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ワルめーら@Terryのブログ一覧

2013年03月18日 イイね!

今年に入ってからの旅のまとめ【盛岡・秋田・外房】その他

今年に入ってからの旅のまとめ【盛岡・秋田・外房】その他雨が降るというし、いまのうちに洗濯物を取り込んでおこうかな。
ということで、ただいまプチ独身生活中のワルめーらです。

伊良湖・紀州紀行が迫ってきました。
まだ三月ですが、今年も随分と活発に動いているなと思っている次第です。
気が向いたので、今年の宿泊旅を順繰りに挙げることにしました。
なにせ、1テラ容量のポータブルハードディスクを購入したので、過去の写真を探してポストするなんてラクラクですから。

元旦早々から盛岡一泊。
新幹線で東京から僅か二時間半ほどの旅程でした。
盛岡市街に温泉が無かったため(少し郊外に出るとあるようです)、温泉が湧き出るスーパー銭湯まで歩きましたね。
盛岡から一駅だけ鉄道に乗り、その後20分ほど歩きますが、結局地図もないまま市街地を散策するような適当旅だったので、鉄道に乗ったのは初日のみ(二日目も同じスーパー銭湯に行きました)で、あとは間断なく降る雪のなかを行軍という塩梅でした。
とはいえ、二日目の帰路はチェーン付のバスに乗ってみたくて、盛岡市街地までバスに乗ってみました。いやはや、この雪でよく走れるもんだ。




同じく一月の中旬過ぎかな。懲りもせずまたもや北国へ。
今度は盛岡よりさらに二時間かかる秋田へ。今回も新幹線ながら、盛岡からは在来線と同じ線路を走るので、四時間ほどの旅程。
温泉は露天雪見風呂となりました(盛岡でもそうでしたが)。
なお、海が見える画像は秋田港に聳えるタワーから撮影したものですが、秋田駅近辺からはかなりの距離があります。が、雪中行軍しました(笑)
帰りは途中まで適当に歩き、ようやく秋田駅行きのバスを掴まえ、チェーンのごとごと音を楽しんできました。
男鹿半島(秋田港から見える頂に白妙を抱える山が見える方向がそうです)に行きたかったのですが、秋田新幹線以外は稀なる積雪のため、車両を動かすこともできずに欠便が相次いでいました。春先に男鹿半島に行ったことがあるのですが、是非とも冬に行ってみたかった。
来年はスタッドレスで行ってみようか。




二月は活動を控えめにし、三月に入ってから初の自動車での宿泊旅。
近場の外房で一足早い春を満喫しました。
桜や菜の花が咲いており、東京よりも二足くらい早い春の訪れを感じた次第です。
上の旅行との対比がまた面白いですね。
この旅行では個人所有の島に渡船できたことも大きな収穫でしたし、近場の房総半島の魅力をより一層味わうことができました。




そして、伊良湖・那智勝浦紀行となるのですが(以前のブログ等でもさんざん書いていますが重複ご容赦を)、何をするかを決めていないんです(笑)
私は無理して観光をしようとしなくてもいいと思っています。
観光のための観光ではなく、楽しみのための観光であるべきだろうと私は考えています。
そうすると、楽しいことが引き寄せられてくる。
経験上、そんな気がしています。
私は時間を無限に使うことができますし、時間の支配者だとさえ思っています。
ですので、安穏と旅路を楽しむのみです。
ぼんやりとホテル内で過ごすのも良いでしょうね。
だいたい旅路には数冊の本を持っていきますが、ホテルでぐたっと休むことも多いです。
私なりの旅論はともかくとして。

此度は伊良湖岬から対岸の紀伊半島鳥羽までカーフェリーを使います。
これがまた楽しみなんです。
55分の船旅なのですが、はてさてどうやって過ごそうかしら。
那智勝浦の宿は、予約してから知ったのですが、小さな島の中にあるようです。
露天風呂が海のまさに隣に接しているという風で、最近はどうも島に縁がある気がします(笑)
さて、那智勝浦を含む紀州を一通り回ると、おそらくフェリーに間に合わないでしょうから、車中泊かネット喫茶泊でしょうか。厚手の掛け毛布も持っていくようにしておきます(笑)
決めていないといいながら、漠然とは考えている。
しかし、道中でどうするかは気ままに任せる。
それが私の旅のスタイルかもしれません。
て、また旅論を述べましたが(笑)




那智勝浦は以前乗っていた黒色のプリメーラ(今のプリメーラで二台目なのです・笑)で半島を一周して以来ですね。



ビル足にBBSホイールの組み合わせで、渋みとやんちゃ度が満点でした。
今でもリアスポなど一部部品を現在の愛車に流用しています。

話が右へ左へと揺れ動いていますが、見てくださる方々の中には自身も旅をした気分になるというふうに評価してくださる方もおり、大変感謝しております。
むろん、そうした気分を味わえるのであれば、実際に旅するのと同じくらいの喜びの波動に包まれているはずです。

また、中には実際に旅に出てみたいけれど「でも、私には時間が、、」「でも、お金が、、」という方もいらっしゃるかもしれません。
そう考えることを否定しません。
私は人の意見・見解を尊重します。ただし、自分の意見・見解も同等に尊重します。
その点を踏まえながら申しますが、
しかし、時間やお金というのは実に主観的だと思いませんか。
よくある喩え話ですが、コップ半分の水を見て、「まだ半分ある」と見るか、「もう半分しか残っていない」と見るか。
見え方により、同じ現象が異なって解釈される。
時間やお金に関しても同様だと思います。
時間やお金は目的ではなく手段です。
では目的はなんでしょう?
おそらく、「楽しみ」や「自由」なのではないでしょうか。
人間は誰しも、自分が快に思うこと、開放されたことに喜びを見出すからです。
私が旅をする理由は、それが楽しいからです。
私は方位を大切にするタイプなので、いわゆる吉方位を選んで運の流れをよくするという手段として旅することもあります。
しかし、運の流れをよくすることの意味は「楽しみ」や「自由」を味わうという意思に基づいて行われるものだと私は考えています。
だから、いささか間接的ながら、吉方位旅ですら、楽しみになりうるのです。

では、運の流れをなぜよくしたいと思うのか。
それは自分自身が幸せに生きるためです。
畢竟、自分自身が幸せになるからこそ、他人も幸せにできる。
その逆はありえないと思います。
ですので、私は自己中心主義をとっています。
幸せの定義も人によりけりですが、どんな刹那なときにも「楽しみ」や「自由」を感じられたとき、心は無になり、悟りと言われるような境地になるのでしょう。

後半部、堅苦しいことを書きましたが、「~しなければ」とか「私は~だから」という自己限定が主流の時代は終わったと私は考えています。
楽しく自由に生きましょう。
これはポジティブ思考のすすめではありません。上述したとおり、私は人の見解には口を挟む気はありませんから。
ネガティブな気分になるのでさえ、当人の自由です。
それくらい徹底的に自由を満喫できたときに、真の楽しみが体中から湧き上がるはずです。

以上、自由人ワルめーらでした。
さて、明日は銀行から1億円引き出してくるかな。
気が向いたら紀州からそのまま北九州へ行き、釜山に渡り、北の国と交渉し、満州に渡り、大陸横断をするかもしれませんから(笑)

*トップ画像は沖縄本当南端部付近にて。アイスブルーのデミオで本島一周をしたものです。









Posted at 2013/03/18 02:14:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日本を歩くシリーズ | 旅行/地域
2013年03月17日 イイね!

ご当地ナンバー実現への動き

ご当地ナンバー実現への動き面白みがあるといえば、京王井の頭線の電車を待っているときなど、ワクワクしてくる。
というのは、井の頭線の電車の車体のカラーリングは一種類や二種類ではなく数種類もあり、各駅や急行の区割りに関わりなく、どんな色の電車がやってくるのかがまったくわからない。
幼心付いたときから、そんな具合であった。
今日は用向きがあって、井の頭線に乗ってみた。今回はブルーであった。




未だに井の頭線沿線にいる。
帰りは何色の電車が来るのだろう。
ピンク色と予想しておこう。

さて。
途中、明大前駅近くの書店に立ち寄った帰りに、小さな駅前広場(?)にご当地ナンバー推進の幟がはためいていた。
再来年には実現されるのであろうか。
実現されれば、東京都の陸運局管内では初のこころみとなる。
Posted at 2013/03/17 19:17:06 | コメント(3) | トラックバック(0)
2013年03月17日 イイね!

静岡浄土

静岡浄土自然が織り成す絶景を味わうのも格別なものだけれど、人間がここまで叡智を振り絞れば、人間はどんな自然環境とも折り合いを付けることができるのだなということを感じた。
静岡市外から焼津市街に抜ける大崩海岸沿いの道路を走っていると夙に思う。

ご覧のように道路から見える景色は絶景そのものなのだが、断崖絶壁の中腹に道路がかろうじて造成されているというふうで、ついついこの道路が形成された経緯に想いを馳せてしまう。
中途、真鶴新道や親不知海岸のように海上を渡る橋もあるが、当初他の箇所同様に断崖中腹に道が設けられていた部分が崩落してしまったことによるらしい。
なお、崩落道路部分の痕跡・遺構(?)は遠目から眺めることができる。
明治時代まではまだ海岸沿いに道路があったようである。が、侵食が著しかったのだろう。現在地の中腹に道路を移設するということをしたとのことだ。
ともあれ、これほどの断崖絶壁の中腹に道路を設営した人間の叡智に敬意を払いたい。
歴史的な話柄はこれまでにしよう。
土曜日の静岡市一帯は半袖で過ごせるほどに暖かかった。
天気も蒼色の快晴空であった。
よって、この素晴らしい風致を画像を通じて、私めと共有していただければ幸いである。





続いて、内陸部の東海道沿いを進んでみることにした。
この辺りは、梅は無論のこと桜の花もところどころで花びらいている。
ピンク色の花びらが蒼色の空とコントラストを成し、陽光がそのコントラストに明るい彩度を施す。
とろろかけご飯がおいしい丸子(まりこ)の集落を抜け、宇津ノ谷峠に向かう。
宇津ノ谷峠は片側二車線の一号線バイパスが走っており、山あいながらクルマで賑わっている。
しかしながら、それだと本当に一瞬のうちに通り過ぎてしまうのである。
静岡県はバイパス網が発達しているので、いにしえを偲ぶにはむしろバイパスの近くの旧道を進むといいだろう。
なお、下画像は宇津ノ谷峠ではなく、地図にも乗っていない行き止まりの半舗装路である。トラックの往来が激しい一号線を少しそれれば、それはそれは静謐な空間が広がっている。私はそんな静岡の一面をご紹介したいと思っている。



宇津ノ谷峠旧道は古びてはいるが、別段交通に支障を来すような道路ではない。
途中にある隧道が歴史を感じさせるが、道路自体はさほど険しくはないし、ツーリングやクルージングにちょうどいいと思う。峠を通過するのに30分もかからないだろう。
宇津ノ谷は海沿いの日本坂(上述大崩海岸の近く)に代わり、東海道の一角を成しており、平安時代から歌などで詠まれていたという。
豊臣秀吉の小田原遠征のとき、この山道では行軍等に不利ということになり、別ルートが開拓され、やがて寂れていったという。

さて、静岡市側から峠を抜けると旧岡部町に入る。ここもまた旧東海道の宿であった。緑色の茶畑が一面に展開される様子は実に美しい。





長閑そのものである。が、東海道の宿場町であったために、江戸時代までは現在よりも賑わいを見せていたのかもしれない。
ここでもまた茶畑を上から見ようとして、行き止まりの道にぶち当たった。
狭い道をUターンしたりバックしたりするのは得意である(笑)



岡部の茶畑のたもとには美しい日本庭園もある。茶を喫することも可能だ。
小川の近くにあり、せせらぎの音が聴こえ、耳を澄ますまでもなく、その清げな音が聴こえてくる。










岡部からは山側をとおり、迂回するようにして再び静岡市街を目指すことにした。
思っていたよりも狭い道である(すれ違い困難な区間が多いようにみえた)が、木々に包まれて実に気持ちよく運転することができた。
そして、やがて道が平らかになり、道路が広くなってくると、まだまだ新しい新東名の架橋がそびえ立っていた。
僅か五年ほどまえですら、想像だにし得なかった光景である。




やがて、静岡の市街部に入り、そのまま旧清水市にある高明な日本平でクルマを駆けさせてみた。かなり久し振りに来たような気がする。
今日は殊に旧清水市街や三保の松原が美しかった。実に明瞭にくっきりと望見することができた。








この日は富士山も割合とはっきり見えており、億千万もの浄土世界があるというが、今日のごとき景色は、浄土世界の一つなのだと高言してしまっても良いのではなかろうか。

Posted at 2013/03/17 00:27:34 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | クルマ
2013年03月16日 イイね!

家康が静岡にとどまった謎・辰巳の意味・大黒の謂れとは?

家康が静岡にとどまった謎・辰巳の意味・大黒の謂れとは?徳川家康はもともとは三河岡崎の小領主で、徐々に勢力を広げて、遠江や駿河など、今の静岡県の大多数を領有するに至った。織田信長と同盟を結びつつ、着実に力を蓄えていたけれども、本能寺の変で織田信長が倒れたあとは、豊臣秀吉の電光石火の政略の妙で、彼に先に天下取りを譲る形になった。後手に回ったともいえる。もっとも家康に当時天下取りの意志があったかどうかは微妙である。
とはいえ、家康は小牧・長久手の戦で秀吉軍を個別的戦闘で破っているし、秀吉も大いに家康の力を恐れた。
そのためであろう。
豊臣秀吉が北条早雲を開祖とする後北条氏の本拠である小田原城を制圧し、いよいよ天下をとると、家康は東海地方に領有していた領土をそっくり召し上げられ、代わりに後北条氏の勢力圏であった関東地方の大部分を与えられたのであった。
家康は唯々諾々とこの処置に従い、しかも小田原ではなく、当時は片田舎であった江戸を根拠地にすることに決め、盛んに街づくりをはじめた。
もしも、秀吉のこの処置が無ければ、或いは今頃日本の首都は駿府(静岡市)や浜松だったかもしれない。現に家康が天下を取り、悠々自適で隠居した後は、江戸は二代将軍の秀忠に委ね、彼は駿府に居を構えるようになった。
家康は東国に地盤があったから、旧敵国がたくさんいる西日本への備えとして駿府に自ら赴いたともいえるだろうが、それならば、駿府でなくとも浜松でも良かったようにも思える。どんな深慮遠謀があったのかは窺いしれないが、ともかくも大御所と呼ばれたご隠居家康は駿府を終の棲家とした。
実はその駿府(静岡市)に来ている。
ゆえに、書き出しを家康の関東への領地天封から駿河駿府での隠居生活という話題を持ってきたのである。たしかに、浜風も無く実に温暖な地ではあるが、なぜに駿府で隠居を始めたのだろうという疑問が湧く。
駿河の国の国府ゆえ、街は既に大きく発展していたから、華やぎはあっただろう。が、家康は派手好みではなかったとされている。ただ、商業経済に対する理解はあったと思われる。
だいたい、江戸幕府が鎖国を始めたのは家康が亡くなってから遥か後のことで、家康はむしろ海外との貿易を推し進めていた。
それはともかく、駿府に住んだ謎につき。
或いは江戸から南西の方向(裏鬼門)の方角にあたるため、ここを大いに重視したのだろうか。
久能山東照宮に遺骨を入れるように命じ、自ら権現(つまり神だ)として徳川体制を護ることを遺言したのだから、江戸との方位関係とそれに基づいた江戸守護・西国への防衛を考えていた節は非常に高いといえる。
また、彼の生まれ故郷の岡崎、駿府久能山東照宮、その近くにそびえる富士山(不死山)、江戸や日光との距離関係を鑑みると、非常に面白いことが浮き彫りにされるのだが、既にわかりやすい説明があったので、興味のある方は以下を参照されたし。
完璧な説明だろう。
天界僧上の家康晩年における権力は大変なものだったという。
家康神格化と神である東照大権現家康による護国思想に宗教的合理性を与えた功績は大だろう。
なお、東照大権現の「東照」はまさに東を照らすという意味であり、天照という日本の中心的神をも意識したように思われる。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114491381

江戸をやや著名にしたのは、室町時代の太田道灌だが、江戸時代に既に百万を超える当時世界一の人口を誇ったという江戸の基礎を作ったのは、やはり家康だろう。
ゆえに、我がクルマも東京にいる以上は、もっぱら舗道を走ることがほとんどなのである(牽強付会かな)。それにしてもいやはや、微妙な車高でしょう。



昨晩は首都高をクルージングしてきた。
ことにレインボーブリッジに程近く休憩に便利で眺望も良い辰巳パーキングの「たつみ」は、もろに江戸に関連している名称である。



昔は十二支を等分して、時間や方位を呼称していた。ちょうど、辰と巳が位置する方角が南東であった。現在の辰巳はまさに旧江戸城(皇居)から南東の位置にあり、ゆえに辰巳と称する。
ここへ来て、このようなことしみじみと考えたことはないけれど(笑)




大黒の由来は、七福神の大黒天から来たものだろうか。
大黒PA一帯は埠頭ゆえに、モダンで新しい横浜でもさらに新しい部類に入る(幕末まで横浜は横浜村という寒村だったそうだ。むしろ、東海道の宿場町があった現在の神奈川区に当たる神奈川のほうが発展していた)。
しかしながら、陸側鶴見区に大黒町という街はあり、こちらはさすがにハマの古参選手という観であろう。また、鶴見という名は源頼朝が名づけたともいわれ、そうなると相当に古い。
辰巳同様に、大黒にいながら、大黒の地名の由来についてあれこれ考えていたわけではないけれど、
インドのシバ神の化身マハーカーラが日本に伝わってくるまえに、早々といでたちを変え、日本に到来したときには、出雲の大国主神と習合し、大黒天とされ、やがては福の神(だから七福神のメンバーなのである)になったという辺りが面白い。
おそらくは大黒天から名づけられた大黒町に埠頭が出来て、ベイブリッジや大黒PAが出来て、いま賑やいでいるということに、面白みを感じなくもない。

Posted at 2013/03/16 02:55:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 旅行/地域
2013年03月14日 イイね!

杉並退屈男

杉並退屈男とある杉並の外科におります。
オペが終わるのを待っているのですが、こちらはどうにも退屈です(笑)
私もオペの手伝いをしたいくらいです(笑)

というわけで、ブログでも書いてみようかなと思い至った次第です(^w^)

トップ画像にもあるように、私はサッカーボールを持っています(フットサル規格)。
サッカーもまた好きなスポーツで、試合とまではいかなくとも、心行くまでドリブルやシュートを楽しみたいと思っています(^-^)v

さて、バスケなどもそうでしょうが、サッカーのゲームでは、その場で瞬間的にどうパスやシュート、アシストをするかをほぼ無意識のうちにプレイヤー達が分析しているかと思います。
いわば無意識と意識が同列になったような状況で、慣れた方はゲームに臨んでいると思うのです。

言い換えれば、無意識がポンポンと意識化され、現実の行動に移されているともいえるでしょう。
無心の状態で現実に対峙しているともいえましょう。

病院の壁に良寛和尚の言葉が掲げられています。
曰く「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ 花開く時蝶来たり、蝶来る時花開く」
なるほど。花も蝶もあれこれ考えずに、花を開いたり、蜜を吸ったりする。

結局、あれこれ思案するのも良いけれど、自然にお任せするのが、まさにありのままゆえに、うまくいく。
なぜなら、自然に逆らっていないから。

サッカーもそうなんでしょうね。
無論、こうしたらこうするみたいな情報を持ちつつ、プレイしているのでしょうが、ほんの一瞬の判断の連続であるゲームでは、これらの情報が蓄積された無意識を媒介にしてプレイヤーは動く。
この時のプレイヤーの境地は、良寛が例に出した花や蝶と似ているなと思います。

なんてことをはからい心(意図的な心持ち)もなしに書いて見ました(笑)
大体、私は主題も考えずに、ブログを書くタイプなのですが(笑)

まだオペ待ちです。
帰りは首都高にでも行こうかな(^w^)




Posted at 2013/03/14 19:31:26 | コメント(1) | トラックバック(0)

プロフィール

「馴染みのたこ焼き屋で談笑したのち、立川の市街地からかなり外れた箇所にある西武立川駅来訪。堤王国の残滓を堪能するために。なんでこんなに閑散とした場所が立川駅なのだろう?
絶版間近のチャンピオンイエロー4(スイスポ用語ですね)電車がまだまだ走っていたのは嬉しいところ。」
何シテル?   10/07 10:09
帝都東京の地を根城とし、四方八方と旅する行動力の塊がワタクシ、ワルめーらでございます。 東京から大阪くらいまで(往復で1000キロ程度)なら日帰りで行き帰りす...

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令和のクルマも手に入れたので、時計の針を戻して、今度は久し振りに昭和を偲ぼうかとも思って ...
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