2012年06月12日
終業後にヤマダ電機で洗濯機を見にいく予定だったのだが、帰宅してしばらくするや、眠りに落ちたのであった。PCの熱を逃がすファンも購入しようと思ったけれど、まあ喫緊を要することではないので、良しとしよう。
全自動にするか、敢えての二層式にするか。
まあ、楽しみではある。
最近は芋焼酎に代わり、晩酌のお供としてマッコリを楽しんでいる。
今日もその新たな生活スタイルに応じて飲んでいる。
初めてマッコリを飲んだのが、21世紀初頭にソウルのセブンイレブン(東京で例えるなら板橋区みたいな地区であった。明洞からはやや距離がある)でマッコリを購入し、ホテルで飲んで以来だから、長いといえば長いかもしれない。
みんカラで知り合った方にご招待されてマッコリを飲みにお宅にお邪魔したこともあったな。
そんな事共をとりとめもなく思い出しながら。
この地球世界というのは本当に多種多様で面白い。
例えば、昨日途中までだけれども、日本の江戸時代に焦点を当てた海外の番組を観たのだけれど、これが面白いばかりか質が高い。日本で歴史教育を受けた人ならば十分に納得できるくらいのレベルにあるし、英語でナレーションを語られると、我が愛する母国が遠い異国のような感じがして、ある種の「もののあはれ」的な感傷を感じられるのも楽しい。
さっそくその番組の動画を紹介しようと思ったのだけれども。。
アドレスパスを見ても、Youtube動画として公開されているはずだ。しかし、直接リンクが張れないので、動画URLをお教えしておこう。
映像の構成が秀逸なので、別段に英語がわからなくとも楽しめるはずだ。
私もこういう映像を創ってみたいものだ。
http://www.youtube.com/show?p=BcRMz-jlw8Y&s=1
”Dog Shogun“こと徳川綱吉が紹介されている箇所まで観た。
私は実のところ、オリエンタリズム的な視点でこの動画を観ていたのだが、意に反してかなり高度な内容で、海外における日本の歴史研究のレベルが高いことに驚きとともに嬉しさを感じている。かつての人民史観よりは数段上である。

Posted at 2012/06/12 22:30:43 | |
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エッセイ | 音楽/映画/テレビ
2012年05月11日
タイトル画像の写真はスターレットの全身のパブリカで良いのでしょうか。
以下、パブリカという前提で話を進めますね。詳しい方はご教示いただければ幸いです。
この写真は数年前にいかなる拍子かパブリカの写真を見つけて、スキャニングしておきました。
パブリカにもたれかかっているのは若き頃の親父です。
ところで、私はこの白黒写真の世界が不思議で仕方ないのです。
実際、この写真が撮影された世界は彩り鮮やかなはず。しかし、白黒写真だと、その色鮮やかさは想像する他ありません。
私は年齢は明かさない性質ですが、いささか種を明かせばカラー写真の世代です。
白黒写真で写されている私の写真を少なくとも私自身は知りません。
ですので、白黒写真を見て、色鮮やかな当時の情景を思い浮かべるという作業をする必要がない世代とも言えるでしょう。
そういう訳で、いっときは上の世代の心情を理解したいがためかどうか、セピア色の写真にも凝りましたが(いっとき流行りましたよね)、白黒写真世代の方々は、こうした写真を見ると、鮮やかな色彩が蘇ってくるものなのでしょうか。
もう一点、不思議なことがあります。
主観が入りますが、この頃はクルマともたれかかるようにして自分と共に撮影するというパターンが多いように思えます。いったいなぜなのでしょう。
そして、人間がある一定のポーズを取るというパターンが多いように思うのですね。
最近では撮影時に「ハイ、チーズ」と言わなくなってきた気がしますが、撮影に型を求めることをしなくなったのでしょうね。
私が子供の頃は、「チーズ」の声を聞いてから被写体となるのが常識でしたが。
デジカメの普及でその場で撮影結果を参照できますし、何度でも撮影し直すこともできますから、別に「チーズ」と言う必要も殊更ないのでしょうね。
さて、親父がパブリカに乗っていたという話は聴いたことがありません。親父とは密にクルマの会話をするという訳でもなく、時折ふと過去の話などが出て、それで親父の自動車遍歴を知るのです。ホンダのN360やヤマハのRZ350に乗っていたという話もそうした流れで知りました。が、パブリカに乗っていたのかどうかは不明です。
まあ、親父に直接に聞けばいいのでしょうけれども、それでは面白みがありません。
祖父が乗っていたのでしょうか。
祖父はサニーに乗っていたらしいのですが(カラー写真ですね)、私には記憶がなく、私が物心ついていたころはクラウンに乗っていました。クジラのクラウンだったかな?茶色いボディだったことだけは覚えています。
その祖父も他界して数年。
しばし余談です。
私にはおよそ人の死に対する悲しみがなく、存在の永遠性を信じているがゆえに、
肉体としての祖父がいなくとも、まったくショックではありません。
通夜や葬式も、僧侶のお経や所作を眺めるのに熱心で、故人を偲ぶという感覚はほとんどありませんでした。
人それぞれということでご理解くださいませ。
弟も亡くしているのですが、こちらは私には不思議と記憶が無く、感傷という念が起きません。実は産湯の時の記憶があるのですが(三島由紀夫ばりですね・笑)、なぜか弟の死については覚えていないのです。知らせないように両親が配慮していたのでしょうね。夭折でしたから。


トップ画像の話に戻ります。
草っぱらの中での撮影ということで、かつての米軍陸軍補給基地内の日本人職員用住宅内でのショットだと思います。
祖父は戦後、英語を学習し、米軍通訳として働いていました。その頃はキャンプ座間で働いていました。
私はその頃をよく覚えています。
その祖父は脳溢血で倒れた後に、言語障害が残りましたが、驚くほどに英語を覚えていることに感心しました。才能があったのでしょうね。
時折、このくそじじいと思うときがあり、喧嘩もしました。
黙らっしゃいと言えばいいのに、私に対して「シャラップ」はないだろなんてことも思ったりしました(笑)
また、土地柄、外人からの間違え電話がかかってきたこともあり、そのときに応対した祖母に対して、「You have the wrong number」(間違え電話ですよ)と言えば良いんだと述べたことを覚えています。脳溢血後の話です。
そういうわけで、いわば社宅として父親も米軍陸軍補給基地内に住んでいたようです。その当時の写真かと思います。
一枚の写真をデータとして取り込んで、そのデジタルデータを元にあれこれ回想したり、想像したりする。こういうことができる現今の社会に生きている幸せを感じるひとときです。
またまた余談話をしましょう。
キャンプ座間に駐在していた軍人の家族と親しくなったことがあります。
ロバートという同年代のアメリカ人と親しくなったのですが、両親は物凄く驚いていました。なぜなら、ロバートと私が言語の壁などお構いなしに、緻密なコミュニケーションをしていたからです。
あの頃の記憶を思い返すと、私にはロバートの言葉が理解できました。英語という言葉には日常接していませんでしたが、ロバートの英語がなぜか理解できたのです。
面白い現象だと思いませんか。
私は逆に両親がなぜにそんなにも驚くのかが理解できなかったものでした。
そういう事共を白黒写真に写るパブリカと親父をPC上で眺めて思いました。
Posted at 2012/05/11 00:27:47 | |
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エッセイ | 暮らし/家族
2012年05月01日
最近はなんだか地球の大きさがタマゴのように小さく思えてしまう。
それくらいに距離的には遠い地域の人たちともコンタクトできてしまう世の中ゆえに。
インターネットという至宝によって。
言語の壁なんて概念はもとより私にはないけれども、仮にそう感じる人がいたとしても、その壁も崩壊するだろうね。かつてのベルリンの壁のように。
その理由は翻訳ソフトの進化だけではない。人間はもともと根本的に非言語的な事柄で通い合えるものを持っているのだと私は経験に照らして考えている。
だから、ネットの発展と相俟って、これからはどんどんと世界が狭くなっていくと思う。
私はユートピア思想を夢想しているのではなく、本当にそうなると思う。
世界は確実に狭くなると思う。
仮に歴史をちょっと通鑑してみれば、時代を下るに連れて世界が狭くなったというのは自明の事実ではないか。それが窮まり逆に世界がどんどん果てしなく孤立・分離されるという事態は予想しがたい。
時代をかなり遡らせよう。
紀元前の話である。中国大陸に巨大な統一国家ができた。国名を「秦」という。
秦は稀なる独裁者である始皇帝により、巨大な中華世界を統一した。
なお、京都の太秦など、秦出身の人々が日本に土着し、地名として残った土地は数多い。興味ある向きは調査されたし。
さて、始皇帝である。
彼は稀なる独裁者であるがゆえに、彼の死後の秦の瓦解も早かった。
秦は法を重んじる国家であり、法の適用が極めて厳格であったために、庶民は恐れおののいていた。しかし、始皇帝という大人物が亡くなったとあらば、法の遵守はたちまちのうちに乱れる。
各地で反乱の狼煙があがった。
とりわけ、有力だったのが、四面楚歌で有名な楚の国の項羽と、劉邦という二雄である。
序盤は項羽がその武勇で中華世界を席巻したものの、最後は劉邦が勝利し、「漢」という帝国を創る。そう、いま漢民族だとか漢字だとか、いろいろな局面で使用される「漢」という名称は劉邦(高祖)が構築した大帝国が由来となっている。
ここにおいて、巨大な中国大陸はぐっと距離を縮めたのである。秦のようにいっときの夢ではなく、数百年もの間(途中の数十年間断絶するが)、中国大陸をまとめ上げた。そして、中国という世界を狭くした。
ここでは秦王朝亡き後の項羽と劉邦との戦いを取り上げたが、今のインターネット世界では項羽と劉邦が手管を労した時間の何万分もの一の時間で、互いにコミュニケートできる世界となっている。
私はこうした状況を歓迎したい。
なぜなら、楽しいからだ。
この地球に生まれた以上、どうせなら地球の最果てと呼ばれるような場所にも赴きたいし、そういう場所に住む人々とも交流したい。
しかし、どうやらそういうことがどんどん容易になってきているのが現今ではないだろうか。
Posted at 2012/05/01 01:26:25 | |
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エッセイ | 日記
2012年04月29日
斜に構えて虚無的にならずとも良い。
私にはそういう一面も無きにしもあらずだったのだが(同時に社会性も両立していた)、近頃は冒頭に述べたように虚無的になる意味合いを見いだせないどころか、凡そ合理的ではないと思うようになった。
いや、思うようになっただけでなく、良いことがあれば素直に喜び・感謝するという思考パターンが定着した。
多分に自己陶酔的ながら、己が虚無的であった期間があればこそ、今の心境のありがたみをより深く味わえるのだなと心から思える。
テニス練習場にいったときに、「ありがとう」と銘打たれたトイレットペーパーが積まれていて、日頃の感謝ということで「ご自由にお持ちください」と標示されていた。
練習場の人にありがとうございますと申し上げながら、一つ頂戴したという次第である。
ここは気前がよくて、昨年はきんきんに冷やした飲み物を振る舞っていたな。
こういう飾り気もなくさり気ない心遣いをしてくれる場所にはこちらもお返しをしたくなる。
精神面で感謝するという方法もありだが、物質面ではなるべくそこでジュースを購入したり、或いはゴミを残さないとか、そういったことだろうか。
そういう行為もごくごく自然に行いたいと思うのである。この練習場に来るといつも。
昨日、横浜の鶴見に用事があったのだが、第三京浜・首都高三ツ沢線(K2)・横羽線(K1)を利用したら、思いの外早く着きそうだったので、
生麦ICで降りて、ゆっくり第一京浜を北進し、鶴見駅の周囲を一週。
続いて、生麦駅付近の長い踏切を走破し、再び第一京浜へ。
さらに、京急と東海道線を超えて実は一号線のほうまで行ってしまったのだが、それでも時間的な余裕があった。
この辺りは通過するのみで、目的地として赴いたことがないので、新鮮な経験であった。鶴見にプジョー106を購入した同輩がいたが、今はどうしているのか。
ともあれ。
殊に生麦駅付近の昭和臭さというか、いい具合に鄙びた雰囲気を感じさせてくれる商店街であり、ぶらりと散策して立ち寄りたくなるような場所である。
生麦は歴史の舞台にも登場する。
江戸末期に生麦事件(薩摩藩士がイギリス人を斬り殺した。これが理由で薩摩藩と英国が戦争をおっぱじめた)があった土地でもあり、いろいろと興味深そうな街である。
鶴見はさすがに発展しているが、西口は落ち着いたたたずまいを見せており、やはり下町的な雰囲気がする。何せ都会の超ローカル線である鶴見線の始発駅・終着駅でもあるし。
また、鶴見には永平寺と並び、曹洞宗の総本山である総持寺もあるので、こちらも訪れたいと思った次第である。
帰路は汐入ICから横羽線に乗り、多摩川を越えて都内へ。
平和島PAで休憩したあと、都心環状(C1)で帰路に着いた。
中央環状が全通すれば、時間的な面でもメリットがあるし、非常に楽しみである。
なお、都心環状から眺める東京タワーはいつも通り、赤く煌めいていた。
Posted at 2012/04/29 22:59:45 | |
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エッセイ | 日記