2010年06月29日
自動車に対する価値観
今宵はやや硬めのタイトルで硬めの文章を書いてみましょう。
いくら麺好きでも毎日、スルスルっと口に入るソーメンや蕎麦を食べるよりは、たまには天一のこってりな汁と一緒に麺をズルズルと吸ったほうが、ある種の気分転換になるじゃないですか。
基本的に自動車になぜ興味を持ったのかという理由は自分でも分かりません。
幼少期にはミニカーを集めていくつかの車種を覚えていました。
巷によくいる「天童」という奴でした。色々な物事をよく吸収していました。
それはともかくとして。
しかし、俺の自動車というか乗り物に関する興味は少なくとも高校生のときまでは封印されてしまうんです。
高校のときに、バイト先の仲間が原付でバイト先まで来ているのをみて、いいなと思うようになったんです。なんかとてつもなくそいつが大人に見えたんです。こいつはこの歳でもう大人の世界を知っているなみたいな。俺もいち早く大人ぶりたかったんですよ。
それで、原付の免許を取って、スクーターや50ccのギア付のバイクに乗って楽しんでました。はまりましたね。
その頃は、四輪は邪道だなとも思っていて、いずれは中免(いまの普通自動二輪)をとって、俺は一生二輪一筋で生きてやると思ってたんです。
実際、原付より排気量が上のバイクも借りて乗り回してました。けれど、こんな俺だから、いずれはすぐに中免を取るだろうと思って、ホンダのNS-1というギア付をずっと乗り回していたんです。
高卒後に一人暮らしをはじめた場所も都心のど真ん中みたいなところで、四輪を所有するなんて発想はありませんでしたし、もう自動二輪を持つのは時間の問題だなと思っていました。まだ二十歳前の頃です。
ちょうどその頃に俺は「知」というものに如実に関心を持ち始めたんです。もともと、「お前は本読みだな」とは言われていたんです。自分が生きていることに対する意味付けみたいなのが欲しかったんです。知的な好奇心を別にして考えてみると、そうかなと自己分析しています。ゆえに、多少の書籍を小学生のときから渉猟していました。
一方でお嬢様学校の子とデートするようなナンパな面も多々あり、自分の中のペルソナ(仮面)がいくつも備え付けられていたなと自分でも認識していましたね。あまり深刻には考えませんでしたが。
結局、知に関する関心がますます向上して、試しに大学を受けてみたら受かったんです。大学に行く人間ならば、たとえ一割でも自分の知的好奇心を大いに満たし、向上してくれる奴がいるだろうと思ったんです。
それで、大学生となったわけです。
相当な書籍を読みこなしていたので、授業やレポートなんかも余裕でした。そこで、自分のペルソナの一面である遊び人の側面も大いに浮き彫りにされてきて、いろんな遊びをしました。
大学は神奈川の湘南地方にあって、しばしばウィンドサーフィンをしていたんです。
その時に先輩たちが乗ってくるクロカンやワゴンが妙にかっこよくて、それで俺も四輪免許を取ろうかなと思ったわけなんです。すごく単純でしょ?
爾来、自動車への興味は波はあるものの尽きることはなかったですね。
最初はクーペが好きで、ミニバン系を毛嫌いしていた面があったんですよ。
でも、それは狭隘な視野ですよね。自ら、ミニバンの楽しさを拒絶してしまっているわけですから。ミニバンを乗りつぶして、それでも嫌なら、自分の性質には合っていないと思えばいいだけのことですからね。
なので、その後しばらくしてから漸く、俺はあらゆるジャンルの自動車を等価に認めることができるようになりました。そのなかで当然、自分自身の嗜好性というのは出てきますよ。ただ、以前のようにあのクルマはどうしようもねぇといった風に一義的に切り捨てるのを止めたんです。相手からみれば、俺の自動車趣味なんてちんけなものに見えるかもしれませんし、お互い様ですよね。
だから、俺は自動車(というかあらゆる価値観に関して)についてはすべての車種を認め、それを愛するすべての人を認めるようにしました。だから、基本的には自動車は自分が好きな対象ということもあり、どんなクルマだろうとすべてOKなんですよ。
それに加えて、評価の軸を比較ではなく、自分の感性に置こうと思うようになりました。
たとえば、フェラーリと軽自動車を比較した場合、前者に乗っているユーザーのほうが富裕でいい生活をしているゆえに価値として高いと思っていました。
けれど、そうとも限らないのではないかと思うようになりました。
軽で家族とスーパー銭湯に足繁く通っているような人たちをよく見るんです。いかにも幸福そうです。顔つきで分かる。
単純化した例でしたが、幸福は経済的豊かさだけでは窺えないですよね。お金自体に価値は本来ないはずです。お金に価値を見出だす人間社会の決まりごとにより、価値が数値的にきまるだけのことです。俺たちは資本主義なんて呼んでますね。
ただ、俺はたくさんのお金を運用して何かを生み出すのが好きなので、その原資であるお金とお金による豊かさを大いに肯定しています。お金の話題に関しては後述します。
自動車の話題に戻しましょう。運転性能だって、軽は思いっきり踏む楽しさがあるし、小回りも効く。
そもそも自動車を運転するという楽しい行為を上下に序列づけられるかなという風に思うようになったんです。
のんびり走りたい人もいれば、サーキットで走り込みたい人もいる。もう楽しみ方は無数ですよね。
ところで、地方部には楽しみではなく、要請によりやむを得ず自動車に乗るという方がおられるのは承知しています。しかし、俺はとりあえず自分の自動車に対する基準を「自分が欲する楽しさ」という軸に置いたので、そうした方々との比較をすることもやめました。ものすごくシンプルです。
上のように思い至って以来、随分と気持ちが楽になりましたね。だって、自分の楽しさだけを考えればいいんですもの。
自分がワクワクと楽しめるほうだけに軸足を置けばいいやと思ってから、逆に色々な自動車が自分の方に引き寄せられてくるようになりました。
そんななかで、現在は日産の初代プリメーラを保持して、日々塗装やチューンなどをして、いろいろなプリメーラの姿態を見出してみようとするのが楽しみだから、所有して運転を楽しんでいるわけです。それだけです。
そういう楽しみを感じられなければ手放すでしょうし、他車種に変える可能性だってありますし、自動車に乗ることを辞めることだってあると思います。
で、俺なりの気ままな価値観をさらにいうと、下記のような台詞とは対極にあるでしょう。
「私は貧乏だから○○が欲しいけど、、、」
こういう台詞は好みではないです。
その人は現状における楽しみを知らないし、知ろうともしないから、欠乏感を感じてしまっている。比較という概念を中心に持っているから、本当は自分が心から望んでいるわけでもない自動車に投影しているのかもしれない。要は自分なりのスタイルを見出だすための自己検証ができていないと思うんです。
金銭自体は中立的なものです。要は金銭をどう運用するかが重大なことでしょう。
私はお金は喜びに使うのが一番だと思っています。喜びをたくさん味わいたいし、お金で還元できない喜びはたくさんあるけれども、お金があればさらに喜びを引き寄せられると思っているので、お金の価値を肯定しているわけです。
そして、その喜びとは自動車に当てはめれば、俺の場合は、日本中のどこのどんな道々でも走っていけて、且つオンロードスポーツ性能のある自動車を味わうことということになるんですよ。
それが喜びだからこそ、現在の自動車を所有している。
別にフェラーリでも構わないし、アルトでも構わない。色々な楽しみ方を発見できる可能性があるという点ではあらゆる車が欲しいですね。
ただ、今現在は、プリメーラで一つ創造的な楽しいことをしたいなとか(先述した塗装とかチューンとか)、面白い峠を走りたいとか、方々を自動車で旅してみたいなという気持ちが強いので、手元にあるわけなんです。
これは私の構築した価値観に過ぎません。
それこそ価値観なんて人の数ほどある。
最近ようやくそれが分かりはじめたなと思っているんです。
それでいいんじゃねえかなと俺は思います。
あらゆる人の価値観を許容しつつ、自分なりの価値観を楽しんで模索していく。
これは自動車に限らず、俺が選択した生き方なんです。平成22年現在のね。
「○○だから○○ではない」ではなく、「俺は○○だから○○だ」とか
「○○もいいかもしれないね」といった風に考えたほうが健康的なように思えます。
以上、私見。
ブログ一覧 |
自動車 | クルマ
Posted at
2010/06/29 00:35:28
タグ