友人がテレビ業界で働いていまして、ここ数年はテレビ離れ著しい私ではありますが、彼の企画立案した番組は欠かさず観るようにしています。
コロナ禍でなかなかロケに行けなかったようですが、昨日久しぶりに彼の番組が放送されるという連絡をもらい、急な連絡だったので放送時間に帰宅する事は叶いませんでしたが、スマホ一つで録画予約できる現代科学の恩恵を感じ、帰宅後、少しお高めのウイスキーを舐め舐めしながら視聴しました。
彼は私の友人の中でも一際異才で、何がと言えばその思考回路と感性が。それらは私には到底持ち得ないもので、親しく対等に交友しつつも、いつもどこか嫉妬と羨望の念を抱いています。
そんな彼の作る番組は、バラエティを見てもどこか冷めた視点が加齢とともに増え始めた今日この頃、私にとって世界への好奇心を揺り戻すリハビリ的老化防止的役割をも担っているのですが、いかんせんこの番組、特段面白おかしい場面もなく、起承転結もなく、近いものでは「世界の車窓から」のようなマッタリしたもので、何も考えずに観ているとボケ防止の役には立たず、なんとか番組を通じて彼の思考や感性を味わおうとする滑稽な緊張感でもって視聴しています。
特異な思考と感性、幅広い知識で繰り広げられる彼との会話は大変楽しく、たまに焚き火を囲んで語り明かせば話があちらこちらと飛び火する波瀾さと、でもどこか既定路線な安心感が同居し、いつの間にやら火に焚べる薪も残り僅かと気づいた時の名残惜しさを思い起こすと、彼と会話を交わす事が如何に私にとって価値がある時間かを思い知るのです。
数年前、そんな彼が作った番組が始まる、しかも本来裏方であるはずのディレクターである彼が主役と会話する構成という、誰に需要があるかと言えば正に私にという極限にニッチな構成ということで大変楽しみにしていましたが、初回放送を視聴した時はだいぶ期待外れという感想でした。
主役にインタビューする彼の問いかけが極めて変哲面白味のないものだったからです。
その感想をそのまま伝えると彼は困ったような申し訳ないような顔で「だよね」と。
少し考えればわかる事ですが、お上の意向やリソースの限りがある中で自分を表現するというのが如何に難しいか。そして何より彼はあくまで裏方であり主役では無いという当たり前の事を私は慮っていませんでした。主役より面白い事をインタビュアーがしゃべっては番組のバランスが崩れる。
番組を通じて彼の思考や感性を味わおうとするならば、彼が直接話す言葉ではなく、主役の話をどう引き出したか、そして引き出した数多くの言葉の中から何を切り出して、どんな風景や音楽を繋げて映像にしたのかを考えるべきだったのです。
当時の私の感想は、例えるならカメラ好きの芸能人が趣味で撮った写真を見て「本人が写った写真がイマイチ」と文句を述べているような的外れな視点でした。そうではなく被写体を通じて、ファインダーを通して何を表現したかったのかを読み取るべき、そんな当たり前の思考が、彼が身近な存在だったが故に出来ていなかったと、今になって申し訳なく、また恥ずかしく思うのです。
おりしも昨夜の放送は、数年前の初回放送で訪れたベルリンの地を再訪するという企画。コロナ禍やウクライナ侵攻が街や人々にもたらした変化を追うその企画は、ひいてはディレクターとしての彼の、そして視聴者である私の視点の変化を測る放送でもありました。
そんな思いを込めて視聴すると、登場人物から漏れる言葉一つ一つ、映し出される風景の一瞬一瞬を、数年前とは少し変わって受け取る事ができ、「人は変わっていくもの」というインド系ニュータイプの言葉を思い出しながら夜が更けていくのでした。
Posted at 2022/11/02 08:24:55 | |
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