
さて最後はザ・ゴールデン・カップスのその後を追います。
'72年に解散後は時々再結集してるうちに後半ドラムス担当で入ったザ・カーナビーツのアイ高野の訃報が届いたのがちょうどSamSががんに罹る頃('06年)、そしてその2年後にデイブ平尾ががん療養中に心不全で亡くなりましたが当時病から復帰したばかりのSamSは実に残念に思いました。後を追うように柳ジョージもその数年後に逝きました。
5年ほど前に
本牧ゴールデン・カップ50周年を記念してライブでマモル・マヌー(Vo)、ミッキー吉野(Kb)、エディ藩(Gt)、ルイズルイス加部(Bass)などが古巣のゴールデンカップに集まったと聞きましたが、彼らが現役なのは嬉しいもののデイブ平尾の不在は寂しい限りです。元は彼とエディ藩が始めたバンドですから。
ちなみにメンバーはハーフ一人しかいなかったのに皆それらしい芸名にして「
全員ハーフのバンド」として売り出していたのは今では
黒歴史のようです。笑) マモル・マヌーなんて全部カタカナだけど実は三枝守だし。爆)

左がエディ藩の近影、そして驚くなかれ右のお爺ちゃんがルイズルイス加部の今! (前回紹介の甘いマスクとはえらい違いですね~)
彼らの代表作「長い髪の少女」はマモル・マヌーがボーカルでデイブ平尾は合いの手(「どうぞ~♪」、「きっと~♪」等々)を入れるだけ、というのは意外と知られていません。(笑)
ところで今回このブログを書くために調べたところ、'64年にオープンしたゴールデン・カップは以後ずっと同じ場所で移転せずに続けていたそうです。始めに書きましたがSamSが道路の向こう側の店の存在に気がついたのは6時過ぎて灯が入ってからなので昼間は全く気付きませんでした。今でも通り過ぎてしまいそうです(おぃ)。
あの頃は既にバンドは解散してましたが、矢沢永吉も出たそうなので当時は誰が出演してたのやら。
ヨコハマのミュージック・シーンといえば今ならCKBつまりクレイジー・ケン・バンドでしょうが、今回は40年近く前のハマのサウンドマシーン(CKBか)を紹介してみました。
とはいえもう彼等を知る人も少なくなったなぁ......
ゴールデン・カップから1ブロック元町寄りの反対側には「イタリアン・ガーデン」があり、メジャーになる前のCKBが出てましたが今は改装され名もイニシャルをとった「IG」となりバンドステージもなくなってただの音楽遺産と成り果てました。「イタリアン・ガーデン」というCKBのアルバムはそのトリビュート版です。(セットで昔通りに再現)

エディ藩の親父さんは中華街の「
鴻昌」をやっていたが継いだ彼は結局音楽の道を選んだので十年ちょっと前に閉店となってしまいました。残念!
最後に本牧通りの山手署から先の米軍住宅は後に返還され再開発されて
マイカル本牧となったのはご存知の通り。歴史となりかけている横浜博'89と同じ年にオープンし、ちょっと悲しい推移(?)がありましたが当時はSamSも東京から月数回は週末に出没したものです。
.....まあ何故スペイン風だったかは謎ですが。笑)
オープン当初の数年が最も輝いていた時期でしたでしょうか、バスしかないアクセスの悪さで嫌われたようですが駐車場は沢山用意され不便とも思えなかったのですが......悲)
(後から出来たみなとみらい地区がずっと便利だったのは事実ですが)
特注:初回にしれっと書いた「チャブ屋」は今は死語ですがググッて頂くと
ハマの深い闇に触れられます。(怖)
最後の最後に一言足せば実は
ゴールデン・カップの裏通りが昔は一大チャブ屋街でした。驚)
Posted at 2019/02/07 23:29:52 | |
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ヨコハマ昔ばなし | 日記