
その知らせは会社のグループウェアでまわってきた。
石巻へ瓦礫を片付けに行くボランティア活動の募集であった。
ただし、日程はかなり強行で、土曜日の夜初、日曜日の朝着で、お昼に現地を出発するというものであった。
しかし、私は先日の千葉の土砂片付けボランティアの経験から、たった数時間の行動で、瓦礫撤去などできるはずがないと思っていた。
そのときも、10人のチームで半日かけて家1軒の土砂を片付けるのがやっと。
その何十倍も量があるであろう津波の被災地で、どれだけの活動が出来るのか、正直疑問に思っていた。
その後、仙台市若林区の被災地を見て感じた経験をグループウェアに入力し、この件は気に留めながらも忘れているつもりだった。
ところが、つい先日。
一緒に社内研修に参加している先輩から、今回のメンバーに運転できる人が俺しかいない。夜間運転して、現地で活動して。。。と聞いたのがきっかけで、そんな無茶をするのであれば、運転手として参加したいと思ったのであった。
そして、上司の取次ぎもあり、運転手として参加させていただくことになった。
モチロン、自分の役割は、参加メンバーを現地に送り届け、そして無事に会社に帰ってくることである。
ボランティア活動は、瓦礫の除去から弊社が最も得意とするトイレ掃除になっていた。
トイレ掃除なら、どんなに困難な便器であれ、経験豊富な弊社社員があたれば、会場に必ずや成果を残すことが出来る。とてもよいアイデアだと思った。
そして、目的地は、写真の大槌中央公民館(体育館)になっていた。
大槌の知識はまったくなかったのがなんとも恥ずかしい限りである。
出発の土曜日は体力を残しつつ、欲求不満にならない分だけバイクを漕いだ。
午後には就寝し、「夜勤」に備えていた。
その頃、参加者の大半は本社で会議だったのだ。
夜中はぶっ通しで運転できるように体を作る。これでも夜勤に関してはプロでね。
21時に本社に集合し、災害派遣証明書を握り締めて?一路東北に向う。
8人がフル乗車した会社のVoxy。以前も運転したことがあったのだが、あまり好きにはなれなかった。
アクセルはほんのちょっと踏むだけで重い車体を快適に走らせるようになっていた。
逆に、そこから踏み込んでいっても何も変わらない。
おそらく、そのようにプログラムされているのだろう。
ハンドルはまったくもってわからない。
Clioのように、考えただけで車が向きを変える事はなく、明確にハンドルを切らないと曲がらない。
さらに、ハンドルをどのように切ったら曲がるのか、インフォメーションが少ない。。。
とてもダイレクトなフィーリングのフランス車乗りには、この感覚はなじめない。
タブン、ハンドルをラフに切ってしまう人でも、安全に運転できるようになっているようだ。
ここで切り込むとインフォメーションがあるはずだ。。。
それを頼りに、感触を確かめながら切り込む運転はとても疲れるものだった。
日本車って、こんなものだったのだろうか?
車を運転しているのではなく、車に運転されているのではないか??
だんだん口数が少なくなる車内で、私はこの言うことを聞かない車と戦っていた。
ただ不思議と重いはずの車は、それを感じなかった。
これも、そのようにプログラムされているのだろう。通りで、この手の1BOXカーに平気でぶち抜かれるわけだよ(笑)
東北道路を北上江釣子で降りると、国道を東へ進む。
途中、遠野に入るその道は、先月も通った道だった。
大槌には7時に入ればよい。それを計算に入れ、速度と休憩をコントロールしていた。
車は釜石に入った。
釜石と聞けば、壊滅的な被害を受けている。。。
という先入観があった。
しかし、それは先月の東北でわかったとおり、本当に海岸線に行かない限り地震があったことを忘れるような何事もない風景であった。
新日鉄釜石の工場が見える。
とても大きな工場だ。車内では仕事の話なんかもしたりして「油断」していた。
それは、釜石の駅を過ぎた後だった。
商店街が見えて、久しぶりに見る街の景色にすっかり安心していた。
そ言えば、その店、シャッターが曲がっているではないか。。。
まったく、新日鉄が目の前にあるのに、寂れてしまっているので、、、は、、、なんだこれは
!!!!
これは!やられてる!!!
商店街は、津波で1階の部分が軒並みめちゃめちゃになっている。
ガソリンスタンドの柱はグニャリと曲がり、まるで何かが引っ張って行った後だった。
このあたりはリアス式なので、山と海岸が入り組んでいる。
釜石を通過すると、両石と言う地区を通る。
もうその集落は消滅していた。
何もなくなってしまった街に、ぽつんと臨時のバス停のポストだけが立っている。
車内は言葉を失うのを通り過ぎ、あれはなんだんだ?!
と、興奮して声を上げる。
両石には、頑丈な防潮堤があったが、途中でぶちきれている。
狭い谷の中は、砂漠のような光景が広がっている。
朝食を、大槌の入り口に残るコンビニエンスストアでとる。
この先に、一体どのような光景が広がっているのか?
眠さと、緊張で、とても気持ち悪い気がした。
大槌に入ると、鉄筋の建物だけが残る異様な光景が広がっていた。
仙台市若林の海岸線は、木造住宅が並ぶ住宅地であった。
だから、今は津波で流されてしまい、瓦礫を残して何もなくなっていた。
しかし、大槌の光景はぜんぜん違った。
1、2階部分の骨だけをのこした鉄筋の建物があちらこちらに点在している。
さらに、みんな焼けている。
この光景はなんなのだろう?
1、2階部分を破壊し、吹き飛ばし、そして焼き尽くす最新型の爆弾が使われたような、そんな光景だった。
駅を左に曲がって高台に上ると中央公民館のはずだった。
それが、見渡す限り駅はない。
めちゃめちゃに壊れた学校を左に目にする。あまりの光景に手が震える。
高台に建物がみる。おそらく、あれが中央公民館だろう。
急な上り坂を登ると、山城の跡だった。そう、ここが中央公民館である。
この中になって、まともに形状をとどめている建物だった。
高台にある中央公民館は避難所になっていた。
避難所を訪れるのはモチロン初めてだ。それも、何か異様な感じがする。
誰が来たのだ?窓から視線を感じる。洗濯物が干してあるのが見える。とても生活臭がする場所だった。
岩手掃除に学ぶ会スタッフと合流するまで時間がある。
中央公民館の高台から、大槌の光景をみていた。
街は、津波で吹き飛ばされ、火事で焼き尽くされていた。
あまりのショックに、写真なんて撮る気はしなかった。
とても静かな海が広がるのだが、街は鉄骨を残してなくなっていた。
とても、穏やかな、静かな街が広がっていたのだろう。
それが見て取れる。
しばらく、その光景を目に焼き付けていた。
さて、我々はここに仕事をしにきたのだ。
岩手掃除に学ぶ会と合流し、公民館、体育館のトイレを割り振って仕事に取り掛かる。
私と入社当時から仲がよい2人は、社長の指示で車で休ませていただくことにした。
その代わり、責任を持って会社まで運転するように。
はやる気持ちは、仲間にバトンタッチして、車内で横にさせてもらう。
遠くで、ゴトン、ゴトン。。。という重機が動く音が聞こえる。
そして、ひっきりなしに何かが動く音がする。
この街は、こんな光景になっても、鼓動しているのだろうか。
遠い意識の中、そんなことを思っていた。
しばらく時間がたったであろうか?
外の光景を見ようと車を出た。いつの間にか霧雨が降っていた。
仲間はまだ戻ってこない。苦戦を強いられているに違いない。
街の光景を眺めていると、警察官に挨拶された。私がよそ者だということはすぐにわかったであろう。
「大阪府警」と書かれた制服を着ていた。
この避難所を守っているのだろうか。聞けば300人もこの公民館に入っているそうだ。
11時過ぎ。
仲間が戻ってきた。疲れた表情を想像していたが、何か晴れ晴れしているようにも見えた。
公民館の責任者(代理の方であった)挨拶を済ませ。
会場を後にする、運転はバトンタッチさせてもらった。
公民館を出て左折すると、庁舎があった。
町長以下職員が最後まで対策会議を開いて、流されてしまった場所だった。
その光景を心に焼き付けて、現地を去りました。
この動画は、イルカ漁に抗議するため大槌に上陸していたシーシェパードのメンバーが撮影していた動画です。
この動画の成り立ちは私は評価いたしません。むしろ。。。いえ、いいです。
ですが、地震直後、街はこのような光景であった。
そして、私が通った道が、こんなに生活の香りがする道であった。
それを示す資料として。
私が通った場所には、このような街があったのだ。。。。
この人たちがいた場所、見覚えがある。私がいた場所です。
「ここは左かい?」
と言っているシーン、通りましたよ。
家や建物が、こんなにあったのだ。。。我々が通ったとき、あたりに何もなかった。。。
ところで掃除は、どんな感じでした?私は現地でのみんなの活動が気になっていました。
掃除の時であれ、もちろん公民館に避難されている方はトイレを使います。
それが、みんな「きれいにしてくれてありがとう」と声をかけられたというのです。
表現は適切かどうかわからないが、人間が出来ている。それに感動したと言っていました。
なるほど。
私が、地元で、被災して、避難所でトイレに行こうとしたら、掃除中だった。
むしろ、イラっとこないだろうか?
うちらが使わないときに掃除しろボケェ!と言ってしまわないだろうか?
そんなことを思った。
帰りは無言の車内の中、私は国見から浦和まで運転しました。
無事に、メンバーをトランスポートできたのは私の小さな喜びです。
それにしても、ちょっと疲れたけどね。
