"青山一丁目の伝説"と言えば…
バブル期にF1へ参戦していたHONDAエンジンを
古舘伊知郎が形容した名コピーなんだけど
リアルでも伝説が多いんです
そしてそのひとつが終了しますた
というわけで終了した青山一丁目の伝説とは↓です
HONDA 青山ビル
東京都港区南青山2-1-1 本田技研工業株式会社の本社機能を持つビル
1985年8月竣工 鉄筋コンクリート構造 地上17階/地下3階 総床面積40,224㎡
設計は椎名政夫建築設計事務所 建設施工は間組(現・安藤ハザマ)
R246と外苑東通りの交差点=青山一丁目交差点のランドマークとしてもお馴染み
これゆえに古舘伊知郎の名言が生まれたわけでもありますけど…
地上1Fのウエルカムプラザは車両展示なども含めたイベントを行うスペースで
当社も何度となく足を運んだりもしましたが…知らなかったなあ
というより数日前に知りますた
ウエルカムプラザは3月31日で終了
本社機能も5月31日で終了
事実上の最後に話題となったのがNISSANとの合併話がご破算

これがメディアで見た国立自動車総研的青山ビル最後の記憶なんだけど…
普段絶対に見ることがないNISSAN社長の乗る社用車(確かFUGA)が
HONDA総本山とも言えるこの建物に入って行くのが印象的ですた

余談ですがHONDAの社用車運行は帝都自動車交通に委託しており
役員車として世にも珍しいLegendのハイヤー仕様があったりもします
あっ! これってリアル青山一丁目の伝説だw
話がズレちゃったので戻しますが
いったいどういうことかというと…
現在は空家状態で解体待ち
だから…
"青山一丁目の伝説"終了
と言ったまでのことなんですよ
まあいろいろあるんですけど…この本社でもある青山ビルですが当社的には
最後の本田宗一郎イズムだらけ
単なる企業の本社施設で終らない
知れば知る程ユニーク過ぎるビル
たとえば有名な話ですけど
16Fの役員室は壁で仕切られることなくオープンな空間
これは派閥を作ることを防ぐと言う目的からそうしたという
またその他のフロアも部署見直しによるフロアプラン変更でも
内装工事を簡略できるというメリットもある
さらに…

敷地面積に対して建物がカナリ内側にオフセットされていることにお気付きかな?
これって建物的には小さくしなくてはいけないというデメリットがありますが
これこそが↓の人の力

本田技研工業株式会社 初代代表取締役社長
本田宗一郎 -1906.11.17 - 1991.08.05-
通称:オヤジ ひとりPower Of Dreamsともいえる創業者であり技術者
この人がいなければ今のHONDAは存在しなかったわけでして
行動・言動に数々の伝説を残しているのはもうみなさんもご存知かと?
そして青山ビル設計→竣工にかかった10年近い時間の中で宗一郎も最高顧問に
勇退はしていましたが正に相談役な相談ノリまくりで↓な宗一郎イズムが…
地下に設置されるヒバ製水タンク
別名:宗一郎の水
ネタとしてスーパーカブで配達に来た蕎麦屋のあんちゃんに喉を潤してもらう
こんなコンセプトでいいんじゃないと宗一郎の提案で実現したのですが
勘のいい方ならもうおわかりですね ↑はあくまでも表向きなわけで現実には
災害発生時の緊急物資
保存食糧も多数備蓄されていたわけですがこれも宗一郎流リスクヘッジかと?
さらに…これは↑の敷地面積問題とリンクするのですが外観が宗一郎してます
↑の画像からわかりますかね?
窓ガラスが建物の外側に露出していない

一方でバルコニーを装備して実質床面積は減少
ええ…これも当初の設計から宗一郎が指示した変更事案なのですよ その理由は
地震などでガラスが破損した際に落下
歩行者などにケガなどさせてはならん
そして外装材も角を尖らせずに丸みを持たせたモノにする配慮もしたほかに
自身が亡くなった際の事にもその考えまで↓な言及してまでおいたりする
自動車・バイクメーカーの関係者が交通渋滞を引き起こすような葬式はもってのほか
生前驚くまで周囲への気遣いをしていただけの人のことはある
建物の床面積というより有効スペースは減少するけど安全への配慮
建物にクラッシャブルゾーンを設置するというクルマメーカー的アイディア
正に技術者にして経営者な本田宗一郎だからの気付きかと?
ほぼ同時期のHONDAブランドと同じだ
MM思想を目一杯建物にも取り込んだ(笑)
そして↑のバルコニー構造については↓の方も異口同音な指摘があったとか?
本田技研工業株式会社 初代取締役副社長
藤沢武夫 -1910.11.10 - 1988.12.30-
宗一郎の右腕 史上最強の参謀 至高の金庫番 究極の番頭 無敵の経営戦略者
いろいろ言われはしますがHONDA躍進を進めたシナリオライターでもあるかと?
Powered By 本田宗一郎の裏側には常にWritten By 藤沢武夫が介在しており
技術部門に没頭する宗一郎に代って会社のハンコを預かり経営に全集中
藤沢がいなかったら会社はとっくに潰れていた
本田がいたから会社はここまで大きく成長した
互いに↑述べる程であったが1973年に宗一郎と共に最高顧問へ勇退
当社的には宗一郎も好きだが藤沢なしでHONDAを語れないつーか
腕のいい放送作家みたいな方なんですが…w ええ同じ指摘したからね
ベクトルは違うんだけど着地点は同じ
結局は盟友なんだよなあ
経営者としてのリスクヘッジは同じですたから
というよりも↑の2人による如何にもな青山以前原宿本社時代のエピソード
役員室周辺を白いツナギでウロウロする宗一郎に事情を知らない
掃除担当のスタッフが困惑していたところに着流し姿で藤沢が出社
益々困惑したスタッフに"こう見えても私はこの会社の人間ですよ"と
さらなる燃料を投下した共にいたずら好きな一面があるんですが
普通そんな恰好の役員がいる会社の方がおかしいだろう?(笑)
尤も逆にHONDAらしいと言えばHONDAらしいんだけど…ww

↑な2人のスピリットが生きたHONDA青山ビル まもなくホントのサヨナラです
で…本社機能は↓の2ヶ所に移転しています
虎ノ門アルセアタワー
HONDA 和光ビル
港区虎ノ門の他にセクションによっては所縁のある地埼玉県和光市へ分割移転って
如何にもHONDAらしいんだけどこれはあくまでも世を忍ぶ仮の姿
何年か後に建て替えをした新青山ビルに帰ってくることは宣言しています
ただですよ
シン・青山一丁目の伝説
↑が生まれるかは疑問ですねえ

宗一郎程の人心掌握術と伝説を持った経営者
藤沢武夫のような経営センスを持った名参謀
今のHONDAにいませんからね
そこが気掛かりです(笑)