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レッズレノンのブログ一覧

2021年04月25日 イイね!

樹齢1200年の藤は、滝が降るがごとく!

樹齢1200年の藤は、滝が降るがごとく!


21年ぶりに

春日部の「藤花園」へ。





まずは、我が家のバラを撮影してから

お出かけ。






昔は、近所の駐車場はみんな

500円だったような...。


開園(8:00)直後に入園しましたが

そこそこ人がいます。




まずは、入って右側の藤へ。


こちらの藤も根元を見れば

ただものではないことは

伝わってきます。






入って左側の藤。




樹齢はなんと、

1200年以上!!


根元を見れば

その怪物ぶりが

伝わってきます。





1200年前の出来事といえば......。

◆弘仁元年(810年):
藤原薬子・仲成ら平城上皇に政権を戻そうと謀って露見し、
捕らえられる(薬子の変)。

◆弘仁7年(816年):空海が高野山金剛峯寺を開く。

◆弘仁年間:嵯峨天皇、検非違使の設置。


平安時代初期!!


こんな住宅街の一角に

こんな老木がまだ生きているなんて。

(ちなみに、中国で一番古い藤の木は
樹齢500年です)

裏側。


昭和3年の「牛島の藤」。


かつては

渋沢栄一のみならず、

跡見花蹊(あとみかけい・跡見学園創始者)、

清浦圭吾(きようらけいご・内閣総理大臣)、

徳川昭武(とくがわあきたけ・徳川慶喜実弟)

田山花袋(たやまかたい・小説家)、

「牛島古藤花」を遺した三好達治(みよしたつじ・詩人)など

著名な政治家・文化人が訪れました。


太宰治の「斜陽」の作中にも「牛島のフジ」が登場しますよ。


徳川昭武さんが来たときに

おもしろいエピソードがありますので

それはのちほど...。






ちょっとした高台に登っても

樹齢1200年の藤の全貌をとらえることはできません。



根まわりは、10平方メートル。

樹は根本から数本に分岐して、

藤棚の面積は、驚きの

700平方メートル!!!


花房の長さは

最も長い物で2メートルにもなります!

(明治の頃は、3mもあったそう!!)


もう、

パノラマモードで撮るしかありません。








隣の藤の木もヤバイ。



かつては、料亭「紫雲館」があった園内を散策してみましょう。
(紫雲は藤の花を形容する表現)




そのほか

能登の和倉温泉の鉱泉を運び、薬湯を開き、

観藤客やその他一般にも入浴・宿泊できる施設があったようです。

*******************************************
小説家・田山花袋は、
大正12年(1923)刊『東京近郊一日の行楽』のなかで、
「粕壁の藤花」という随筆をのこしています。

これによれば、大町桂月と田山が滞在していた羽生で落ち合い、
酒を飲みながら汽車で粕壁に向かい、
さらに藤花園で、牛島のフジを鑑賞しながら
吸い物や煮つけをアテにしながら、
競い合うように酒を酌み交わしたようです。

…私達は何を話したらう。
田舎の百姓家、藤の花を見せて客を引いて
拙い酒と肴とを勧める田舎の百姓家―
さういふものが不思議に私には思はれた。
吸物はおとし玉子、肴は鰤か何かの煮附、酒はくさい地酒・・・。
(略)何うして車夫に賃金を払つたか、
また何うして汽車に乗つたか、それすれも分からないくらゐであつた。
*******************************************

あまりいい感じには書いてくれてませんねぇーー。

でも、かつての雰囲気が伝わります。


この老松(樹齢500余年)、

枝ぶりやたたずまいがやけに気になり

何枚か写真を撮りましたが。


裏側。


何と、この木の前で

1902年、自転車大好き

徳川昭武(徳川慶喜実弟)さん一行が

写真を撮っているではないですかっ。



この写真は

以前、松戸・戸定邸で見ていますが

今回、撮影場所を特定!!


松戸からみんなで来たと思っていましたが、

隅田の水戸徳川家・下屋敷から

自転車屋さんも随行させていました。



午前7時出発で、10時半に春日部着。

午後1時には春日部を発ち、4時に水戸藩下屋敷に到着。




この昭武さんに随行して

パリ万博に行ったのが

渋沢栄一さんですね。


渋沢さんは、1912年に

この藤を見に来ています。












最後にやっとここが

「連花院」境内だったことを示すものを発見。


誰も気づいてくれなくて

ちょっとかわいそう。



「藤花園」を出て

「春日部市郷土資料館」へ向かいます。


『渋沢栄一もみた春日部の藤』




「粕壁宿」ジオラマ。


旗が立っている場所は

1900年、徳川慶喜さんが泊まった場所。


おもしろい古文書が

展示してありました。


「疱瘡神の詫び証文」!!

江戸時代に広まった呪符(古文書)です。

(疫病神5人に詫びを入れさせてます。
特に、子どものいる部屋に貼っていたようですねー)


解説文や、ミニチュアの古文書もいただきましたので

楽しく読ませていただきました。


















Posted at 2021/04/25 16:30:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2021年04月18日 イイね!

「神皇正統記」はここで完成を見た!

「神皇正統記」はここで完成を見た!

国指定史跡・関城(せきじょう)は、

鎌倉時代に結城氏一族である

関氏によって築かれた平城。




南北朝時代の

激戦地でもあります。



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南北朝時代に入ると、

関宗祐(むねすけ)・宗政親子は南朝方にあったが、

暦応4年/興国2年(1341年)に

小田治久の離反によって

小田城を追われた北畠親房

この城に逃げ込んだことから、

近隣の大宝城とともに北朝方の標的となる。


戦いは2年にわたったが、

康永2年/興国4年11月11日(1343年11月28日)に

北朝側からの総攻撃を受けて翌日陥落、

関親子は討死し、

北畠親房は辛うじて脱出した(関城・大宝城の戦い)。


この戦いの最中に北畠親房

白河城の結城親朝に対して送ったとされる

『関城書』は有名である。

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今まで、

『神皇正統記』は小田城で完成したと思っていましたが

なんと、小田城主は北朝に寝返っていたんですね!!



駐車場にクルマをとめて、


少し歩くと、

「坑道跡入口」の案内が。




南北朝期の

攻城戦の跡がそのまま残っているなんて

奇跡的。

(南朝方、高師冬が関城を落とすために
坑夫を雇って掘らせましたが、地盤が柔らかく
崩落し、失敗に終わりますが。)


これを見たくて来たのですが、

関城は、

それ以外の部分も大満足のお城でした。




坑道跡を振り返る。
(木が目印)


関城の東側を回り、

南端をめざします。


こんもりとした森には

「八幡神社」が鎮座。
(あとで参拝します)



この日は風がとても強く、

一面の麦畑が

サラサラ、サラサラと

海のようにうねっていて

とてもきれいでした。






左側が関城。

右側(東)はかつては沼。




関城南端のカーブ。


西方より

関城南端を眺む。


なんだか、かつての威厳を感じます。

筑波山も麗しい。


カメラを左に振って

関城北側を眺む。


関城の中に入ります。


「北向地蔵尊」。






関宗祐父子の墓と伝えられる

宝篋印塔(ほうきょういんとう)。




(関宗祐は、宝治合戦(1247年)で没落した
関正泰の曾孫にあたるといわれます)



小田城に在城していた北畠親房を関城に迎えた関さんですが、

高師冬らの攻略に抗しきれず、

落城とともに戦死。


しかし、北畠親房は小田城で書いた

日本史の本『神皇正統記』に筆を加えて

ここ関城で無事完成させ

吉野へと無事に脱出できました。


攻め手である

下総結城氏7代当主・結城 直朝(なおとも)の

お墓は、木に侵食されています...。

(享年19歳とは、若すぎる...)



土塁上にある祠。




北関東でも

激烈なる南北朝の戦いが

繰り広げられていたとはな―。

********************************************
常陸合戦

南北朝時代の1338~1343年にかけ、
常陸国(現茨城県)の各地において
北畠親房ら南朝方の軍勢と
高師冬ら北朝方の軍勢の間で行われた、
一連の合戦。

【南朝勢】
興良親王、北畠親房、結城親朝、春日顕国、伊達行朝、小田治久、関宗祐、関宗政、下妻政泰
※太字は1343年までに北朝方に寝返った者

【北朝勢】
高師冬、上杉憲顕、結城直朝、結城直光、佐竹貞義、佐竹義篤
********************************************

※戦国最弱(?)大名といわれた小田氏治は常陸小田氏16代当主、
 上記の「治久」は小田氏8代当主です。



「八幡神社」に向かおうと

ふと道を東に曲がると……。


思わず、ニヤリとしてしまいました。

南北朝時代の

すんごい土塁とお堀の跡です!


この木、

今でも生きていたら

樹齢4~500年では

きかないでしょう。


堀跡、最東端より眺む。


土塁上にある

「浅間神社」。


間近で見ると

いろいろと崩れ去っていました。




このお城は

本当に穴場。

歩いていて実に心地よい!


人はいないし

景色は最高だし、

昔の城の様子がよーくわかるし。




「八幡神社」に到着。










ご本殿の裏に回ると...。

またまたすばらしい土塁。
















彼方に、愛車。


この関城、

竪堀(たてぼり)が

たくさん入れられていたんですねー。

(敵の横方向の動きを制限します)


お次は、

鬼怒川を挟んで

南朝方を必死に食い止めていた

「駒城跡」へ。


こちらは

城跡の北西部が残っているのみ。
(実際は東西120m、南北180mのお城)



小田城、関城、大宝城とともに、

南朝側の常陸国における重要な戦略的拠点。



このお城の奮戦がなければ

「神皇正統記」を書く時間が

確保できなかったといいます。


1340年、

北朝側の高師冬(こうのもろふゆ)の猛攻にあって

落城。






駒城くん、

あなたもよくがんばった!!!



**************************************
約670年前の南北朝時代、
ここに中御門少将藤原実寛が城主として立て籠もった。

南朝の北畠親房らは勢力を伸ばそうと、
延元三年・暦応元年(1338年)小田治久の小田城に拠った。
関城の関宗祐、大宝城の下妻政泰らと共に、実寛は城を固めた。

そこで北朝の将高師冬(こうのもろふゆ)は
山川城(結城市山川)に陣を置き、
延元四年・暦応二年(1339年)10月、
鬼怒川を渡り大挙して攻めて来た。

これに対して駒城の守りが堅く、
激しい戦いとなるも、
興国元年・暦応三年(1340年)5月27日に
師冬軍の猛攻によって落城し、実寛は捕えられた。
**************************************





Posted at 2021/04/18 18:55:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2021年04月17日 イイね!

古河の隠れた(⁉)歴史スポット。

古河の隠れた(⁉)歴史スポット。


古河市にある、意外な歴史スポットをご紹介。






まずは「鮭延(けいえん)寺」。(2021.3.27参拝)




ここは、智徳・仁義の武将

「鮭延(さけのべ)秀綱」のお墓があるお寺です。



鮭延秀綱は、出羽山形の城主・最上家70万石の家老。

なぜに、最上家家老のお墓が古河にあるのか??


略歴を見てみましょう。

******************************************************

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに呼応して
直江兼続率いる上杉軍が、最上氏の長谷堂城を包囲する(慶長出羽合戦)。

秀綱は副将格として長谷堂城に派遣され、
城主の志村光安を助け、楯岡光直や清水義親らと共にこれを救援した。

秀綱は部隊を率いて上杉本陣に迫るなどの奮戦ぶりを見せ
『永慶軍記』には、
直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、
後日兼続から褒美が遣わされた
とある。

戦後に最上氏が出羽山形57万石に封じられると、
秀綱には真室城11,500石が与えられた。

元和3(1617)年、
年少の最上義俊が最上家の家督を継いだことに反対し、
秀綱は義光の四男・山野辺義忠を擁立したため、
家臣団は分裂して対立。

このお家騒動(最上騒動)が理由で
元和8(1622)年、最上氏は改易。

秀綱も佐倉藩主・土井利勝預かりとなったが、
後に最上騒動の不始末を許されてからは土井氏に仕えた。

このとき、与えられた知行5千石を
山形以来の家臣14名にすべてて分け与え、
自身は家臣の下を転々として暮らした
ともいわれている。

******************************************************

そうです、秀綱を預かっていた土井利勝が、

佐倉から古河に移ったので

秀綱も古河に移ったのでした。




この秀綱さん。

利勝の温情により賜った5千石を

みな家臣に分け与えてしまい

自分は無禄に。

家臣を励まし続けながら、余生を送ったといいます。


彼が没したとき、家臣らは一寺を建立し、

殿の姓をもって寺号とし、

「鮭延寺」としたのです。


なかなかいいお話です。



さて、

こちらのお寺には

なんと、

江戸時代初期の陽明学者・

熊沢 蕃山(ばんざん)さんの

お墓があります!

(蕃山69歳のとき、幕政批判のかどで
古河城に蟄居謹慎)


幕末、蕃山の思想は

藤田東湖、山田方谷、吉田松陰などに影響を与え

倒幕の原動力となりました。




お次は

近くにある

静御前ゆかりの地へ。





静御前は奥州・平泉に逃れた源義経を追って、

侍女の琴柱とともに古河の下辺見村まで来ましたが、

ここで義経の死を知り、

橋の上で奥州に行くか京に戻るか思案したのちに

戻ることとしました。


しかし悲しみのあまり、

伊坂(現久喜市栗橋)で病に伏し、亡くなりました。


その、思案をした橋こそ

この、「思案橋」です。





Posted at 2021/04/17 20:55:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記
2021年04月11日 イイね!

那珂市、ご朱印ドライブ ②♪

那珂市、ご朱印ドライブ ②♪


「常陸ニの宮 静神社」へ!







静神社は、かつて、

東国の三守護神(鹿島神宮、香取神宮、静神社)として

崇拝されていました。


延喜式神名帳(927年)にも記された

式内神社です。



二の鳥居。


楼門。




本殿・拝殿・楼門は、

天保年間(1830年 - 1844年)、徳川斉昭による再建。







末社の「手接(てつぎ)足尾神社」へ。


山を下りるにつれ

だんだんと空気感が変わってきます。

(なぜだか、
頭の中には十万石まんじゅうのCMのあのフレーズが流れてきました。
<埼玉県民限定、かな?> 『風が語りかけます。~』)



空気がおいしい!!



とってもいい「気」に満たされた空間。



おだやかーな気持ちで

しばらくたたずみました...。





静神社のご本殿には

国の重要文化財に指定されている

社宝の銅印が納められています。


これは、水戸藩主・徳川光圀公が社殿を修造するときに

本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』と彫られた

銅印が見つかったことをたいそう喜び、

黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされています。


(金文字は黄門様のもの! 印は奈良時代のものです!)




ここ、静神社の神官の子で

水戸藩士だった斎藤監物(けんもつ)さんのお墓が

静溜池の向こう側にあります。




彼は、桜田門外の変に参加、

重傷を負いながら

斬奸趣意書を老中・脇坂安宅邸に届け、

その夕刻には、肥後藩・細川越中守邸に預けられましたが、

傷が悪化し、5日後の3月8日に死去、享年39歳。



池の反対側に来ました。


静神社の「一の鳥居」が見えますね。





気が引き締まります。










鳥居のそばにあった、タンポポ。

ちっちゃーな、緑色の命、見えますか?




「監物斎藤君 墓」




静神社が遠くに見えるこの

こんもりとした丘一帯に

斎藤家の方々のお墓が集まっています。

(神式のお墓もあります)



けなげに輝く命。



斎藤監物 辞世の句

「君がため つもるおもいも 天つ日に 

とけてうれしき 今朝の淡雪」









Posted at 2021/04/11 19:51:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記
2021年04月11日 イイね!

那珂市、ご朱印ドライブ ①♪

那珂市、ご朱印ドライブ ①♪

まずは

「鹿嶋三嶋神社」




「那珂IC」から10分ほどで到着。

















お次は「一乗院」。

(至徳3(1386)年、開山)

日本一の毘沙門天像が、インパクト大!









「七福神堂」と「叶い橋」。






ご本堂。


毘沙門堂。






天正8(1580)年に再建の「薬師堂」。

中には、徳川光圀公寄進の

薬師如来像が安置(室町時代中期作)。








出世観音。




落語家さんや

芸人さんの絵馬がいっぱい。








ご朱印を待っている間、

通りがかりのお坊さんから

「そのスーリーのリュック、

いいですよねー。

うちの奥さんも違うタイプの持ってますよ」と

ここからしばし、楽しい会話が始まりました。



こんなちょっとした会話が

一生思い出に残るものです♪


毘沙門天像下のお堂に入ってみます(100円)。











一乗院さん。

なんだか、仏様のテーマパークみたいで

存分に楽しめました。



お次は「文殊院(戸村観音)」。

(永承年間(1050年頃)に創立。
佐竹氏の信仰が厚い)


ホトトギスが鳴きまくり。




近くにある「戸村城跡」との関連も

感じさせますねー。


















ご本堂裏の景色、

最高です。








Posted at 2021/04/11 17:43:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記

プロフィール

「念願の「赤松宗旦 旧居跡」へ! http://cvw.jp/b/861852/47669302/
何シテル?   04/21 13:42
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