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SamSのブログ一覧

2016年07月21日 イイね!

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし3・誰が言ったか中華街)

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし3・誰が言ったか中華街)これでやっと3回目、う~む半年に一度のペースですか....大汗)

 現在では横浜の観光名所ベストテンと言えば必ず中華街が入ってきます。ベストスリーにだって入りそう、それほど旅行者には親しまれて必ず訪れるべき場所になっているのですが.......

............実は中華街というのは比較的新しい呼び名であることを皆さんはご存じでしたか? それでは昔はその場所を一体何と言っていたのか? これが本日のクイズです..........って違うだろ、おぃ!   懐かしい改装前の聘珍樓↓
 
 失礼しました。実はSamSが高校や大学入学前後まではごく一般的にそこを南京町(なんきんまち)と呼んでいました。今でも神戸ではそう呼んでいますがここ横浜では戦後に入り口の大門が建てられた時に新規に「中華街」と大書され、以後そう呼ぶ事が推奨されたそうです。しかし市民が早々に呼び名を換える訳もなく昭和40年代くらいまではハマの人達にちょっとナンキンマチまで、などと普通に使われてました。でも実は昭和30年代までは南京町は女性が昼日中に歩ける場所ではなかったのです。SamSの経験ではある時現在の中華街大通りを歩いていると丁度華正楼(脇を入った本館ではない方)の角で私服の刑事(デカ)が数人華正楼を取り囲んでました。まるで映画で見たシーンそのものでした!(モノホンは野暮ったい格好してました) それぞれがトランシーバー(死語だゾ)で連絡を取り合ってましたからきっと店の中で麻薬取引の寄り合いか何かがあったに違いありません。SamSは怖くなりすぐ通り過ぎましたからその後の話は存じません。そんな怖ろしい場所でしたから若い女性が昼に歩くことは考えられないエリアだったのです。勿論今ではすっかり観光地化されものすごい人出で大手を振って若い女性が大勢路上を歩いてますが昔は違ったのです。朝になると路上に死体がひとつふたつ転がっていることもあるような、そんなハマの暗黒街の雰囲気を残したエリアでしたから中学生くらいまでは親に友人達と行くことを禁じられていたのも覚えています。今じゃ考えもつきませんけどね。中学や高校の同期と会う時にはSamSも南京町と言いたくなりますが、とりあえず自粛してます。笑) この話って、今40~50代の人達にも通じない話になったかも? 爆)
漢方の商店の棚↓

注:写真はネットからの拾いものです。 <(_ _)>
Posted at 2016/07/21 21:18:36 | コメント(2) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 旅行/地域
2015年12月30日 イイね!

無常な日常(ヨコハマ昔ばなし2・庶民の足はチンチン電車)

ヨコハマ昔ばなし、夏に第一回をアップして以来大変ご無沙汰しました。<(_ _)> やっと第二回のアップです。↓

 ヨコハマの路上から姿を消してからかなり経ちますがやはり忘れられないのが市電です。当時は市電の線路が市中に広く四通八達していてそれこそ何処に行くにも庶民の足となっていました。前回伊勢佐木町の話が出ましたが当時の国鉄(JRじゃない)終点の桜木町駅前(根岸線開通前)から市電に乗って出掛けて行ったのです。次から次へと市電が来ていた記憶があります。次の停留所などは目視出来る距離なのですが広い直線道路などではずっと先まで何台もの電車が見えていたものです。そこから山手の丘の上までとか、または山手トンネルを抜けて本牧通りを米軍基地を横目に根岸、磯子の先の杉田まで通じてました。繁華街は吉野町、16号を川沿いに下り磯子へと。今でも途中の滝頭に市電保存館があり実際に見る事が出来ます。しかし自動車の発達と共に脇に追いやられるようにして消えてゆきました。確かに自動車道と併用するので交通事故も多くなってきたんでしょうね。停留所近辺で鳴らすチンチンという鐘の音(いくら好きでも敬語の「お」は絶対に付けないで下さい!)が可愛らしい愛すべき乗り物でした。今でも幾つかの都市で路上電車が実際に走行しているのを見るにつけ、その地で長く愛されて欲しいと思わざるを得ません。(チンチン電車と呼び習わした記憶があります/絶対に敬語の「お」は.....)
市電は元々明治期に神奈川⇔桜木町間に引かれたものが大正期に横浜市が買い取り以来路線網を拡げてきたものです。生麦から杉田まで行こうと思えば乗り継いで行けました。

(写真は昔の横浜駅東口/市電保存館より)
 数年前にスタジオ・ジブリの「コクリコ坂から」というアニメを見て感じたのが昔の横浜へのオマージュでした。主人公達も当たり前のように市電に乗り、坂の上の家から海を見はるかしていて自分が小さな子供だった頃の懐かしい風景がごく自然に重なり合いました。横浜をイメージして作ったと説明がありましたが、あの風景を本当に理解出来る年代は恐らくかなり限られているだろうな(自分より年長者)と思いました。

 市電と似て異なるものにトロリーバスという乗り物もありました。無軌条(むきじょう)電車とも呼ぶそうですが、上に張った電線に接する屋根から突き出た二本の角で電力を供給して走った乗り合いバスのことです。これも同じ頃に見られなくなりましたが路面電車と違いレール敷設の手間が要らないために低コストで採用出来たので横浜市交通局が導入したそうです。現在の横浜駅発着の市バス201/202系統(内回り/外回り循環)が後を取って代わりました。昔このバス(トロリーじゃない方)で岡沢町の横国大まで通ったのが懐かしい....

 モータリゼーションの勃興と共に自動車が交通の主役となってゆき、結局脇に追いやられてしまい最後には廃止の憂き目を見た市電でしたがトロリーバスと共に「電力で走行する乗り合いの乗り物」ですからどこかでボタンの掛け違いさえなければロー・カーボンの低公害車両として今でも立派に生き残っていたかも知れませんね、ちょっと残念です。川崎でも走っていたのを覚えてます。しかし今でも広島、札幌、富山、鹿児島その他の都市で市民の足として活躍しているのを見るにつけ小さかった頃の記憶が甦ります。(そうだ、自分が住む東京でも一路線だけ今も残っているんだっけ!)

 早くも年末となり今年一年この無常な日常ブログに目を通されてきた皆様に感謝を申し上げます。来年も気ままにのんびりやってゆきます。最後にオフ会でのSamS号のお尻のショットでケツをまくります(おぃ).........


Posted at 2015/12/30 10:55:15 | コメント(4) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 旅行/地域
2015年08月20日 イイね!

無常な日常(ハマの繁華街/ザキ)

無常な日常(ハマの繁華街/ザキ)自分にとって古き良きヨコハマを感じさせてくれていたイラストレーターの柳原良平氏がお亡くなりになりました。マドロスパイプを咥えた船乗りの絵などで古いハマを思い出させてくれた縁(よすが)がこれでひとつ失われた気がします。ここに謹んでご冥福を祈ります。合掌。

 さていよいよヨコハマ昔ばなしの初回の始まりです。
皆さんはヨコハマというと何処を思い浮かべますか?今ならみなとみらいとか横浜駅周辺、それとも山手の丘の上でしょうか? 意外かも知れませんが昔、横浜の外れに住んでいた自分がヨコハマ(この場合は中心地、と言う意味)に行くというのは当時最も人の集まる繁華街であった伊勢佐木町を指していました。日本初の洋画封切館「ヲデオン座」を始めとして東映、大映、日活系列館など幾つも映画館が並び大衆娯楽に飢えていた若者達が大勢行列を作っていたのを覚えています。また商店街は大変な人出で、ここを休日にぶらつくのをイセブラ、ザキブラなどと呼んでました、銀ブラと同じ感覚で。当時国鉄(JRじゃない)京浜東北線の終点はまだ桜木町でしたのでやや歩きましたが後になり根岸線が開通して関内が最寄りの駅となりました(知ってました?)。でも徐々に人の流れが遠のいて行き横浜の中心地は横浜駅周辺へと移って行きました。横浜駅西口が整備され地下街が出来た辺りからでしょうか。それ迄は東口が正面玄関で西口は完全な裏口扱いでした。大きな時計がメインの東口駅舎にあり国道1号に面していて、そこからちょっと下れば蒸気機関車が入れ替え出来る扇形車庫がありました。京都の梅小路ほどではありませんでしたが横浜駅のすぐ近く、今で言うと高島一丁目ですがいつの間にか消えてしまったのが残念です。
 話を伊勢佐木町に戻せば野澤屋松屋などの百貨店もあり人で賑わっていました。夏は入り口に花の入った氷柱が置かれていてよく手で撫でたものでした。我が家では年に1,2回は贅沢をして有隣堂(現存)近くの不二家(現存)に行き、2階にあったレストランで食事をしたのが楽しい思い出になっています。当時としてはとびきりハイカラな行動だったものです、今じゃ笑われそうですが。だから行く日はとても楽しみでした。ああ、それから有隣堂の隣には博雅というシューマイの名店がありました。ここはいつでも大きな丸い蒸かしたてのシューマイを店頭でも蒸かしていて、もうその味といったら!.....崎陽軒のシウマイとは味が全く違うものでしたが今でもその味を覚えています。確か自分が高校か大学の頃に店が無くなってしまい寂しい思いをしました。その後十数年たって一時復活したもののやがてまた閉鎖という経緯を辿ったので、更にその後東京駅八重洲口裏に同名の中華料理店を見つけて勇躍入ったもののがっかりした(全然違ったゾ!)思い出もあり今でも大変残念に思っています。ああ、もう一度食べたいゾ! 話がまた食べ物のことになってしまいましたが、あの伊勢佐木町商店街にかつて存在した名店の中には二十四時間営業のハシリ、飲み屋ながら蕎麦や饂飩の旨かった根岸屋もありましたがある時火事を出して店が灰となってしまい、以後再建されなかったのが残念です。それから野澤屋のその後ですが商売がふるわず松坂屋に買収されました。その横浜松坂屋も結局は閉店に追い込まれました。松屋はもっと前に閉店して松坂屋が買って西館としましたが無理な二館体制が無駄な投資となり閉館時期を早めました。今ではモールの休日の人の流れもかなり減って県下随一の繁華街の看板を完全に下ろしました。残念ですがこれも時の流れか....青江三奈の吐息で有名になった「伊勢佐木町ブルース」なんて唄もありましたね。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」と並んでこいつはハマのご当地ソングなんだナ....あとはゆずの「桜木町」か、ゆずは売れるまでここのモールでずっと路上ライブをしてたんですね。
 
 おっと、忘れる処でしたが自分が小学校に入る前つまり昭和三十年から三十三年頃にかけて小児喘息の治療でこの近くの医者に通ってました。もっとも母の背に負われていたかもですが、記憶では人が多かったのは伊勢佐木町から長者町に掛けてのメイン・ストリートだけで道1本はずれた大通り公園の通りは空襲で焼け野原のままでした。その焼け野原を整備して飛行場にして何とセスナが離着陸していたんですよ!! 今だと弥生町から阪東橋に掛けての辺りだったでしょうか、米軍から返還された直後かな......記憶の中のあの髙い視点は負われた母の背中からでした。今じゃとても考えられませんよね、でも夢でも記憶違いでもない事実なんです。

 ああ、初回から衝撃的な思い出を語ってしまった。笑) これでオフ会の時に皆さんから一歩引かれてしまいそうです。(^0^;)
Posted at 2015/08/20 22:55:44 | コメント(5) | トラックバック(0) | ヨコハマ昔ばなし | 旅行/地域

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