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SamSのブログ一覧

2019年07月26日 イイね!

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・東横線昔ばなし)

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・東横線昔ばなし)ヨコハマ昔ばなし、今回は横浜と渋谷を結ぶ東急東横線のターミナル駅の話です。
(ただし横浜の反対側の話ですが)


数日前の新聞によればいよいよ東急百貨店東横店が来春に87年の歴史に幕を下ろし閉店となるようです。現在渋谷駅周辺は再開発事業が進められていてその一環で渋谷駅直結のこの場所もスクラップ・アンド・ビルドが始まっています。

古い地下鉄銀座線(日本最古の地下鉄)で渋谷に到着してJR乗り継ぎの出口を使わずに昔からある階段を下って改札口を出るとそこは既に東急百貨店の中、一種異様な迷宮の世界でした。
何故ならば東横店は東館、西館、南館と3つのウイングで出来ていて床の高さも微妙に違い、平衡感覚がおかしくなるアプローチだったりとホントにメイズにさ迷い込んだ気分を味える場所でした。

もっとも昭和30~40年代までの百貨店黄金時代までは常に混雑する場所でした。まあどの百貨店も同じでしたが。ここが閉店すればもう誰も歩いて7~8分かかる松濤の東急百貨店本店まで行く人はいないでしょう、今でも十分ガラ空きですけど(^▽^)

SamSがよく行ったのが西館の上層階にあった東横ホール(東横劇場)で、東横落語会というホール落語でした。ここで聴いた円楽や談志、正蔵(彦六)の噺は忘れられません。小さんの血色の良い顔が懐かしい.....(一体何十年前の話なんだ!)

昔のことを言うならばそれこそ玉電の終点渋谷駅が東横店の2階にあり小さい緑色の電車が発着してたのを覚えていますが何か....?

残念ながらこの世には一つとして変わらぬものは無く、毎日少しづつ変わってゆくものです。渋谷の街もみな同じで、すべて無常の世界です。

SamSが子供の頃に良く通ったプラネタリウムのある東急文化会館もずっと前になくなってヒカリエになりました。パンテオンという1,100人以上が座れた映画館で満員の中、「E.T.」や「トップガン」を見た記憶はまだ残ってます。

今のシネコンじゃ小さな劇場の数ばかり増やして対応してますが、千人以上が一度にどよめくとスゴイ反響となる事を知る人がいなくなって行くのはちょっとばかり寂しいゾ....

最後はうまく纏まりませんでしたが変わりゆく渋谷に昔を懐かしんでみました。

45友の会、告知に注目!
Posted at 2019/07/26 23:30:19 | コメント(5) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 日記
2019年02月07日 イイね!

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・本牧辺り3)

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・本牧辺り3)さて最後はザ・ゴールデン・カップスのその後を追います。

'72年に解散後は時々再結集してるうちに後半ドラムス担当で入ったザ・カーナビーツのアイ高野の訃報が届いたのがちょうどSamSががんに罹る頃('06年)、そしてその2年後にデイブ平尾ががん療養中に心不全で亡くなりましたが当時病から復帰したばかりのSamSは実に残念に思いました。後を追うように柳ジョージもその数年後に逝きました。

5年ほど前に本牧ゴールデン・カップ50周年を記念してライブでマモル・マヌー(Vo)、ミッキー吉野(Kb)、エディ藩(Gt)、ルイズルイス加部(Bass)などが古巣のゴールデンカップに集まったと聞きましたが、彼らが現役なのは嬉しいもののデイブ平尾の不在は寂しい限りです。元は彼とエディ藩が始めたバンドですから。

ちなみにメンバーはハーフ一人しかいなかったのに皆それらしい芸名にして「全員ハーフのバンド」として売り出していたのは今では黒歴史のようです。笑) マモル・マヌーなんて全部カタカナだけど実は三枝守だし。爆) 

左がエディ藩の近影、そして驚くなかれ右のお爺ちゃんがルイズルイス加部の今! (前回紹介の甘いマスクとはえらい違いですね~)

彼らの代表作「長い髪の少女」はマモル・マヌーがボーカルでデイブ平尾は合いの手(「どうぞ~♪」、「きっと~♪」等々)を入れるだけ、というのは意外と知られていません。(笑)

ところで今回このブログを書くために調べたところ、'64年にオープンしたゴールデン・カップは以後ずっと同じ場所で移転せずに続けていたそうです。始めに書きましたがSamSが道路の向こう側の店の存在に気がついたのは6時過ぎて灯が入ってからなので昼間は全く気付きませんでした。今でも通り過ぎてしまいそうです(おぃ)。
あの頃は既にバンドは解散してましたが、矢沢永吉も出たそうなので当時は誰が出演してたのやら。

ヨコハマのミュージック・シーンといえば今ならCKBつまりクレイジー・ケン・バンドでしょうが、今回は40年近く前のハマのサウンドマシーン(CKBか)を紹介してみました。
とはいえもう彼等を知る人も少なくなったなぁ......

ゴールデン・カップから1ブロック元町寄りの反対側には「イタリアン・ガーデン」があり、メジャーになる前のCKBが出てましたが今は改装され名もイニシャルをとった「IG」となりバンドステージもなくなってただの音楽遺産と成り果てました。「イタリアン・ガーデン」というCKBのアルバムはそのトリビュート版です。(セットで昔通りに再現)

エディ藩の親父さんは中華街の「鴻昌」をやっていたが継いだ彼は結局音楽の道を選んだので十年ちょっと前に閉店となってしまいました。残念!

最後に本牧通りの山手署から先の米軍住宅は後に返還され再開発されてマイカル本牧となったのはご存知の通り。歴史となりかけている横浜博'89と同じ年にオープンし、ちょっと悲しい推移(?)がありましたが当時はSamSも東京から月数回は週末に出没したものです。

.....まあ何故スペイン風だったかは謎ですが。笑) 
オープン当初の数年が最も輝いていた時期でしたでしょうか、バスしかないアクセスの悪さで嫌われたようですが駐車場は沢山用意され不便とも思えなかったのですが......悲)
(後から出来たみなとみらい地区がずっと便利だったのは事実ですが)


特注:初回にしれっと書いた「チャブ屋」は今は死語ですがググッて頂くとハマの深い闇に触れられます。(怖) 
最後の最後に一言足せば実はゴールデン・カップの裏通りが昔は一大チャブ屋街でした。驚)
Posted at 2019/02/07 23:29:52 | コメント(3) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 日記
2019年02月04日 イイね!

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・本牧辺り2)

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・本牧辺り2)本日はSamSの中高生の頃から話が始まります。
(←当時のファッションがよく分かるゾ)
折りしもちょうど邦楽ではグループ・サウンズ(GS)の勃興期でいろいろなグループが出てきてました。4~5人で同じ「制服」に身を包み、どれも似たようなメロディラインのゆったりした曲を歌って演奏するスタイルで振り付けはなし。

ザ・タイガースが「僕のマリー」などを女々しく歌って人気が出た頃です(←これ覚えてる人は以下の文が理解し易い)。
他にもザ・ジャガーズ、ザ・ワイルドワンズ、ブルーコメッツ等が人気でした。当時は「ヤング720」という朝番組でデビューしたての新GSが演奏するのを見て学校へ行く毎日でした。

そこにある朝、突如横浜出身として登場したザ・ゴールデン・カップスをみて魂消(たまげ)ました。私服で登場したからではありません、サウンドからして全く違ってました。当時は単調なコード進行で始まり、サビでちょっと盛り上がり同じメロディのリフレインで〆る(「僕のマリー」を覚えてます?)、てのがGSの作法でしたが........

これが始めっから喧しい! リードギターがギュンギュン鳴り響き、ドラムも始めから大音響で、おまけにベースが滅法上手くてリードギターを追いかけて着かず離れず、そのうちベースがメロディまで奏で出して聴いたことのない「リードベース」となって曲を引っ張る.....いやはや参りました! SamSのようなド素人でも腕が全く違うのは聴いてすぐ分かりました。

ザ・ゴールデン・カップスはあの「ゴールデン・カップ」の専属バンドとしてあくまでハマのローカルバンド的存在でテレビ露出の機会は少なかったのですが、音楽の腕はダンチでした。ブルーコメッツですらすべての曲がシンプルなベースコード進行の時代だったので彼等の音楽を受け入れられない人達も多かったと思います。60年代後半のGSブームの頃、彼らはそれに一線を画して本牧で自分達の音楽を追求してました。米国の最新R&Bでしたがそれに聞き耳を立てていたのが東京からのプロミュージシャンや芸能人という構図だったと後で知りました。

たまにテレビでカップスが「長い髪の少女」を演奏してた覚えがありますがあれは売るための強制されたポーズ、多少はヒットしましたがライブ演奏の際は持ち歌(アルバム曲)など歌わずに英語曲ばかりだったそうで、たまにサービスで歌ったくらいとか。大体彼等をチンケな日本のGSの枠に収めること自体が無理筋な話、まだわが国には概念もなかった本格R&Bバンドだったのですから。
ただ相変わらずGSはわが世の春を謳歌してましたけど。(笑)

ルイズルイス加部(ルックスも今のアイドル並↑)の神懸り的なリードベース、これまたエディ藩やケネス伊東の素晴らしいギターテク、歌も上手い長身のマモル・マヌーのドラムスとデイブ平尾のボーカルの5人は音楽だけで言えば当時ずば抜けた存在でした。

人気は(演奏下手な)タイガースの方がずっと高かったのですが。その後ミッキー吉野(のちゴダイゴ)がキーボードに入ったりベースに柳ジョージが入ったりしましたがやはりSamSにはオリジナルメンバーが一番でした。

(最終回に続く)
Posted at 2019/02/04 22:59:22 | コメント(5) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 日記
2019年01月31日 イイね!

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・本牧辺り1)

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし・本牧辺り1)SamSが国大の学生時代、自動車部だったことは以前に明かしました。バイトでトラックの運転手として本牧の工務店で一日過ごすことがありました。水道工事屋さんから自動車部が頼まれて部員をドライバーに派遣してSamSも時々学費稼ぎに参加してました。

場所は本牧通りを進んで山手警察署手前の通りに面した古い工務店で車庫は裏手にあり車はエルフの4座キャブでした。朝ここに行き職人さんたちを乗せて出発し、仕事先でただ待機するだけ。読書したり勉強したりして仕事終わって戻ると日当一万円を頂けまして'70年代半ばにしては割りの良いバイトでした。

ある時、帰りが少し遅れて6時過ぎると本牧通りの反対側に赤い灯がついてどうやらバーのような店がひっそり存在していたことが判りました。今でいう山手署から先は当時米軍が駐留していてフェンスが続き、その内側にはカマボコ型兵舎とか一軒建ての芝生で区切られた宿舎がずっと点在していたものです。ソレはまさに柳ジョージとレイニーウッドの歌った「フェンスの向こうのアメリカ」そのものの世界でした。

山手署向かいには米軍のPX(言うならば購買部)とかFireStation(消防署)があったのを覚えてます。地元の人達がPXで買い物するためにはMP(憲兵隊)のいる場所を通らないといけませんでしたがほぼフリーパスでした。もっとも向こうのトレーナー一枚買うにも米ドル建ての値段でしたから旅行でドル紙幣を余らせたとかでないと手が出ませんでした。

さてその怪しげなレッド・ランターン灯る店に戻りますがベース(米軍基地)から歩いてツー・ブロックほどで米兵相手の店なのは明確でした。確か数軒隣には産科の看板も出てましたからあれはきっと堕胎専門の医者だったと思います。近くにチャブ屋もあった場所だし、米兵の子を身籠った夜の女性相手の商売だったのでしょう。

この広い本牧通りには昔市電が走っていたのはうっすら記憶にあります。さてそのバーのような店ですが、くねったネオン管は辛うじて'Golden Cup'と読めました。
.................え?!  そうです、「ゴールデン・カップ」です。
実は気付くのに時間が掛かったのですが、あのGSのザ・ゴールデン・カップスとすぐには結びつきませんでした。だって時代は'70年代半ばでGSブームは過ぎてたしカップスももう解散した後だったんですから.....

(続く)
Posted at 2019/01/31 23:45:32 | コメント(3) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 音楽/映画/テレビ
2017年10月04日 イイね!

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし4・まぼろしの横浜大学)

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし4・まぼろしの横浜大学)(本日も書き溜めた文章ですみません)
前回から1年以上経ってしまいました。2年掛けてこれでやっと4回目、先が思いやられますが、さて本日のお題は一気に約70年前にワ~プです!

(←写真は拾いもので関係ありません)

 終戦直後に新しい学制となった時に「我こそは横浜大学!」と名乗りを上げた学校が三つありました。名前に競合が発生したのですが、その争いは文部省(当時)の調停で収まりました。
その結果その名は永久欠番となり、一つは市立の「横浜市立大学」、そして私立の「神奈川大学(県名を採用)」、最後に新制国立大学として「横浜高商」、「横浜工専」と「神奈川師範」を統合した「横浜国立大学」と決まりました。
市大は昔のY専(横浜商専)、そして神大(ジンダイと発音して神戸大/シンダイと区別する)は昔の横浜専門学校とすべての候補が「横浜」を冠していたのでどれを選んでも負けた候補に恨みが残る(詳しくは井沢元彦氏の言霊関連の本を)と考えたのでしょう、三方一両損の落語(大岡裁き)のような裁定となりました。
 SamSの叔父二人はそれぞれ市大と国大を出て学校の教師となり、私も国大で会計学を学び会社勤めを始めました。当時は大学数が多くはなかったのでまだ学生が大切にされた時代でした。
SamSは自動車部にも入っていて車庫のあった工学部の弘明寺へ行くと商店街では何かと余禄がありました。食事時にサービスしてもらったり、ゼミのコンパの時には先生の顔の利く店で勘定をマケてもらったり女将さんが挨拶で顔を出して必ず追加サービスの肉皿が出たり、工学部の先輩達は堂々とツケ(出世払い)で飲食をしてました。
ちょうど常盤台に移転した直後で私が学んだキャンパスは元ゴルフ場(旧保土ヶ谷CC)、グリーンの左ドッグレッグがよく分かる構内の景色は工事直後で回りは赤土でほぼ緑のない状態でした。横浜新道出口にあり今は当時植えたばかりの若木も大きく生育し鬱蒼とした林となって、いかにも大学キャンパスらしくなってますが......おっと脱線失礼(^^ゞ

 以降の新設大学にもそれ故「横浜大学」の名はありません。横浜商科大学、桐蔭横浜大学、横浜薬科大学、横浜美術大学、横浜創英大学......大学名はすべて横浜と何かの合成名称で、確かに神奈川県に大学を新設しようと思えば一番イメージの良い(と思われる)横浜を大学名にするのは誰でも思いつくことでしょうが「横浜大学」が今でもないのは以上のような理由からです。

 う~ん、段々想い出してきたけど確かに昔は何かと「国大の学生さん」と地元で大切にされて皆が学生に優しかった時代でした。昔のことですっかり忘れてましたが、思えば古き良き時代だったなぁ(*´-`)


オマケ:西島秀俊さんという俳優も国大の出身だそうで眞鍋かをりさんとともに知られてます、あと加藤雅也さんとかも。
でもSamSが知ってる後輩と言えば黒木香サマくらいだゾ(おぃ)、おっと忘れちゃいけない桜井眞一郎氏は大先輩ですが(`_´)ゞ

Posted at 2017/10/04 22:56:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 日記

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