
残念ですが
来年からSAABの商標が消滅するそうで、約70年の歴史がとうとう終わりになります。自分が初めて手に入れたのは'80年代で900Turbo16(Classic)のマリン・ブルーメタリックの4ドア・セダンでした。

タン色の本革シートはとても贅沢な皮革を使っていて同じスウェーデンのボルボの本革シートとは柔らかさも鞣(なめ)しの出来も
ずっと高級でした。向こうは3ナンバーでこちらは5ナンバーでしたが値段が240(通称タンク)と比べて100万円以上も高かったのはボルボが償却の済んだ古いOHCエンジンだったのに対して900はツインカムでそれだけでも高価なエンジンでしたが更にターボを追加して高出力化し、おまけに当時はレース車くらいにしか付いてなかった
インタークーラーまで標準装備したからです。さらにブレーキも当時は珍しい4輪ディスクを備えてましたので完全に「
羊の皮を被った狼」でした。実際、BMWの3尻はカモにしてました。東名下り線海老名SA手前の登り坂左カーブで床までアクセルをベタ踏みする3尻の兄チャンを尻目に追い越して行くのは痛快でした、左ハンドルだったので悔しがる顔がよく見えました(おぃ)。3ナンバーのBMWがまさか5ナンバー車に負けるとは思わなかったでしょう(何とワルな奴w)。 考えてみればネット160馬力は今でこそ大したことないですが
当時はほぼ最強スペックで、あのレビン・トレノも2T-G型エンジンで「グロス」120馬力を誇っていた時代です。(ネットに換算すりゃ8割掛け程度でしょうからギリで3桁届くかどうか) それに4輪ディスクブレーキでしたから
効きもバッチリでこれに危うく助けられたこともありました Σ(゚Д゚)。
幌を被ってもなおデザインに破綻のないカブリオレは希有な存在だった。
以前他の人のブログに絡んだ時にバラしましたが、当時自らCMに出演した
五木寛之氏の真っ赤な900Turbo16にも新横浜近辺で何度かスレ違いパッシングの挨拶を交わしました。それほどめったに出会わないクルマでしたが氏のライオンヘアとサングラス、開けたサンルーフはとりわけ目立ってました。今は環状二号線などと大層な名前がついてますが昔はまわりに何も無く車線が多いだけの道路で(新横浜前のビル街出現以前)一部飛ばす人達もいました。駅前を過ぎればすぐ警察署(今は裏手に移ったが現在の税務署のある場所)でよくそこで強制デートの車を目撃したものです。
おっと脱線しましたが宝石をカットしたようなデザインの900の後で一回り大きい9000が出てこれは乗りやすかったのですが独自色が薄れました。ボンネットは特徴的なダブル・アクションの前ヒンジが廃されフツーに。

新車の開発費は莫大なので車体をフィアットグループと共同開発したからです(Tipo-Quattro Project)。フロントグリルとテール・ランプこそ各社のそれでしたがあとは似たようなものでこれでは個性が出ません。兄弟車のフィアット・クロマ、ランチア・テーマ、アルファ・164との差別化がうまく図れなかったのがつまずきのはじめだったのでしょうか。New900はさらにひどくて
オペルの流用部品で作った車でガワをヒットした900に似せただけ、さらに後継の9-3や9-5はもはや
名だけでSAABのユニークさは消え失せました。ワレンバーグ財閥から切り出されて徐々にGM傘下となりましたがそのGMがポシャってしまい惨めな結末に。これからはSamSの記憶の中で生き続ける運命ですが、ワタシャこれから一体あと何年生きられるの?
思い出など
900にはサイドシルがなく補強バーの入った重く分厚いドアを開けるとシート真横まで開いてすごく乗りやすかったことや歩行者の安全最優先の前ヒンジのボンネット構造(しかも整備性も確保)とか、航空機のように湾曲した前スクリーン、センターコンソールのエンジン・キーホール(事故時に膝を傷つけないため)等々ユニークな仕掛けの連続に
これぞ北欧のクルマだと感じ入って北欧文化に興味が湧き、以後北欧まで夏に何度も旅行を繰り返す羽目になりました。SamSがスウェーデンの銀行に勤務するのはさらに数年後のことです。ちなみに首都ストックホルムのSamSの実測では道を走る10台のクルマの内5台がボルボ、4台が日本車を含む輸入車(独車多し)そして残りの1台がサーブという割合でした(うわ、大負けだゾ)。 長文大変失礼しました。m(._.)m
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2016/07/11 00:15:37