2011年02月17日
日本人ならば誰もが知っている「招き猫」ですが、大概は商売繁盛を祈願してお店に一匹置いてあるというのが、通常ではないでしょうか。
ところが、世田谷区にある豪徳寺というお寺には、画像をご覧になるとわかるとおり、招き猫で覆われています。いや、これはすごい(笑)
もっとも寺全域がこのような感じなのではなく、豪徳寺寺域は全体的な印象として、雄大そのものという形容が相応しいと私は思います。
高くて赤い幹と枝っぷりを見せてくれる松並木を歩き寺域に入るときに、その迫力に圧倒されることでしょう。
一方で、禅的な静謐さがあり非常に心地よい場所です。
さて、今日の本題はここから。
実は豪徳寺は招き猫発祥の地であるとされています。ただし、発祥の地はそのほかの地域にもあり、確定された事実というわけではありません。
豪徳寺で招き猫が発祥した経緯に関して、ウィキペディアにうまく解説されていた文章があったので、抜粋してみます。
以下、斜線文字引用文。
豪徳寺説
東京都世田谷区の豪徳寺が発祥の地とする説がある。
江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。そのときこの寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずにすんだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したという。
和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになった。ちなみに、この縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺となったといわれる。幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓も豪徳寺にある。
また、同じ豪徳寺説でも別の話も有る。直孝が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていた。直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くの寄進をした…というものである。
これらの猫をモデルとしたもうひとつのキャラクターが、井伊家と縁の深い彦根城の築城400年祭マスコット「ひこにゃん」である。
前述のように、招き猫は一般に右手若しくは左手を掲げているが、豪徳寺の境内で販売されている招き猫は全部右手(右前足)を掲げ、小判を持っていない。これは井伊家の菩提寺であることと関わりがあり、武士にとって左手は不浄の手のためである。そして小判をもっていない理由は「招き猫は機会を与えてくれるが、結果(=この場合小判)までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方から。
上記引用文にあるとおり、豪徳寺は徳川幕府の譜代大名である井伊家の菩提寺でもあるんです。
鎖国を打ち破ったアメリカとの条約に反対する人たちへの弾圧政策である安政の大獄で有名な江戸幕府の大老井伊直弼のお墓もあります。
豪徳寺については、いずれ項を改めて述べようと思います。
その際に井伊直弼のお墓の写真などもご紹介したいと思います。当方、ばっちりと直弼のお墓を撮影しています(手を合わせて慰霊もしていますよ)。
日が暮れていたので、写り具合はなんですが(笑)
以上から推察できるように、豪徳寺付近は彦根藩の領地であり、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたときに、彦根藩地在の某(農民だったと思います)が桜田門から走りに走って彦根藩に急報を告げたという言い伝えも残っています。
また面白いことに(これが歴史の面白みでしょう)、豪徳寺のすぐ近くには安政の大獄で命を落とした吉田松陰(松下村塾で維新の名傑を輩出させ、同時に大思想家だった偉人ですね)が眠る松陰神社があります。
死後の世界では両者ともに仲良くやってくれていることを祈るのみです。この松陰神社についても折に触れてご紹介しましょう。
しかし、今日はまず何よりもこの招き猫の密集に注目です!
あのかわいらしい彦根城のマスコット「ひこにゃん」の源流がここにあります(笑)
Posted at 2011/02/17 22:53:22 | |
トラックバック(0) |
エッセイ | クルマ
2011年02月06日
昨日、東名高速の富士川SAで梅の花を見たときに、いよいよ春の訪れを強く感じた。二本の梅の木があって、それぞれ白色と濃いピンク色の花を咲かせていた。
梅の匂いも漂っていて、しばらく枝木の下からこの鮮やかな花を眺めていた。
余談だが、上古において花といえば、桜ではなく梅の花であった。
古来より我々日本人の感性に訴えかける何かが梅の花にはあるのだろう。
富士川の雄大な流れの向こう岸の遥かに富士山が聳えている。真っ白に覆われているというわけでもなく、どうも雪の量が少ないように感じられ、そんなところからも春の訪れというものを私は叙情した。
昼が近づくに連れて、どんどん日差しが強くなり、日本平に到着したときは長袖一枚の姿になっていた。
もともと静岡県の海沿いの地域は温暖な地として知られ、日差しも強く春の萌芽をいち早く感じられる地なのだが、今年になって初めて「暑さ」を感じた記念すべき日だった。いよいよ春が到来しているのだなという感をさらに強めた。
日本平にも梅の花が数十本咲いていた(画像はそれらのうちの一つに咲いていた梅の花)。白やピンク色の梅とともに、蝋梅の黄色い花も咲いていた。
こうした梅の花の繚乱ぶりをみると、心が晴れやかになる。
梅の花に限らず開花により、大地は彩り鮮やかになり、自然という絵具はより多彩で精密なものになる。灰褐色の絵具は徐々に使用頻度が低くなる。
ラフスケッチがだんだんと輪郭を備えて、一つの完成された絵になるように、自然界も春という季節の到来により、いよいよ豊穣な自然という作品についてのラフスケッチを始めようとしているのではないかとも思う。
Posted at 2011/02/06 14:48:21 | |
トラックバック(0) |
エッセイ | 日記
2011年01月01日
開港から続く横浜の歴史を感じたければ、山手(やまて)地区に行くべし。
近年は山手の間際まで電車が開通したが(元町・中華街駅)、それでも電車の便は良いとは言えず、急坂を駆け上り、ようやく台上の高台に到着することとなる。
平地で海際の山下公園から南下して、急な坂をぐぐっと登った後に、見渡したときの風景のほうがきっと感動的だから、ここは是非とも徒歩での山手散策をお勧めしたい。
もっとも今回、私はクルマで探訪したのだけれども、つい先月に山手を散策したばかりなのだ。
山手の街区は広大だ。
できれば、外人墓地よりさらに奥にある閑静な住宅街まで歩くのが良い。
白基調の壁の豪邸が多く、その様はまるで洋館だ。
そして山手の台上から見下ろす、横浜のビル群や港の風景は明媚そのもので、
昔、山手地区に住んでいた西洋人たちは、港に陸揚げされたり、船に運ばれたりする品物の往来をこの高台から眺めていたのだなという想像がつきやすい。
往時を偲びやすい環境が残されているわけだ。
山手公園という崖をまたいだ小さな公園がある。
明治3年(1870年)という文明開化がようやく横浜や東京辺りで花開いた頃に、
在留外国人の要請により、日本で初めての洋式公園ができた。
洋式公園というが、いわゆる公園だ。
それ以前、白河藩主の松平定信が日本初の公園(白河市の南湖公園)を造ったとされているが、こちらは湖の周囲を松並木などで整備した、どちらかというと日本庭園的な趣きがする公園である。民衆が集う場所という意味で公園の用語を用いるならば、ただしく公園なのだろうが。
ともあれ、横浜の山手公園には日本初がもう一つある。
この公園は日本のテニス発祥の地としても知られているのだ。
明治11年(1878年)という非常に早い段階で、五面のテニスコートが
当地に建設され、今日に至っている。
日本は確かに維新後に西洋化されたとはいうが、それは局地的なもので、農村部では戦後しばらくまで江戸期までの風習をそのまま残したような地域がかなりたくさんあったという。ましてや、明治の一桁代といえば、サムライ達も大名達も生き残っている時代で、鹿鳴館で優雅に踊って西洋気分というわけにもいかなかった。
しかしながら、山手地区はかように極めて早い段階で洋化が進んで、今日まで
至るのである。
洋化の歴史も百年を過ぎると一つの民族的伝統となるような気がする。
山手地区に洋風の香りが漂うのは、歴史的・伝統的保存の観点からみて、極めて正しいといえよう。
Posted at 2011/01/01 21:59:33 | |
トラックバック(0) |
エッセイ | 旅行/地域
2010年12月24日
東京多摩地区の中枢である府中市が町制を敷いていたころの建物に入ってみた。
日はすっかり落ちていて、建物のなかには誰もいない。
館内を照らす橙色の灯りだけが、私と建物を結び付けてくれる唯一の導き手となる。
階段を登る際に、きしきしっという音が濃密に聴こえてくる。
洋風モダンな建物は当時(大正8年着工の建物らしい。なんと昭和59年まで実務に耐えていた建物らしい)格段にきらびやかであったであろう。
肩にかけていた鞄を机の上に置き、椅子に座り、しばしば町長の気分を味わってみた。
思えば、府中市は遥か昔の奈良時代の律令の頃から中枢として栄えていた。
いわば、天平の昔からきらびやかだったと、あくまで詩的気分として述べても構わないだろう。
府中には武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の国府(各国の政庁)があって、当時の遺物が発掘されている。国府には必ず国分寺という国を代表するお寺が建立されたが、武蔵国の国分寺がどこにあったのかはさして紙幅を擁すことでもあるまい。
そう、東京都国分寺市である。
多摩地区は歴史が古いばかりか、歴史的な地名を長く残している地区が多くあり、
私は大変高く評価している。縄文時代の土器も多数産出され、国府が置かれる前から殷賑を極めていたことがわかる。
大國魂神社という社が、府中の中心部に鎮座している。
神社側の発表では、なんと西暦111年創建だそうである。いわゆる神話の時代のこととなる。
ちなみに、律令が整備され各国に国府が置かれるようになったのは、7世紀のことである。
想像しがたい古さだが、それだけの歴史と格式が備わっていて、この大國魂神社は武蔵国の祭祀を統括する場となるのである。
また、この社では、「くらやみ祭」という祭が古くから開催されている。かつては本当に真っ暗闇のもとで開催された。それは尊い神々が人目に触れることは許されない
という発想に基づいているらしい。
或いはこの祭を利用して、若き男女が睦みあうなんてこともあったようで、これは日本の農村の祭祀伝統からいえば、異常なことではない。
かつての日本の農村では、婚姻前に睦みあうことは否ではなかった。
睦み合いを通じて、女性が最終的に気に入った男性を結婚相手として選ぶといった形式もあったらしい。
殊に祭礼の場では、豊穣を祝うために、性的行為の自由はむしろ神々のために礼賛される傾向が日本には強かったと思われる。
現在の府中市は緑豊かな郊外の都市であり、政治の中枢機能は東京区部に委譲した。
しかし、東京区部が海だったり、湿地帯だったころに、府中は既に国府が設置され、東国のなかでもひときわの繫栄を極めていたのである。
なお、府中市の隣の稲城市では瓦が出土されているが、これは府中の国府の建物に使用するために大量に生産された瓦であるとされている。
古来、文明・文化の中枢は海沿いの区部ではなく、むしろ多摩地区にあった。
武蔵国についてはそれが当てはまるだろう。
鞄を再び肩にかけた私は、交通量の多い多摩センター方面に向かって、自動車を走らせていた。いま微かに往時を偲ぶとすれば、多摩川沿いに残る小山(丘)ではないだろうか。
それ程に現在の多摩は賑やいでいて、往年の繫栄のよすがをすぐさま見出すのは逆に困難になっている。
Posted at 2010/12/24 19:17:45 | |
トラックバック(0) |
エッセイ | 日記
2010年12月11日

年間手帳選びというのが結構楽しくて、例年だと11月頃には来年度の手帳を購入する。特に決まった手帳というのは無くて、月ごとの予定がカレンダーのように俯瞰できて、そこに一言ほど書き込めるタイプであれば、あとの中身はさほどこだわらない。手帳の色は明るい色がいい。基準といえば、それくらいだろうか。
今日、美容室の帰りに手帳をもらったのだが、それがちょうど私の感性にぴたっとくるもので、とても嬉しかった。
淡い滑らかそうな紫色を基調としている洒落た手帳で、極めてシンプルなデザイン。中身は質実剛健といった風である。つまり、機能性(スケジュールの管理しやすさなど)に重心が置かれている。
今年は手帳を決めあぐねていて、まあいいやと思って放っておいた矢先だった。
不思議なことに、ある願望を抱いて、しばらく放っておくと実現するというパターンが私の場合、非常に多い。
2011年はこの頂いた手帳を愛用することにしよう。今から使用するのが楽しみだ。
一方で、携帯用に持ち歩いている手帳もある。
以前、紹介したと思う。
こちらは、罫線も何もない無地のモレスキン製のものを長年愛用している。
ポケットに入る大きさで、ソフトカバーが良い。
この要件を満たしたうえで、現在製品ラインナップにある赤があれば、もっと嬉しいし、緑や黄色があってもいいかなと思う。
恩師が執筆した書籍の中で、彼が常用している手帳ということで紹介されていたのがモレスキンを知った機縁で、一体どんな手帳なのだろうかと思って文具屋(銀座の伊東屋だったと思う)を覗いてみたのが発端。
無地だと自由自在に自分の気の赴くままに気楽にメモできるのが良い。
書く内容も様々で、ベンチに腰かけている初老男性の印象をメモしたりすることもあれば、温泉に浸かったあとに気持ち良さを存分に絵で表現したりすることもある。とりとめのないように見えて、実は私の日常の変遷を辿れるメモ帳ともなっている。
※画像:走り去る富士急行電鉄の雄姿(たしか山梨県の三つ峠駅で撮影)
Posted at 2010/12/11 01:10:29 | |
トラックバック(0) |
エッセイ | 趣味