
すいません。 今回の主人公は、ロードスターではありません。
紫電改および、四国の城を巡る旅です。

9月16日(土) 全日空、羽田発9:30発に乗り込みました。

飛行機オタクなので、エンジンナセルの ロースルロイスのマークに目がいってしまいました。

松山空港からシャトルバスでまずは、JR松山駅へ、 思ったよりこじんまりした駅です。

市内を路面電車で移動、 今年は愛媛国体だったのですね。

まずは、坂の上の雲ミュージアムへ、
あれ、メインストリートに面していないの?
横に入ります。

見つけました。

設計は、安藤忠雄、館内の写真は、取りませんでしたが、スロープ伝わっていき、展示物をみていく方法になっています。
途中に、

萬翠荘(ばんすいそう) ?

松山藩主の末裔が、大正期 1922年に建設した、別邸です。(社交場)
確かに優雅です。
ミュージアムから見えます。

萬翠荘(ばんすいそう)

萬翠荘(ばんすいそう)、中の晩餐室、 シャンデリアが優雅です。

このシャンデリア、ガラスでなく、水晶でできているので、最近は、パワースポットとして人気があるそうです。

お腹がすいた。GU~。 時間がもったいないので、 大街道のスタバにて。
窓越しのテーブルから、坊ちゃん号や町並みが丸見え。 ということは、食べている私も丸見え。

腹ごしらえも終え、 いざ、松山城へ、 平山城のため、三の丸までゴンドラを使います。

まずは、最初の門、 20万石の門、思ったより大きい。

二の丸にて、 天守閣がまだ先です。 ここでも20万石のすごさを感じました。

二の丸から、 市内を。

二の丸の城郭の高さ。 すごい、ここは、上れないよう。

二の丸から、本丸へ、

地下(米蔵)から、天主閣内へ、

城内へ、 階段は、いくさの時に使うので、階段が急。

マークが2つ、左がオリジナル久松家の家紋、 右が、徳川(=松平)からもらった家紋 =>譜代大名扱いでした。
でもって、幕末は、佐幕派にならざるえなくなり、 反政府側のため、明治時期には、愛媛県出身者は政府内で重用されない状況へ?

天主閣からの眺め、流石、20万石。 立派です。

ディテール1
鉄砲狭間の数が尋常でない、 狭間と狭間の距離が、通常の城の2/3くらいの間隔。

ディテール2
鉄砲狭間、この隙間にもあった。 始めて見ました。 まったく隙のない城構え。

帰りは、搦め手口から出てみました。

搦め手口からの天主閣、 裏側からも威風堂々。

今回、ガイドをしていただいた、岩崎さん(68歳)、お若いですね。
と話をしたら、ガイドをはじめて1年半、勉強中です。 とのこと。
楽しい解説ありがとうございました。 1時間半もお付き合いしていただきました。

三の丸を搦め手口から大手口へ移動します。

搦め手口から、大手口へ裏側を移動します。

最後は、ゆるキャラ、『よしあき』くんと、
松山城は、加藤嘉明によって1603年から建築が始まり、完成真近の 1627年、幕府の命で、会津へ転封(異動)
させられ、自分で作った城を見ることなく1631年に死去。
あと面白いのは、 この城は、1784年、元旦に落雷で焼失しましたが、
1820年から再建工事に着手し、35年の歳月を経て1854年に天主閣を再建しています。
よくも、幕末時期にさしかかるのに、いくさの時にしか使わない、天主閣を再建したものだな~と、よくその時期に藩にそのお金があったなと関心しました。
だって黒船以降の1854年に出来上がっているのですから。
まあ、1820年には黒船はきていませんが。。。 もしかしたら、1800年くらい以降黒船などがちらつき始めたので、がんばって城をつくったのかもしれません。

今日のフィナーレは、瀬戸内の景色が美しい、予讃線下灘駅です。
この場所へ来るまでの海岸線をドライブすることのなんと愉快なこと。

着きました。 駅付近には、正式な駐車場がなく、駅付近のじゃまにならないところへ。

さすが人気の場所、

ホームから見えるのは、 瀬戸内海 !

う~ん、いい感じ。
今日は、雨模様で残念。 !!
こんな感じが黄昏時を感じさせていい。

当人は喜んで見ましたが、この時間と景色には似合わない。 没。。。

陽も暮れましたので、帰りましょう。
ここから、本日の宿泊地の宇和島まで、90分

19:00すぎにホテルに到着、本日は、無事にタスクをおえることができました。
一息してから、コンビニへ買出し、本日の飲み物を手に入れました。
* 本日の歴史探索の旅にお付き合いいただきありがとうございました。
Posted at 2017/09/21 20:29:07 | |
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