があったればこそ名づけられたのだと思う。
とが多い。
なお、「逢坂」という固有名詞は「逢う」という言葉と掛けて、恋歌として使用されたことが多い。
一例を挙げる。

夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ(清少納言)

所用で急に清少納言のもとを立ち去った男が、鳥の声を真似て関所を開けさせて(中国にそういう故事があるようだ)また会いたいといった和歌に対する返歌である。
鳥の声なぞまねてももう逢いませんわ(許しませんわ)という感じだろうか。
実はまた来て欲しいのだけれど、ついついそんなことを言ってしまう清少納言の
やりきれない気持ちが伝わるようである。
こういう女性は健気で私は好きである。が、どうもこの和歌での清少納言は恨みがましいような感じもして、当時の文化習慣に照らし合わせればやむをえないにせよ、もう少し可愛げのある歌を作って欲しかった。





逢坂の峠を越えると、当然今度は道を下ることになる。
道を下れば、いよいよ殷賑の京洛の町並みに入るわけだが、それまでの道のりというのは非常に険しい。
現在においてもそうなのだから、過去においての旅というものの険しさについて思いはせざるを得ない。
同時に、気軽に険路・隘路を通過できる今の環境にとても感謝しているのである。

フォトアルバムはこちら→腐道を味わう 京都府道733号線柚原向日線






Posted at 2011/04/10 09:56:51 | コメント(3) | トラックバック(0) | 酷道 | クルマ
2011年04月09日 イイね!

ネタをたくさん食らう

ネタをたくさん食らう先ほど、愛車にて自宅に帰宅。
白いバスローブを着て、眼下に見える東京の街を見下ろしています。
胸毛は見えないようにバスローブを着ていますので、その点はご心配なく(^^v
現在、実に朗らかな満足した気持ちでいます。
朗らかな満足した気持ちになる理由は、画像をご覧になれば
予想が付くとは思いますが、そう「ネタ」です!

いったん、帰宅したのちにお寿司が食べたくなり(第一の欲求)、
且つ、自動車を運転したくなりました(第二の欲求)。
この二つの欲求を満たすため、自動車で郊外まで走り、ぐるぐる回る
お寿司屋さんで寿司ネタ三昧を繰り広げたという次第です^^v

道中、先週の京都市街での給油以来、初めてガソリンを給油し、洗車をしました。
ところで、私はノズルをぶっさすときにとてつもないカタルシス(恍惚感)を感じます。そうカタルシスです。白目をひんむいちゃいそうなくらいに(^^;;
実は学生時分にスタンドのアルバイトをしていたこともあり、ノズルを触るとついつい「ハイオク満タン入りま~す」とか「キャップロックOK!」といった掛け声を
発したくなり、此度も掛け声をかけて、往時を思い出しました(笑)
なお、洗車後の拭き取りは件のバイトで教わった拭き方に基づいて、屋根部分から下へ下へと拭きおろしていきます。
拭き方は外枠を拭いてから、地面と垂直にウェスを動かします。
もちろん、ワイパーはあげておきます(ワイパーをあげることができない車種も
ありますが、ウチの愛車はごくごく標準的なワイパーブレード構造です)。
トランク部も案外と水分が入るのでケアをしましょう。皆さんはケアしておりますか?
我が愛車のトランク内には、ECUやステアリング、パワーウィンドウレギュレータ、ヘッドライトレンズ、タワーバーやら、あれこれ部品が満載されており、ちょっとした解体屋風情になっておりますが(笑)、もともとFFでフロントヘビーなクルマゆえに、リアに荷重をかけることでバランスが向上するのではないかと前向きに考えております、ハイ♪

スタンドを出た後はいよいよ回るお寿司屋さんへ♪
いろいろな寿司ネタが回っています。
私の辞書に「嫌いな食べ物」という表現はないので、すべてのものをおいしくいただきました♪
ただ、ここであえて好きな寿司ネタをいくつか選べといわれれば、アボガド・海老にマヨネーズをかけたもの、あん肝、トロサーモンの三つを選ぶと思います。
ええ、これら三つのネタも賞味いたしました^^v

ああ、幸せな気分♪(BGMは「星のラブレター」) 
白いバスローブを着ているものの、表情はデューク東郷とはおよそ正反対の穏やかな表情をしております(チュドン)。
「きっ、きさまはゴルゴ、、松本」
Posted at 2011/04/09 23:33:44 | コメント(4) | トラックバック(0) | とりとめもないこと | グルメ/料理
2011年04月09日 イイね!

芋焼酎 この甘美なるもの

芋焼酎 この甘美なるもの芋焼酎が好きです。昔は日本酒もたしなんでいましたが、いまはもっぱら芋です。時折、ビールを飲むという案配でしょうか。

特に自宅ではたまに晩酌する程度なのですが、アルコール分解が極めて迅速に行われているらしく、ぐいぐいと飲むこともあります。

銘柄にはあまり拘りませんが、「佐藤」や「森伊蔵」なども飲んだことがあります。
殊に芋に関してはどんな銘柄のどんな舌触りでもおいしくいただけます。
このような点に芋への愛らしさを感じます。

では、そろそろ十杯目に行きます(笑)
Posted at 2011/04/09 00:59:34 | コメント(4) | トラックバック(0) | 自宅でまったりと | グルメ/料理
2011年04月08日 イイね!

いざ鎌倉 高徳院大仏編 ~実は謎めいた鎌倉大仏~

いざ鎌倉 高徳院大仏編 ~実は謎めいた鎌倉大仏~
鎌倉の名刹長谷寺のほぼ真向かい辺りの位置に高徳院はある。
長谷寺を探訪したあとに、当所に立ち寄った次第である。
いざ鎌倉 長谷寺編

境内はほかの鎌倉の著名な寺に比べると狭く、地味な印象を受ける。
ただし、観光客はひっきりなしに訪れるのは、言わずと知れた鎌倉の大仏
が鎮座されているからである。

大仏を建立する理由として、
1)仏道による加護を求める
2)仏道への崇敬の心
3)巨大建造仏を造成することによる権力の誇示
などが考えられるかもしれないが、
私は日本の大仏というのは、
4)怨霊封じのために大仏の偉大な力を使う
という要素も多いように思える。

奈良の東大寺では莫大な国費を消費して、世界に冠たる大仏殿を造営したが、
時の帝の聖武天皇がよほどの浪費好きであったという話は聞かないし、相次ぐ天災や飢饉を逃れるために仏法にすがったのだろう。
ただし、日本の場合、天災や飢餓は不慮の死を遂げたものが祟りを起こすことによって生じると信じられていたことにも留意したい。

平安期に菅原道真が大宰府に左遷され、やがて不慮の死を遂げたのち、京洛では要人の死や落雷など数々の悲劇が起こり、人々はこれを道真の祟りであるとした。したがって、道真を神として祀ることで、逆に私たちに益することをしてもらおう(こうした発想を御霊信仰という。祟りを起こしている死人を厚く敬えば、
その死人は逆に私たちを加護してくれるという日本固有の発想である)と考えたのであろう。

さて、聖武天皇の場合は古来の神道ではなく、当時は真新しかった仏教に救済を求めていたように思える。仏道への篤心も高かっただろうが、この時代の仏教は学者である僧侶が務めるような国家による仏教で、後の世のように念仏を唱えれば救われるだとか、禅による解脱といったことはまだまだ生まれていない。
(ちなみに念仏を唱えれば救われるという発想は日本仏教独自のものである)
もちろん、聖武天皇は当時の人間として、怨霊の存在にもおびえていただろう。ゆえに、東大寺の巨大な大仏殿を造ったのであろうというのが推論の一つとして考えられる。

この考えを補足するものとしては、その後奈良の大仏があっけなく捨てられ、都が平安京に移ってしまうことである。
当時、力をつけてきた奈良の寺社勢力の影響を逃れるためという説明もあるが、
それならば、なぜ平安京以前に築営された長岡京はあっけなく捨てられたのか。
確かに、平城京以前では遷都は頻繁にあり、首都という発想におよそ乏しかった。だから、平城京はいささか長命したけれども、やはり御座所を遷すという発想
が残っていて、それゆえに長岡京や平安京に移動したと考えられなくもない。
ただし、平安京に遷都してからはご存知のとおり千年以上のこの国の都であった。
とするとやはり疑問は残る。
平城京(大仏)はなぜかくもあっさり捨てられたのだろう。
たとえば、聖武天皇が秦の始皇帝のような独裁者であり、それを革命により殲滅する。こういう原理に基づくならば、聖武天皇の権力の象徴とも解釈できる大仏殿が見捨てられるということも考えられるが、日本の歴史では大掛かりな政権交代はない。諸外国であれば、大仏どころか平城京自体にも火をつけて滅ぼしていたことであろうが、聖武天皇崩御ののちもしばらく平城京は天皇がまします都だったのだ。

だから、やはり大仏建立というのは聖武天皇の純粋な宗教心の発露による仏法を利用しての国家鎮護であり、加えて祟り封じのための宗教装置だったと考えるのが今のところ適切だと思う。

さて、前置きが長くなったが鎌倉の大仏についてはこの怨霊思想というものが当てはまるのかどうか実は疑問である。
鎌倉大仏の創建自体も謎めいた部分が多いのだが、まず鎌倉時代の実質的な政権担当者は幕府(武士)である。
そもそも武士というのは怨霊という思想に関しては天皇や公家に比べると薄い。
なぜならば、戦闘行為で殺生を行うのが常で、怨霊を怖がっていては武士という存在自体成立しない。
また、天皇や公家において特に怨霊思想が膾炙していたとすれば、東国では怨霊に対する恐怖というのは若干薄れるのではないかとも思う。
ただ、鎌倉幕府の創健者の源頼朝は源氏という名門の御曹司であり、京都の文化も味わってきた(その後、平家の隆盛とともに、実に長い時間を伊豆の離れ小島で過ごすことになるわけだが)。
ゆえに、頼朝には怨霊に関する恐怖はあったかもしれず、彼の異常なほどの信心深さ(毎日、読経を欠かさなかったという)は、もしかしたら怨霊への恐怖かもしれない。

ただし、言い伝えによれば、頼朝が死去して北条執権体制が確立されてから鎌倉の大仏は創建されたのだから、頼朝の意思が鎌倉の大仏に反映されているかどうかは疑問である。それではなんのために大きな大仏を作ったのだろう。
鎌倉の大仏は何度も倒壊している。その都度、再建されてきた。
京都(朝廷)に対する対抗心からであろうか。

もともと鎌倉の大仏には東大寺と同様、大仏を覆う屋根が被さっていたが、度重なる倒壊でついに屋根は再建されることなく、今日に至っている。
上屋がなくとも、確かに大仏そのものは鎮座していると考えれば、いかにも武士らしい合理精神の発露とも考えられなくないが、今もって、鎌倉の大仏が建立された理由を明確にあぶりだすことができないでいる。

実は非常に謎めいているのが鎌倉の大仏なのであった。
機会があれば拝観されたい。









Posted at 2011/04/08 18:28:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域

プロフィール

「たこ焼きを食べるためだけに家内と瑞穂町(東京都)まで行ってきましたー
クルマ仲間も入店してきたりして、びっくりしました。再訪確定です!」
何シテル?   07/28 23:13
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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