2015年07月01日
家族のルール
6月15日、16時前、父が乗った船は静かに岸を離れた。
あまりに静かな出港は、見送る側も拍子抜け過ぎる位だった。
程なくして正式に確認があり、私は連絡に追われた。
優先乗船券を複数持っているのは知っていたが、六文銭まで持っていたのか。
浄土真宗の教義ではそれは不要であるという事を、後日、教えてもらい、ちょっと胸のつかえが落ちた。
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主治医は入院直後に状況を説明したが、私たちは知っていた。
今回の入院が最後の入院になるかもしれないことを。
また強心剤を打って不調の心臓を動かせるという事が、どれだけのリスクかも。
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生まれつき心臓に障害を持っていたものの、結婚し、3人の息子に恵まれた。
心臓の障害により、20代の東京での入院生活、40代での滋賀での入院生活、そして65歳の時の入院生活を余儀なくされた。
20代ので入院生活は心臓カテーテルでの検査ということであったようだが、検査時にモニタは消え、たまたまカテーテルの先が詰まった血管を拡張したようで、退院できたらしかった。
40代の入院は私も覚えのある所であり、往復140キロほどを、車で往復していた。
65歳の入院は、家族にとっても厳しい現実だった。
心臓が肥大化している。また弁が閉まらないため、充分に血液が体を回らない。
福井の病院では、心臓移植しかないと言われた。
京都の病院では、人工弁という選択肢があることを告げられた。
豚またはチタンの2択になるが、チタンは体に馴染まない場合もあるようだった。
ただし、18年前であるが、当時、体力があったとしても成功率は30%を切っていた。
この時、実家ではイベントが起きようとしていた。
手術日が、兄の結婚式の2日前であった。
この時に、実家の家族のルールが決められた。
手術が失敗して死んでも、結婚式は執り行う。
”生きてるものが優先。”というルール1は家族の合言葉となって、その後の私たちを支えた。
手術当日、”今日はいい天気やな。”とぽつりと漏らした。
居合わせた家族は嗚咽をこらえ切れず、病室から去った。
私は家族に”アホめっ! 我慢せい!”と思いつつ、間髪いれず言い返した。
”明日もええ天気やぞ。起きたら見られる。”
手術は半日以上かかり、夕方になって術後の姿を見た。
心臓のあたりから数多く出ている血液の入ったチューブ。
うちの妻がよく即倒しなかったものだと今でも思う。
ここから、奇跡が起きた。
チタン製の弁は心臓によく馴染み、しっかりと血流を送り届けていた。
手術数日後、妻と病院に見舞いに行ったとき、遠くからスタスタと歩いてくる姿があった。
あの動けなかった姿からは想像もできない、ピンピンした姿に驚く私たち。
動けるようになると、流石は元酒造会社の社長であった人である。
あーだ、こーだと飛び散る毒舌。
未だにそれを家族は根に持っているし、当然本人も知っていた。
なぜなら、退院後、散々それを酒のアテにして退院を祝っていたからだ。
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病院から搬送された自宅。
寝ずの番として父の傍で一晩を過ごした。
時々、顔を見て”なぁ、なんで起きんの?”と思っていた。
本人には悪いが、枕元で母、兄達と酒盛りをしていた。
出てくる話は今更ながら、悪口ばかり。
だって、”ほんとにいっぱいやらかしてくれた”ので、全ては事実なんだ。
反論できずに悔しかろう。
それでも、通夜では感情を殺しきれず崩れていた。
忙しい兄に代わって、今回、実家の裏方一切を取りまわしていたのが私なのだ。
リビングニーズをたくさん突きつけてきたのだよ、父は。
それに対応するために、また結果的に葬儀となり6月は半分ほどしか勤務していない。
ほんとは一番泣きたいのは、父と接する時間が一番少なかった私なんだ。
今回、兄には喪主としての立場で臨んでもらうため、私は黒子に徹している。
法務局、銀行、郵便局。たくさんの通帳と印鑑と引き落とし。
預貯金の振り替えと残高管理、問題点の整理と対応、報告。
正直、泣いている間もなかったわ。
泣いていたのは銀ちゃんの中だけで、病院や実家では涙は見せられなかったよ。
お棺の中には、父愛用の品々や好物を、これでもかと言うぐらいに入れた。
寝ずの番していた翌朝、家族でリストアップしたものだ。
帽子、杖、靴、日本酒のパックと紙コップ、塩辛、豚足、ドテ煮。その他、本人愛用の品々。
あれだけ入れたら、あっちでも忙しいだろうね。
酒屋だけに酒をしっかり入れていたら、父の兄弟と兄に見つかり、”どうせなら、供えておけ”と祭壇に取られてしまった。
お前らなぁ! それを買い出しに行くために、今朝も早くからいろんな工作をしたんやぞ!
出すなら言わんかぁ! その酒はな、後で身内が行った時に酌み交わすつもりで紙コップを入れたんだけど。
というわけで、お酒のパック1本は没収された父だが、当然他にもお酒は入れてあるので、まぁ良しとしよう。
葬儀は滞りなく進み、兄は喪主としてきっちり挨拶を述べた。
昔から感心するが、こういう所では、兄は毅然とした対応をする。
弟ながら、喪主の挨拶は良かったと思うよ。
父の棺の上には、父が継いでいた酒造会社のレッテルを一枚置き、その上に花を手向けた。
私の明確な意思表示であり、それは元酒造会社の社長として棺を送り出したかったからだ。
また、貴重なレッテルをしっかりと胸元で持ち、弔問客に見せていた。
火葬場への葬列、私は単独で銀ちゃんと加わった。
フロントガラスにはレッテルを掲げ、●●家三男として父について行った。
妙に凛とした気分があった。
お気に入りのkalafinaを流しながら、火葬場に着いた。
最後のお別れの後、90分で父は美しい白骨となっていた。
お骨を拾う時に担当者が説明してくれた。
父の胸部には、骨と骨を結びつけたワイヤーが入っていた。
私たちはあるものを探した。
そのあるものとは、18年間、父の体の一部として動き続けてくれた、チタンの人工弁だった。
黒くなってはいたが、ちょっと厚めのメダルのようなそれは、白骨の中では異彩を放っていた。
どうしてもそれを骨壷に入れたくて、私たちは探したのだった。
それが見つかった時、私は再度合掌した。
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”結果、オーライ”という家族のルール2は、この葬式の後、家族の間で決まった。
それと、”飯を食わんようになったらおしまい”というおまけのルールは、父よ、あなたが私たちに残したのだ。
不謹慎かもしれないが、父を見て育ったから、こんな性格になったんだ。
だから、残された者という感じは数日で消えた。
なので・・・・
全員、元通り。
ピンピンしている・・・・・。
ちょっと49日までは忙しいけどね。
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Posted at
2015/07/01 23:00:35
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