5代、約130年間続いた「古河公方」。
初代古河公方・足利成氏(しげうじ)は
現在の「古河総合公園(古河公方公園)」に
館を築き、
北西には、渡良瀬川を自然の要害として
「中世古河城」を築きました。
城下は鎌倉にならったといわれ、
鎌倉ゆかりの寺社を建立。
新たに建立した寺院のうち
「永仙(ようぜん)院」「松月院」「徳源院」の3カ寺は
「古河公方開基の三カ院」と呼ばれています。
(いずれも鎌倉円覚寺末寺・臨済宗)
「徳源院」は何度も行っていますので、
まずは、「松月院」跡へ。
途中の「鳳桐(ほうとう)寺」も
古河公方ゆかりのお寺ですね。
「松月院」跡、着。
んん。
周囲との雰囲気が明らかに違い、
威厳が漂ってくる。
時代の流れからは
取り残されてしまったけれども
凛とした空気が充満していますね。
(この感覚は、「徳源院」でも感じられると思います)
「源氏車」の紋!
よく通る道沿いに
こんな由緒正しきお寺があったとは!
「永仙院」跡。
歴代の住持は政治分野で活躍した方が多く、
戦国時代の季竜周興は古河公方晴氏・義氏の側近となり、
江戸時代初期にも三伯玄伊が円覚寺156世、
天甫碩円が円覚寺157世となって、
ともに鎌倉円覚寺の再建に尽力したそうです。
(江戸時代後期に書かれた『許我志』・『古河志』によれば、
成氏から義氏までの歴代古河公方の位牌が置かれ、
公方家が寄付した足利尊氏の偃月刀(なぎなた)もあったが、
貧窮のため売り払われたという。
『古河志』では、徳源院・松月院とともに、
古河の「足利開基三ヵ院」と称されていたと紹介されている。
江戸時代後期は無住持の状態が続き、
明治4年には廃寺となって、栃木市藤岡町蛭沼・山王寺に合併された。)
上に書いてある
「栃木市藤岡町蛭沼・山王寺」もぜひお参りしようとしたら、
な、なんと。
焼失してしまっているではないですかっっっ!!!
こうして、貴重なものが世間からは忘れられ
失われていきます。
が、これも厳然たる、歴史の一部。
古河公方家侍医・田代三喜(さんき)の供養碑。
(赤穂浪士の一人・吉田忠左衛門兼亮の長女「さん」と
その夫である本多家家臣の伊藤治興のお墓も残されているそう)
室町・戦国時代を代表する医師「田代三喜(たしろさんき)」の
木像がある「一向寺(時宗)」へ。
田代三喜は、永正6(1509)年、
古河公方足利氏に招かれて古河に住み始めましたが、
「古河の三喜」「医聖田代三喜」と称されると、
その医術にあやかろうとする人々も多く、
連歌師・猪苗代兼載(いなわしろげんざい)は、
中風の治療のため古河へやってきて、
のちに足利政氏と歌を通じて交歓するきっかけとなりました。
(豊臣・徳川に医師として仕える、
曲直瀬(まなせ)家代々の初代道三は、三喜の高弟だそう)
三喜没後は、古河公方ゆかりの永仙院に葬られましたが、
墓所は明らかではなく、その墓印にと松が植えられました。
のちにその松は枯死。昭和7(1932)年、
その地に「医聖 田代三喜供養碑」の建立とともに松が植樹されました。
さて、いよいよ「古河城本丸跡」へと歩いていきます。
(車はとめられませんよー)
一向寺から歩いてすぐわかるのは、
「古河城」がいかに低い所にあったか。
クルマで走っているとわからない
微妙な高低差を感じながら歩くのは
とっても楽しいです。
「永仙院」に入るところから、もう低くなっています)
両脇に民家が並ぶ、細い1本道を、
菜の花満開の土手に向かって歩いていきます!
気分は自ずと高まりますねー。
でも古河は
近世の城主大名の藩では
数少ない『城跡がない』城下町、という側面を持っています。
(わたしが大好きな「関宿城」も城跡が
河川敷に埋まっています...。トホホ...)
土手の上に到着!!
向こうに見えるは「新三国橋」。
(下総国(茨城県)、下野国(栃木県)、武蔵国(埼玉県)の3国を
またぐから、三国)
古河は
1590年以降、明治維新までの約280年間で
11家28名の大名が存在した城下町。
土井利勝の16万石時代には
本丸に御三階櫓が建造され
城下の形が整ったとみられます。
その本丸も
今では、野球場...。
城の規模は
南北およそ1,800メートル、
東西350~400メートル(濠幅を含めると450~550メートル)。
将軍の日光社参の際は、1泊め・岩槻城、2泊め・古河城、
三泊め・宇都宮城とされていました。
明治6年の廃城令にともない翌年には建造物が取り壊され、
明治43年からの渡良瀬川の河川改修により
古河城の主要部分はほとんど破壊。
中世以来の古城もなくなってしまいました。
明治3年、
武藤松庵によって撮影された数葉の写真によって
城の面影を偲びましょう。
Posted at 2021/03/28 15:07:25 | |
トラックバック(0) |
神社仏閣 | 日記