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Cyber Xのブログ一覧

2012年02月12日 イイね!

箱根紀行 <山中城跡、箱根関所、箱根旧街道、創業400年甘酒茶屋 >

箱根紀行 <山中城跡、箱根関所、箱根旧街道、創業400年甘酒茶屋 >建国記念の日、箱根芦ノ湖をドライブしてきました。箱根は江戸時代には東海道の難所として名を馳せた峠道で、「箱根の山は天下の剣、函谷関も物ならず・・・」と唄われた歌や、「入鉄砲に出女」といわれ、とくに取締りが厳しい関所があったことで知られています。平成19年に復元された「箱根関所」と天下の剣と唄われた「箱根旧街道」、そして日本100名城「山中城」をブログにしてみました。


日本100名城「山中城」
山中城跡は、小田原に本拠を置いた北条氏が永禄年間(1560年代)に小田原防備のため、関八州の入口にあたる伊豆国に築城した山城でした。
天正17年(1589)に、豊臣秀吉の小田原攻めに備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築を開始しましたが、翌年3月には豊臣軍に包囲され、わずか半日で攻め落とされた悲劇の山城といわれています。
築城当時から東海道が城を横断している縄張りで、半ば関所の役目もしていたそうです。現在は東海道に代わって国道1号線が通っています。


岱崎出丸と一の堀


西の丸跡


西の丸畝堀


西櫓跡


元西櫓跡


宗閑寺
山中城三の丸跡に建立されている宗閑寺(そうかんじ)には、天正18年(1590)の山中城攻城戦で戦死した北条軍(山中城主の松田康長、副将の間宮康俊兄弟、上野箕輪城主の多米長定)、豊臣軍(一柳直末)の墓石が敵味方を忘れたかのように現在も佇んでいます。



山中城跡をあとにして、箱根峠を越え芦ノ湖に向うことにしました。


箱根関所
箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府の江戸防衛のために、全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられてました。
この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。
一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたといわれていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り調べを行っていました。「出女」とは、江戸に人質として滞在させられていた大名の奥方が、江戸を秘かに抜け出し、祖国へ帰国してしまうことを指していました。
江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所は、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。


人見女
定番人の奥方や母親が小田原から雇われ、女性の旅人が箱根関所を通過する際、髪を解いたりして、「出女」の取調べをしている様子です。
「出女」に対する取調べは大名の奥方だけではなく、一般市民の女性にまで及ぶ厳しいものであったそうです。


遠見番所



箱根旧街道

元和4年(1618)に江戸幕府は、箱根湯本から元箱根に至る山道を整備し、街道をつくりました。
この区間を含む旧小田原宿から旧三島宿の間は、「箱根の八里越え」とも呼ばれ、東海道の中でも難所中の難所といわれていました。
現在もこの「箱根旧街道」が残っており、東坂(箱根登山鉄道箱根湯本駅から箱根関所まで)と西坂(箱根町から山中城跡経由三島市まで)があるようです。
時間があれば徒歩で散策したかったのですが、今回は元箱根から県道732号線を箱根湯本駅に向ってクルマを走らせてみました。
10分程走ると、この県道の右側に「箱根旧街道」の目印を発見しました。
元和4年(1618)に整備された箱根旧街道(東海道)は、現在の県道732号線とここからつながっていたのでした。

この先、県道732号線沿いに「甘酒茶屋」という今時珍しいかやぶき屋根の店があるようなので、行ってみることにしました。


甘酒茶屋
江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。東海道はその中でも主要な街道で、箱根地域(湯本から箱根関所間、通称「東坂」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通1日十里を旅するところを、箱根地域では八里しか歩けませんでした。
道中には甘酒をふるまう茶屋が設けられるようになり、文政年間(1818-29)には箱根地域には9ヶ所が設けられていたそうです。
しかし、明治13年(1880)に国道1号線が開通すると、東海道を歩くひとが減少して、現在ではここ「甘酒茶屋」1軒が残るのみとなったそうです。

乗用車10台程で駐車場は満車状態。ちょうど昼過ぎだったのですが、ひと足先に来た5人連れのお客さんが店の中に入っていくのがわかりました。

メニューはたったこれだけです。甘酒は頼まず、私はお茶と、うぐいすという餅を注文しました。
フラッシュを焚いたので結構明るく見えますが、実際はほとんど店内は真っ暗で、しかも先にいた団体さんが、いろりを使って食べていたせいで、店内はもの凄く煙たく、お客さんの中には目が痛いので外で食べたいと申し出るひともいました。
5分ほど待つと40歳前後の女性が私たちに餅をもってきてくれました。
驚いたことに、この「甘酒茶屋」は創業400年で、しかも創業以来代々子孫の方が引き継がれており、女性は13代目の子供だということがわかりました!
店は3年前に改装し、江戸時代とは道の反対側に店を作り直しただけという、まさに江戸時代から続く老舗のお茶屋さんなのでした。
また、元禄年間には、赤穂四十七士のひとり、神崎与五郎(1666-1703)が江戸へ向う途中にこの店に寄ったことがあるそうです。
史跡見たさに箱根くんだりまで来たのですが、驚きと感激の連続でした。

店を出るとまたまた驚きがありました。このバス、停留所に停まっていますが、路線バスでなはく、観光バスなのです。バスガイドさんが着いており、「甘酒茶屋」に来たというのです。
駐車場はほとんど乗用車10台満車状態で、大型バスの駐車場などなく、路線バスの停留所に“路上駐車”です。もちろん、行く先は「甘酒茶屋」です!

山中城、箱根関所、箱根旧街道、そして甘酒茶屋と箱根の「史跡」を訪れました。
寒波の影響でとても肌寒い日でしたが、箱根にドライブに行ってよかったと思えた、そんな一日でした。
帰りは箱根湯本に寄り、日帰り温泉でくつろいできました。
Posted at 2012/02/12 14:36:25 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年01月29日 イイね!

東京湾・房総紀行 <東京湾アクアライン、海ほたる、久留里城 >

東京湾・房総紀行 <東京湾アクアライン、海ほたる、久留里城 >冬の真っ只中、とても寒い一日でしたが、あいにく天気がよく、館山自動車道経由で東京湾アクアラインを走ってきました。開通後、数年経ちますが、海ほたるパーキングエリアは土曜日ということもあってか、多くの見物客で溢れかえっていました。その後は、君津市にある久留里城を見てきました。



東京湾アクアライン料金割引社会実験
千葉県側房総半島を縦断する館山自動車道は、東京湾アクアラインとつながっています。平成9年(1997)にこのアクアラインが開通したことにより、房総半島から首都圏まで車でわずか数分でアクセスが可能となり、双方の往来が非常に便利になりました。
また、「東京湾アクアライン割引社会実験」 が平成26年3月31日まで実施されており、木更津金田IC(千葉県)と浮島IC(神奈川県)間の通行料金が、ETC無線通信により走行する車両について、大幅に割引かれる対象となっています。


東京湾アクアライン


海ほたる
東京湾アクアライン上にある「海ほたるパーキンエリア」です。名前の由来は、一般公募したところ「海上に浮かぶ光」ということで「海ほたる」という名称になったものだそうです。

海ほたるから房総半島方面の風景です。

浮島IC方面です。少しもやっていますが、好天なら富士山や都心の高層ビルがはっきり見えるようです。 この先道路は、海ほたるから浮島方面までは海底トンネルを走ります。


デッキの上は寒風直撃、気温は摂氏5℃くらいだったでしょうか、寒波の影響でとても寒く、長時間いると手がかじかんでくるくらい冷えました。



ショップ

チーバくん
2010年千葉国体のマスコットキャラクターとして登場した「チーバくん」です。国体終了後も、千葉県知事森田健作氏からマスコットキャラクターとして残したいという要望があり、2011年1月から千葉県の正式マスコットキャラクターとなることが決定しました。
私は初対面だったのですが、このチーバくん、そこらの犬の顔をしていますが、横顔をよ~く見ると、千葉県地図に似せてつくった顔だそうです。子供たちに人気の「チーバくん」です。


カフェ・レストラン

 

食事をするにはまだ午前中であったので、スタバで休憩することにしました。

浮島方面には行かず、Uターンし、次の目的地君津市の久留里城へ向かいました。


久留里城
久留里城は15世紀半ばに上総武田氏によって築かれた山城で、以降は武田氏の子孫である真里谷氏が支配しました。戦国時代には里見氏の支配となり、江戸時代には久留里藩の藩庁として整備され、徳川家康の重臣榊原康政の長男・松平(大須賀)忠政が初代藩主となりました。
代わって土屋氏が入国しましたが、延宝7年(1679)に改易となり、一時久留里城は廃城となりましたが、寛保2年(1742)上野国沼田城より譜代の黒田氏が入城し再藩しました。
海抜145m城山山頂の復興天守は、黒田氏時代に建てられた天守を再建したものです。


本丸・天守台跡
復興天守前にある「本丸・天守台跡」は、寛保3年(1743)から延享3年(1746)にかけて、時の藩主黒田直純が城を再建したとき築いたとされる天守の跡です。
礎石群は昭和52年(1977)に実施した発掘調査によって検出され、極めて貴重な遺構であることが確認されました。


波多野曲輪
本丸・天守下にある「波多野曲輪」と呼ばれる場所です。


二の丸跡/新井白石の像
時の藩主土屋利直に幼少期に父とともに仕えたのちの儒学者新井白石の像です。


薬師曲輪
二の丸下にある「薬師曲輪」と呼ばれる場所です。ここから麓の「三の丸御殿跡」や「大手門跡」、また戦国時代に起った「里見・北条古戦場跡」などを見ることができます。
黒田直純が天守を再建した頃には、城の主要部分は山頂から約100m下の「三の丸御殿」に移っていました。


城山探鳥路
城山は山麓に専用駐車場があり、海抜145mの天守がある本丸山頂まで徒歩で登ることになります。
駐車場と城山山頂の海抜差は90mあります。


お玉が池
久留里城の二の丸は、水源がなく不便な場所でした。戦国時代の城主の里見義堯(さとみよしたか)は、家臣の兵馬に池を掘るように命じました。しかしあるとき、兵馬が池を掘っていると、兵糧庫が焼失する事件が起こります。火の不始末の疑いで兵馬は囚われの身となります。
城将の小川秀政の娘の「お玉」は、これを哀れみ、代わりに池を掘り始めますが、兵馬は打ち首となってしまいます。その後、その疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったとのことです。
今は水はなく、枯れてしまっています。


久留里曲輪
「城山探鳥路」沿いに、計5つの「曲輪」と呼ばれる小さな平地があります。本丸・天守台跡がある「弥陀曲輪」、天守台すぐ下の「波多野曲輪」、二の丸跡の「天神曲輪」、「薬師曲輪」と、この「久留里曲輪」です。


雨城
久留里城は、別名を「雨城(うじょう)」とも呼ばれ、由来は築城に際し3日に一度21回雨が降ったという伝説からついた名前だそうです。
 

下山すると、ちょうど昼時、お腹がすいたので駐車場にある君津市営の売店で食事をとることにしました。会社のひとが、駐車場にあるお店のそばが美味いといっていたので、行ってみることにしました。
ただ、見た感じ営業をしているのか、していないのか、看板もなくちょっと殺風景な感じの店です。

入ってみるとこんな感じで、綺麗な店内でした。早速、美味しかったというそばを注文してみました。


名物 雨城そば
これが「名物 雨城そば」です。980円もするそばでしたが、ダシがよくきいてほんとうに美味しいおそばでした。


千葉県の城郭は、日本100名城佐倉城、千葉城、館山城、大多喜城、関宿城、そして今回久留里城と合計6ヶ所を廻りましたが、歴史的背景や現存している城の縄張りから、ここ久留里城が最もお気に入りです。
山上二の丸跡に君津市久留里城址資料館(無料)があり、戦国期から近世の久留里城の変遷を紹介しています。
アクセスは、館山自動車道姉崎・袖ヶ浦、または木更津北ICから車で45分くらいです。
Posted at 2012/01/29 12:00:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年01月13日 イイね!

遠江の名城 <浜松城、西来院/家康正室・築山御前 月窟廟、太刀洗いの池、二俣城跡 >

遠江の名城 <浜松城、西来院/家康正室・築山御前 月窟廟、太刀洗いの池、二俣城跡 >16世紀前半から遠江国は曳馬城(引馬城、引間城、ひくまじょう)が拠点でした。長く今川氏の支配でしたが、今川氏衰退後は配下だった飯尾氏が反旗を翻し曳馬城を支配しました。
永禄8年(1565)に、城主飯尾連竜(いいお つらたつ)が今川氏の謀略で殺害されると、曳馬城は連竜の未亡人・お田鶴の方(椿姫)が城主となりましたが、三河国岡崎の徳川家康が攻略し、お田鶴の方は討ち死にしました。


元亀元年(1570)に家康は武田信玄の侵攻に備えるため、本拠地を三河国岡崎を嫡男信康に譲り、遠江国曳馬へ移しました。当初は天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりでしたが、籠城戦に持ち込まれた際天竜川により「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張しました。その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めたのでした。

浜松城
徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。有名な姉川、長篠・設楽原、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いは、関ヶ原の戦い以上の激闘であったと伝えられています。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代でした。

浜松城は明治維新後に廃城となり破却されました。城跡は昭和25年(1950)に「浜松城公園」となり、昭和33年(1958)には鉄筋コンクリート製の復興天守が再建されました。その翌年には浜松市の史跡として指定されました。 現在の天守閣は資料館として使われており、家康をはじめとした当時のゆかりの品々を見学できるほか、桜の名所としても名高く、シーズンには花見客で溢れ返ります。


天守曲輪
天守の真ん前、天守曲輪です。


野面積み/浜松城現存石垣
浜松城を訪れるに際して、一番見たかったのはこの石垣でした。二代城主堀尾吉晴の頃、天正18年(1590)頃に築かれた野面積み石垣で、420年たった現在も当時のまま現存しています。
石の大きい面を内側にして長く押し込み、その内側に小型の栗石(くりいし)を1mから1.5mほど詰め、さらに砂利を詰めてあるので水はけがよく、水圧で崩れることはありません。外観は粗雑で乱暴に見えますが、堅固な石垣工法のひとつです。慶長(1596~)以前はこの工法が多く用いられていました。


本丸/若き日の家康公

浜松城天守入場料は、大人(高校生以上)150円です。


西来院
西来院(せいらいいん)は浜松市内にある曹洞宗の寺院です。境内には徳川家康正室・築山御前の墓「月窟廟」があります。


築山御前 月窟廟
家康の正室築山御前の母は今川義元の妹でした。家康が今川氏の人質時代に結婚し、長男信康と長女亀姫を産みました。家康が岡崎城主となると、城内の築山御殿に居住したので、「築山御前(築山殿)」と呼ばれるようになりました。
しかし、天正7年(1579)8月29日、主君信長の命により夫である家康により殺害されました。同盟関係にあった信長との政治的駆け引きと、岡崎城内にあった派閥抗争など複雑に交錯する政治的・人間関係の歪みのなかで、「謀反人」の汚名を着せられての余りに痛ましい果かなき最期でした。享年38。
家康はこれを哀れみ、西来院のこの地「月窟廟」に懇ろに葬りました。


太刀洗いの池
太刀洗いの池は、この南10mのところにありました。当時、この佐鳴湖岸は藪に覆わた約50mほどの池でした。家康の正室築山御前は、この藪で岡崎城から浜松城へ向う途中に、家康の家臣によって殺されました。その時使われた血染めの太刀をこの池で洗ったことから、「太刀洗いの池」と呼ばれるようになりました。
今は池はなく、浜松医療センターの駐車場となっています。


二俣城跡
二俣城は遠江国二俣にあった山城でした。天竜川と二俣川に挟まれた要害の中世城郭で、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げました。また、天正7年(1579)9月15日に家康の嫡男信康が築山御前同様、信長の命により悲劇の切腹を遂げた城としても知られています。
二俣城は戦国時代はじめ、今川氏が城館を築いたのが始まりでした。今川氏が滅ぶと、徳川家康の領地となりました。
元亀3年(1572)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻すると、二俣城は落城しました。
信玄死後、家康は度々二俣城に攻撃をかけましたが城を落とせないまま、天正3年(1575)5月21日長篠・設楽原で武田軍を撃ち破ると、12月24日に城を開城させ、大久保忠世を配置しました。



堀切


二代目物見の松
 



天竜川


15年ぶりに浜松城を訪れました。420年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残した野面積みの石垣は見事でした。また、のちに天下人となって長く太平の世をもたらした徳川家康の苦難の時代の史跡も見ることができました。
遠江の浜松城と二俣城跡は日本100名城には指定されていませんが、今回訪問してみて、静岡県内の100名城掛川城と駿府城に勝るとも劣らない名城であることを実感しました。
Posted at 2012/01/13 23:12:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年01月09日 イイね!

長篠・設楽原の戦い <長篠城跡、長篠・設楽原古戦場 >

長篠・設楽原の戦い <長篠城跡、長篠・設楽原古戦場 >奥三河(愛知県新城市)にある日本100名城「長篠城」は天正年間には、三河・遠江(浜松)を領土とする徳川家康と甲斐・信濃を領土とする武田信玄・勝頼の政争の地でした。
織田信長は最強の騎馬軍団といわれた当主信玄に対して、年に何回も贈り物を届けたり、養女を息子勝頼に娶らせるなど同盟関係を結んでいました。しかし、信長が京都上洛を果たすと同盟関係は解消され、信玄の跡を継いだ息子勝頼はかつて武田領であった長篠城に総攻撃をかけました。
この戦いを「長篠・設楽原(したらがはら)の戦い」といい、その7年後、武田氏が滅亡する原因となった戦でした。その長篠・設楽原の史跡を訪ねてみました。

長篠城跡
長篠城は「天然の要害」といわれ、豊川と宇連川が交差する50mの断崖に建つ戦国末期の典型的な城でした。16世紀はじめに駿河今川氏が築きましたが、永禄4年(1561)にその今川氏が滅ぶと徳川領になりました。元亀2年(1571)には武田領となりましたが、天正元年(1573)4月に信玄が亡くなると、家臣だった奥平氏は徳川方に寝返りました。


本丸跡



長篠の戦い   
天正3年(1575)2月に、家康は武田氏の元家臣奥平貞昌(のちに信昌に改名)を城番に配置すると、この措置に怒った勝頼は奥平氏の人質を処刑し、5月1日城兵500人の長篠城を15,000の兵で取り囲みました。長篠城の対岸に5つの砦を築き、長篠城を完全に包囲しました。


医王寺
勝頼は長篠城の目と鼻の先にある「医王寺(いおうじ)」に陣を張りました。


医王寺山/武田勝頼本陣跡



鳥居強右衛門の援軍要請
長篠城を守備した奥平貞昌は、援軍要請のため家康のいる岡崎城へ鳥居強右衛門(とりい すねえもん)を送りました。信長と家康に面会ができた強右衛門は、「援軍来たる」の返事を持って一足先に長篠城へと向いました。しかし、戻る途中に武田方に捕らえられ、「“援軍は来ない”と言えば助ける」と告げられましたが、「援軍は来る」と大声で叫んだため、磔刑に処せられました。
この強右衛門の行動がきっかけとなり、戦いの舞台は長篠から設楽原へ移ることになったのです。


鳶ヶ巣山の戦い
鳥居強右衛門から信長・家康連合軍が援軍に来ることを知った勝頼は、5月20日長篠城包囲を5つの砦の家臣団に任せ、設楽原方面に陣を動かしました。この機会をうかがっていた家康家臣酒井忠次は、20日未明砦の背後に潜み、夜明けとともに一斉に奇襲をかけました。5つの砦は壊滅し、鳶ヶ巣砦(とびがすとりで)で、勝頼の叔父武田信実は戦死しました。

鳶ヶ巣山から見える長篠城方面です。


長篠から、設楽原古戦場へ向うことにしました。飯田街道(国道151号線)を豊橋・豊川方面に直進するとすぐに設楽原に着きます。


設楽原の戦い
信長軍30,000と家康軍8,000は、長篠城手前の設楽原に着陣すると、南北に流れる連吾川を堀にみたて「馬防柵」を張りめぐらしました。つまり、信長側は無防備に近い鉄砲隊を主力としてこれを守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術をとったのでした。
5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決した頃、退路を脅かされることを恐れた武田軍が動き合戦が開始され、戦いは昼過ぎまで続きました。

図中、青色は織田・徳川連合軍、赤色は武田軍を示しています。

織田・徳川連合軍
① 織田信長本陣
② 徳川家康
③ 佐久間信盛
④ 岡崎信康
⑤ 羽柴秀吉
⑥ 織田信忠

武田軍
①武田勝頼本陣
② 馬場信房
③ 内藤昌豊
④ 山県昌景

図中、真ん中やや左に点線で示されているのは
連吾川沿いに連合軍が築いた馬防柵です。

竹広激戦地/連吾川


弾正山/家康物見塚
竹広/連吾川の対面、弾正山に陣を張った徳川家康「物見塚」です。


柳田前激戦地
馬防柵の斜め前、連吾川沿いの碑です。


馬防柵
合戦当時、連吾川に平行するかたちで「馬防柵」が数kmにわたって敷かれたといわれています。
設楽原の戦いは、織田方は当時としては異例の鉄砲3,000丁を用意し、画期的な戦術である「三段撃ち」を行ったとされています。
この戦いで、名だたる武田方の重臣が亡くなりました。譜代家老の山県、内藤、馬場をはじめとして、被害は甚大でした。
 



長篠・設楽原の戦いによって勝利した信長は「天下人」として台頭し、家康は三河を完全に掌握し、遠江の拠点二俣城、高天神城などを攻略していきました。
武田勝頼はこの戦いによって甚大な損害を受け、敗退を契機に外交方針を転換し、北条、上杉、佐竹、里美氏との同盟関係を一時強化しました。ところが天正10年(1582)3月、家臣の寝返りから織田・徳川連合軍に攻められ、城を棄て少なくなった家臣ともども天目山に逃れましたが、最期は逃げ場を失い武田氏は滅亡しました。
長篠城主だった奥平貞昌は、信長の一字をもらい「信昌」と改名し、家康の長女亀姫を正室とし、「奥平松平家」は明治まで栄えました。
また、処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇されたと伝えられています。

長篠城は本丸跡と崖の櫓跡がJR飯田戦に分断されていますが、後々の歴史を見るにつけ、とても素晴らしい城跡でした。
飯田線の駅名も「長篠城」という名前で、珍しいので写真に撮ってきました。


Posted at 2012/01/09 13:00:06 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年01月03日 イイね!

安房・上総房総の名城 <館山城、大多喜城、本多忠勝菩提寺・良玄寺 >

安房・上総房総の名城 <館山城、大多喜城、本多忠勝菩提寺・良玄寺 >正月三ヶ日に房総半島に行ってきました。千葉県民でありながら、まだ館山城と大多喜城を見たことがなかったので、休み期間中に一度見ておこうと思ったからです。天気予報は晴れだったのですが、あいにく午前中は雲が多く、綺麗な外房の景色も撮りたかったのですが、そちらはまた次の機会にしました。



館山城
館山城/城山公園は館山市街の南側丘陵に位置し、この地はかって戦国時代の武将、里見氏の居城がありました。館山城天守閣は城下の館山市立博物館本館に対して、分館となっています。
館山城は1590(天正18)年、安房の名門・里見氏9代・義康が築き本拠としました。8代義頼の本拠地は岡本城(千葉県安房郡富浦町)でしたが、小田原を本拠とする北条氏に攻められ危うくなったため、9代義康が館山に本拠を移したのでした。

天守そばにある展望台からは、晴れた日には富士山や東京湾が見渡せるようです。近くに見える館山港です。

本拠を館山に移した里美義康でしたが、その年に宿敵北条氏が豊臣秀吉によって滅亡したのも束の間、小田原への遅参を咎められ、秀吉によって領地を安房一国9万2千石に減封されてしまいました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従い3万石の加増となり、10代忠義も当初は徳川幕府に重んじられましたが、慶長19年(1614)に妻の祖父である小田原城主・大久保忠隣の改易に連座して安房一国を没収され、館山城は破却されてしまいました。
里美忠義は伯耆国倉吉3万石に配流され、元和8年(1622)、29歳の若さで病没し、南関東に覇を唱えた里見氏10代170年の歴史は幕を閉じたのでした。
その後、館山には山城淀藩から稲葉氏が入封し陣屋を構え、明治維新まで存続しました。



大多喜町

大多喜町は館山から60kmほど北上した房総半島の中央部にある町です。外海にも内海にも接していない土地で、人口は約1万人ほどの規模です。
今日初めて走ってみましたが、町の所々に小江戸情緒をかもし出した建物が多く見られました。



大多喜城
大多喜には天文年間(1532-1555)に安房の里美氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり上総正木家の居城として発展しました。
天正18年(1590)に、江戸に徳川家康が入封すると、大多喜に徳川四天王のひとり本多忠勝を配置し、安房里美氏の勢力を押えようとしました。
慶長14年(1609)に、ここを訪れたスペイン人の記録(日本見聞録)によると「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった」と驚いています。

千葉県教育委員会は、この大多喜城本丸跡に天守を再建し、千葉県立総南博物館(現在は千葉県立中央博物館大多喜城分館)として昭和50年(1975)に開館しました。


大井戸
天守閣の下が大多喜高校となっていますが、その高校の敷地内に現存する「大井戸」です。
周囲17m、深さは20mもあります。


二ノ丸公園


良玄寺
徳川家康の江戸入りとともに大多喜に入った本多忠勝は、「良信寺」を菩提所として建立しました。
関ヶ原の戦いの論功行賞で伊勢桑名へ国替えとなった忠勝に替わって、次男忠朝が大多喜城主になりましたが、大坂夏の陣で戦死したため、甥の政朝が跡を継ぎ、忠朝の法名をとって「良玄寺」と改めました。


忠勝公園
良玄寺境内にある「忠勝公園」です。本堂から墓地の間に設けられています。
本多忠勝は、慶長15年(1610)に桑名城で亡くなりました。遺骨は桑名浄土寺とここ良玄寺に分骨されました。
また、忠勝夫人は桑名へは行かず、ここ大多喜で慶長18年(1613)に亡くなったと伝えられています。
大坂夏の陣で戦死した次男忠朝も大阪一心寺とで分骨されています。
この墓所は町指定文化財になっており、忠勝公園は平成17年(2005)3月に整備されました。


本多忠勝・忠勝夫人・忠朝の墓


今回、安房(あわ)の館山城と、上総(かずさ)の大多喜城を見ました。
どちらも模擬天守で近年になって再建された城ですが、直に訪問してみることによって、また別の面白さを発見できました。
大多喜城の「大井戸」は、事前にネットで見ても載っていない遺構でした。
房総は県内ですが、近くて遠い位置にあってなかなか行く機会がないのですが、正月休みを利用して訪れた甲斐がありました。
Posted at 2012/01/03 21:00:02 | コメント(5) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

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